27.畑を荒らした山羊は、乳を出します(下)
山羊を村へ移す作業には、その日いっぱいかかった。
子山羊と雌山羊は比較的素直だったが、大きな雄と若い山羊は何度も道を外れようとする。
朝に黒穂麦へ侵入した三頭も加わり、十一頭。
人間より山羊の方が道を分かっているのではないかと思うほど、好き勝手に草むらへ入っていった。
村へ着く頃には、人間も山羊も疲れ切っていた。
ひとまず廃教会から少し離れた空き地へ、仮の囲いを作る。
倒木の枝。
古い柵。
水車建設で余った縄。
使えるものを組み合わせた、急ごしらえのものだった。
「今夜だけは、これで」
ユーイが柵を揺らし、強度を確かめる。
「明日から旧牧草地を直します」
「狼への対策も必要ですわね」
「柵を直して、夜は火も使った方がいい」
ユーイが答える。
「夜番も必要かな」
その言葉に、イデアとピムの視線が、ほぼ同時にアルゼルへ向いた。
「なぜ私を見るのです?」
「夜番のお兄ちゃんだから!」
ピムが嬉しそうに言った。
「私の役割として定着しつつありますね」
「皆様に必要とされて何よりですわ」
「もう少し華やかな必要とされ方を想定していたのですが」
「夜の山羊番も立派なお仕事です」
「評価基準が日に日に下がっていませんか?」
「実用性は上がっておりますわよ」
アルゼルは何か言い返そうとしたが、結局諦めたように微笑んだ。
「今夜は見ておきます」
「お願いしますわ」
イデアは自然に答えた。
お願いしたあとで、ふと気づく。
これは、頼ったことになるのだろうか。
けれど、領主として必要な仕事を、できる者へ任せただけだ。
そう自分へ言い聞かせた。
◇
夕方。
旧牧草地から連れてきた雌山羊のうち、子を連れている二頭から、最初の乳が絞られた。
量は多くない。
どちらも痩せており、まず子山羊へ十分飲ませなければならないからだ。
小さな木の器へ、わずかに白い乳が溜まる。
「これだけですの?」
イデアが覗き込む。
「今日は」
エスタが答える。
「餌をきちんと食べさせて身体が戻れば、少しずつ増えると思います」
「ミルカも?」
「ミルカは、もう少し先ですね」
村で飼われている雌山羊のミルカは、長く十分な餌を得られなかったせいで、身体がかなり痩せている。
今は乳を絞るどころではない。
「まず身体を戻さないと。無理に乳を出させたら、ミルカの方が弱ります」
「分かりましたわ」
イデアは素直に頷いた。
得られるからといって、取り尽くしてよいわけではない。
畑も。
人も。
家畜も。
未来まで使い潰せば、結局は何も残らない。
「これは誰へ?」
エスタが器を見る。
イデアは少し考えた。
「病気から回復したばかりの方と、幼い子供のいる家へ。特に栄養状態の悪い方を優先しましょう」
「領主様は?」
ピムが尋ねる。
「わたくしは必要ございません」
「今日、山羊に突かれかけましたね」
すぐ横からアルゼルの声がした。
「だから何です?」
「食事を十分に取っていない方が、畑を走り回りました」
「また食事監督官ですの?」
「職務ですので」
「認めておりませんわ!」
周囲にはオルドも、ユーイもエスタも、セラもいる。
また領民の前で食事について注意されるのは、領主として非常に格好が悪い。
「そもそも、この乳をいきなり病人や幼い子供へ飲ませて大丈夫なのかしら」
イデアは話題を変えるように器を見る。
「煮沸はしました」
エスタが答える。
「でも、最初は元気な大人が少し飲んでみた方がいいかもしれません」
「でしたら、わたくしが」
「私が先に確認しましょう」
アルゼルが器を受け取った。
「状態がおかしいかどうか程度なら分かります」
「味見になりませんわ」
「味も分かりますよ」
一口飲む。
全員がアルゼルを見る。
「どうですの?」
「少し薄いですね」
「味の感想ではなくて!」
「妙なところはありません」
アルゼルは器をイデアへ差し出した。
「あなたも一口」
「病人の分が減ります」
「ほんの一口です」
「必要ございません」
「では、食事監督官からの勧告です」
「非常に都合よく役職を使いますわね!」
エスタが笑いを堪えている。
ピムは堂々と笑っていた。
「領主様、また怒られてる」
「怒られておりません!」
イデアは周囲を見回した。
これ以上続ける方が恥ずかしい。
「……一口だけですわよ」
器を受け取る。
山羊乳は、まだ温かかった。
一口だけ口へ含むと、少し癖があり、草のような香りがする。
だが、不味くはない。
「どうです?」
「思ったより飲みやすいですわ」
「もう一口?」
「病人の分です!」
イデアはすぐに器をエスタへ返した。
最初に配られたのは、病み上がりでまだ身体の弱っている老人。
次に、小さな子供のいる家。
残りも、栄養状態を見ながら少しずつ分ける。
木の器一杯にも満たない量だった。
それでも、小ラズマイトで家畜から新しく得られた、最初の食料だった。
「山羊が元気になれば、もう少し増えます」
エスタが言う。
「ミルカも身体が戻って、いずれ子を産めば乳を取れるようになります」
「毛から糸も作れそうです」
セラが山羊の毛を確かめる。
「すぐには無理でしょうけれど、冬毛が増えれば少しずつ」
「糞は明日から集める」
オルドも言った。
「畑へ混ぜれば、来年の土が変わるかもしれん」
すぐに金へ換わるものではない。
借金の残額が減るわけでもない。
だが、食料になる。
衣服になる。
畑の土を肥やす。
「今回の収支を計算しますわ」
イデアは指を折った。
「失った黒穂麦の芽——三本?」
「五本です」
ローデンが訂正する。
「ほかの山羊も食べていました」
「五本……」
胸が痛む。
「豆も少々」
「そちらまで?」
「少々です」
「では損失へ追加いたします……」
イデアは悔しそうに指を一本増やした。
「それから、案山子が一本」
「私を模した芸術作品です」
アルゼルが訂正する。
「案山子です」
「価値が過小評価されています」
「元は枝と麻袋ですわ!」
「得たものは、山羊十一頭」
オルドが話を戻した。
「まだ所有権は確定しておりませんけれど」
「旧牧草地と水場も見つかった」
ローデンが続ける。
「乳、毛、肥料」
「将来は子山羊も増やせます」
ユーイとエスタも項目を加える。
イデアは少し考えた。
「……大幅な黒字候補ですわね」
「候補?」
アルゼルが尋ねる。
「持ち主が現れる可能性がございますもの。確定するまでは帳簿上、仮です」
「随分と慎重になりましたね」
「領地のものではない財産まで黒字へ計上したら、クラウスに叱られますわ」
その場にいない書記官の顔が、全員の頭へ浮かんだらしい。
オルドが小さく頷いた。
「確かに叱られそうだ」
囲いの中では、朝に黒穂麦を食べた灰色の山羊が、こちらを見ている。
「それにしても」
イデアは腰へ手を当てた。
「最初から畑を荒らさず、村の入口へ並んでくださればよかったのです」
「山羊に領地の手続きは分かりませんよ」
「教え込みますわ」
「何を?」
「少なくとも、黒穂麦を食べないことを」
山羊は柵へ近づくと、イデアの腰へ鼻を伸ばした。
今は赤い布を外している。
代わりに、腰から下げた小さな帳面の紐へ口を寄せた。
「こら!」
イデアが慌てて帳面を持ち上げる。
「これは食べ物ではありませんわ!」
山羊は諦めず、柵へ前脚をかけた。
エスタが笑う。
「領主様を気に入ったみたいです」
「畑の持ち主だと理解したのかしら」
「食べ物を持っていそうだと思ってるんじゃない?」
ピムが言った。
「失礼ですわね!」
「動物に好かれるのは、よいことでは?」
アルゼルが口を挟む。
「あなたは先ほど外套を食べられておりましたけれど」
「好意の表現が少々独特だっただけです」
「ものは言いようですわね」
「美しい者は、人にも動物にも注目されるものです」
「それでしたら、案山子ももう少し注目のされ方を選んでいただきたかったですわ」
「鳥には止まり木、山羊には食料扱いでしたね」
「ご自分でおっしゃって悲しくなりませんの?」
「再現度の問題です」
囲いの中で子山羊が、小さく鳴いた。
それに応えるように、ほかの山羊たちも次々と声を上げる。
痩せた土地。
崩れた廃教会。
細い水路。
回り始めたばかりの水車。
そこへ今日、十一頭分の鳴き声が加わった。
食料不足が解決したわけではない。
山羊を養う草も必要だ。
冬までには牧草を刈り、干し草を蓄えなければならない。
旧牧草地の柵を直し、狼への対策も必要になる。
また仕事が増えた。
けれど同時に、小ラズマイトには、昨日までなかった乳と毛と肥料へつながる道がひとつ増えた。
「アルゼル」
「何でしょう」
「黒字とは、金貨の色だと思っておりましたわ」
「ええ」
「ですが今日は、白いのですね」
イデアは、わずかに残った山羊乳を見る。
アルゼルは少しだけ考え、それから柔らかく微笑んだ。
「利益には、いろいろな色があるのでしょう」
「では、山羊に食べられた黒穂麦は?」
「必要経費です」
「五本も食べられておりますのよ!」
「十一頭の山羊を見つけるための五本なら、十分に安いでしょう」
「そう言われると反論しづらいのが腹立たしいですわ!」
イデアの声に驚いて、山羊たちが一斉に鳴いた。
まるで笑っているように聞こえた。
その鳴き声の中で、イデアはふと隣を見る。
アルゼルは近くにいる。
けれど、以前のように何でも先回りして手を差し出してくるわけではない。
今日、倒れかけた時には迷わず助けてくれた。
石垣を越える時には、何もしなかった。
その違いが、まだ少し寂しい。
それでも。
彼が完全に手を引いたわけではないことだけは、分かった。
そのことに安心してしまった自分を、イデアはまだアルゼルには言わなかった。




