26.畑を荒らした山羊は、乳を出します(上)
水車造りの合間に、ローデンたちがセードル村から持ってきた黒穂麦を試しに植えてから、数日が経っていた。
昨日、ようやく最初の一本が芽を出した。
そして翌朝。
黒穂麦の芽は、一晩で十七本に増えていた。
「十七本ですわ!」
朝日が昇りきるより早く畑へ出たイデアは、地面へ膝をついたまま声を上げた。
黒みがかった土の間から、細い緑の芽が顔を出している。
昨日の夕方に確認した時には、一本だけだった。それが今朝には十七本。まだ畑と呼ぶにはあまりにも寂しい数だが、食料の残り日数を毎日のように数えている今のイデアには、金貨が並んでいるより頼もしく見えた。
「正確には十九本です」
隣にしゃがんでいたアルゼルが言った。
「こちらにも二本あります」
「どこ?」
「私の指先の辺りです」
「見えませんわ」
「もう少し近くから見れば分かりますよ」
イデアは言われた場所へ身を寄せた。
土の割れ目の奥に、針の先ほどの緑が見える。
「あ。本当ですわね」
「私の観察力に感謝を」
「目を閉じているのに、よく見つけますわね」
「閉じていても見えますので」
「でしたら、普段から開ける必要はございませんわね」
「それとこれとは別です」
アルゼルは穏やかに微笑んだ。
「私の瞳には、人の心を動かすだけの価値があります」
「麦の芽を探す方が、いまは価値がございますわ」
「この領地へ来てから、私の評価が農作物に敗北し続けていますね」
「食べられますもの」
「私も、見て楽しめます」
「麦は見たあとで食べられますわ」
アルゼルが黙った。
今朝の勝負は、イデアの勝ちらしい。
そう思って立ち上がろうとしたところで、ほんの一瞬だけ動きを止める。
以前なら、近くにいるアルゼルが何気なく手を差し出していたかもしれない。
けれど、今日は何もない。
彼は自分でできることへ先に手を出さないと言った。
イデア自身が、それを望んだのだ。
土へ手をつき、自分の力で立ち上がる。
当然、何の問題もなかった。
それなのに、胸のどこかへ小さな空白が残った気がした。
「どうしました?」
「何でもございませんわ」
イデアは服についた土を払い、黒穂麦へ視線を戻した。
少し離れたところでは、ローデンとオルドが別の試験区画を確認している。
セードル村から持ち込まれた黒穂麦は、一か所だけに植えてはいない。
水路に近い畑。
乾きやすい斜面。
石の多い土地。
条件の違う場所へ少しずつ分け、この土地のどこなら最もよく育つのか試している。
「斜面の方も芽が出ています」
ローデンが戻ってきた。
「水路の近くより数は少ないですが」
「黒穂麦でも、水がある方が育つのですね」
「水が少なくても耐えられるだけです。水が嫌いなわけじゃない」
イデアはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「人間と同じですわね」
「人間?」
「苦しさへ耐えられることと、苦しさを望んでいることは違いますもの」
小ラズマイトの者たちもそうだった。
貧しい食事に慣れている。
壊れた家へ住むことにも、古い服を何度も縫い直すことにも慣れている。
けれど、それを望んでいるわけではない。
「鳥除けも必要だな」
オルドが空を見上げた。
すでに小鳥が二羽、畑の近くへ降りている。芽ではなく、土の中へ残った種を狙っているらしい。
「案山子を作りましょう」
イデアが言った。
「使える古着は?」
「鳥へくれてやる服などない」
「そうでしたわね……」
この村では、穴が開いた服にも使い道がある。
継ぎを当てる。
ほどいて糸を取る。
最後には布切れとして掃除や補修へ使う。
鳥を驚かせるためだけに、まだ役立つ布を畑へ立てておく余裕はない。
「私の姿を模したものを置いては?」
アルゼルが提案した。
「鳥もその威容に恐れ入り、近づかなくなるでしょう」
「むしろ寄ってくるのでは?」
「美を理解できる鳥ならば」
「でしたら、試してみましょうか」
「本当に?」
アルゼルが少し嬉しそうに顔を上げた。
◇
完成した案山子は、アルゼルにはあまり似ていなかった。
倒木から取った細い枝を十字へ組み、藁を巻く。服の代わりには、底が破れて使えなくなった麻袋を被せた。
顔は木の板へ炭で描いた。
長い金髪を表すため、乾いた草を束ねて垂らす。
目は細い二本の線。
口元には、妙に自信のありそうな微笑み。
「似ておりますわ」
一歩下がったイデアが出来栄えを確認する。
「どこがです?」
「髪が長くて、目を閉じております」
「それだけではありませんか」
「微笑みも似ておりますわ」
「これは笑っているというより、何かを企んでいる顔です」
「では、なおさら」
「イデア」
案山子作りを手伝った子供たちは大喜びだった。
「アルゼル兄ちゃんだ!」
ピムが案山子の周囲をくるくる回る。
「本物より目が大きい!」
「線ですが?」
「兄ちゃんの目も線だよ」
「私の瞼は、もう少し優美な曲線です」
「炭を足す?」
「足さなくて結構です」
案山子を黒穂麦の畑の中央へ立てる。
アルゼルはしばらく、自分を模したという物体を眺めていた。
「本当に、これで鳥が逃げると?」
「そのための案山子ですもの」
イデアが答えた直後だった。
一羽の小鳥が飛んでくる。
案山子の肩へ止まった。
続いて、もう一羽が頭へ。
三羽目は、草で作った金髪を嘴で引き抜き始める。
沈黙が落ちた。
「親しまれておりますわね」
「恐れを知らない鳥です」
「案山子としては失敗ですね」
ミラが淡々と言った。
「私の美貌が再現されていないからでしょう」
「本物を立たせてみます?」
「私に一日中、畑で腕を広げていろと?」
「案山子より働きませんわね」
イデアがため息をついた、その時。
案山子に止まっていた鳥が、一斉に飛び立った。
畑の向こうから、がさがさと草を掻き分ける音がする。
「何ですの?」
最初に見えたのは、白っぽい角だった。
続いて灰色の頭。
細い身体。
かなり痩せた山羊が、崩れかけた石垣の隙間から顔を出した。
山羊は周囲を見回す。
イデアたちを見る。
案山子を見る。
そして迷うことなく、黒穂麦の畑へ入った。
「あっ」
口が芽へ伸びる。
「お待ちなさい!」
イデアが駆け出した。
だが、一歩遅かった。
山羊は黒穂麦の芽をまとめて口へ入れる。
「わたくしの十九本が!」
正確にはローデンたちが持ってきた種であり、領地全体の麦である。
それでも、十九本という数を数えた直後だけに、一本ごとの価値が妙に高く感じられた。
イデアが近づくと、山羊は軽やかに横へ逃げる。
「トーマ、反対側へ!」
「分かった!」
「ローデン、石垣の隙間を塞いでくださいませ!」
「はい!」
村人たちが動く。
山羊は逃げ場を探すように畑の中を走った。
すると、石垣の向こうから、さらに二頭が現れた。
「増えましたわ!」
「三頭だ!」
ピムが楽しそうに叫ぶ。
「喜ぶ場面ではありません!」
三頭は見事に別々の方向へ散った。
一頭は黒穂麦。
一頭は豆。
そして最後の一頭は、アルゼルの案山子へ向かう。
麻袋を口へ咥え、勢いよく引いた。
ばきり。
枝が折れ、案山子が倒れる。
「……私が敗北しました」
「案山子ですわ!」
「私を模したものです」
「ご自分を重ねないでくださる?」
アルゼルが倒れた案山子へ近づく。
「少なくとも、見る目については教育が必要そうですね」
山羊はアルゼルが近づくと、ぴたりと動きを止めた。
一歩、後ろへ下がる。
「ほら。私の威厳を理解したようです」
次の瞬間。
山羊は身を翻し、イデアへ向かって走ってきた。
「どうしてこちらへ!」
「あなたの方が親しみやすいのでしょう」
「嬉しくありませんわ!」
◇
「追い回さないでください!」
畑の外から声が飛んだ。
縄を抱えたユーイとエスタが走ってくる。
「追えば余計に散ります。道を空けて、一か所へ誘導します!」
「どちらへ?」
「あの石垣の角です」
ユーイが指示し、エスタが干した草を手に取る。
一頭の山羊が草の匂いに気づき、鼻先を動かした。
「ほら。こっち」
エスタは落ち着いた声で呼ぶ。
先ほどまで走り回っていた山羊が、警戒しながらも少しずつ彼女へ近づいていった。
「さすがですわね」
「ずっと山羊を飼っていましたから」
「でしたら、残りの二頭も——」
「領主様は、あまり動かないでください」
「なぜ?」
ユーイがイデアの腰元を見る。
「その赤い布が揺れているので、気にしてます」
「赤い色へ反応するの?」
「色より、ひらひら動くものですね」
「外せばよろしいのね」
イデアは作業着の帯へ結んでいた赤い布を解いた。
その瞬間、風が吹く。
「あっ」
赤い布が指先から離れ、ふわりと宙へ舞った。
一頭の山羊が反応し、走りだす。
布を追って。
その真下にいるイデアへ向かって。
「領主様、避けて!」
ユーイの声がする。
イデアは横へ動こうとした。
だが、足元には先ほど倒れた案山子がある。
枝へ踵を取られた。
「きゃっ!」
身体が後ろへ傾く。
山羊の角が迫った。
視界の端で、アルゼルが動いた。
泥溜まりで差し出された手を取らなかった時とは違う。
強い腕がイデアの腰を抱き、身体ごと横へ引く。
山羊の角が、ほんの少し前までイデアが立っていた場所を通り過ぎた。
「……っ」
イデアはアルゼルの胸元へ片手をついた。
「怪我は?」
「ございませんわ」
「なら、よかった」
それだけを確認すると、アルゼルはすぐに腕を緩めた。
以前なら、そのまま足元まで確かめたかもしれない。
今は、イデアが自分で立てると分かれば、それ以上は触れない。
胸の奥に、安堵とは別の小さな痛みが残る。
「ありがとうございます」
イデアはきちんと礼を言った。
アルゼルが少しだけ黙る。
「どういたしまして」
「……危険な時は、助けてくださるのね」
「あなたが自分でできることへ先回りしない、と言っただけです」
穏やかな声だった。
「角へ突かれるのを見守るとは言っていませんよ」
「そう」
ほっとした。
そう認めそうになって、イデアは口を閉じた。
けれど、アルゼルはそれ以上何も聞かなかった。
「二人とも、そこを空けて!」
エスタの声で我に返る。
山羊はまだ捕まっていない。
イデアとアルゼルが離れると、ユーイとエスタは手際よく三頭を石垣の角へ追い込み、一本ずつ縄をかけていった。
「捕まえました」
エスタが誇らしげに言う。
「助かりましたわ」
イデアは息を整えながら、三頭を見る。
「この山羊たちは、飼われていたものですの?」
「たぶん」
ユーイが角と蹄を確かめた。
「野生にしては人に慣れています。蹄にも、昔手入れされた跡がある」
オルドも近づき、そのうち一頭の首元を覗き込んだ。
細い革紐が残っていた。そこには小さな銅札がついている。
泥を拭うと、消えかけた印が現れた。
「北の旧牧草地の印だ」
「旧牧草地?」
イデアが聞き返す。
「村の北に、昔は家畜を放していた土地がある。十年以上使っていないがな」
「なぜ?」
「柵が壊れ、水場も枯れた。狼も出るようになった」
オルドは、山羊が入ってきた石垣の向こうを見る。
「こいつらがそこから来たなら、三頭だけとは限らん」
◇
山羊の足跡を追うことになった。
畑から北の旧牧草地までは、歩いて半刻ほどだった。
道はほとんど草に埋もれ、昔の石垣も崩れている。棘のある低木を避けながら、ユーイとエスタが先頭を進んだ。
途中、倒れた石垣を越える場所があった。
イデアは足を止める。
高さはそれほどでもない。
以前なら、隣にいるアルゼルが何気なく手を差し出していただろう。
しかし、彼は何も言わなかった。
約束どおりだ。
イデアは石へ手をつき、自分で越える。
難しくない。
降りる時にも、少し足場を探しただけで済んだ。
それなのに、向こう側へ降り立ってから、無意識にアルゼルを振り返ってしまう。
「どうしました?」
「何でもございません」
今日、二度目だった。
アルゼルは何も言わず、外套の裾を石へ引っかけないようにしながら後へ続いた。
しばらく進むと、遠くから、からんと小さな鈴の音が聞こえてくる。
「まだおりますわね」
「静かに」
エスタが指を立てた。
茂みを抜けると、小さな窪地へ出る。
中央には、半分崩れた石造りの囲い。
そして、その周囲に山羊がいた。
一頭、二頭、三頭。
驚かさないよう、静かに数えていく。
「八頭……」
朝に捕まえた三頭を合わせれば、十一頭。
大きな雄。
雌が四頭。
まだ若い山羊。
そして、小さな子山羊が二頭。
どの山羊も全体的に痩せている。毛は汚れ、蹄も伸びていた。
それでも群れとして生き延びてきたらしい。
「水があります」
ローデンが囲いの奥を指した。
岩の隙間から、細い水が流れている。
その周囲だけは青い草が育ち、小さな水溜まりもできていた。
「水路が戻った影響かしら」
「地下の流れがどこかでつながっているのかもしれません」
ローデンが答える。
「それで、村の方まで来たのでしょう」
ユーイが山羊の足跡を見る。
「水が増えて、柔らかい芽の匂いもした」
「わたくしたちの黒穂麦を食べに?」
「山羊には領地の境界が分かりませんので」
「教える必要がございますわね」
イデアは腕を組んだ。
「全部捕まえられますの?」
「時間をかければ」
エスタは群れを観察する。
「ただ、いきなり村へ連れていっても、入れる場所がありません」
「囲いを直しましょう」
「餌も必要です」
「ここの草は?」
「しばらくならもちます。でも、この数なら冬までに干し草を用意しないと足りません」
仕事が増える。
そう考えた直後、
「でも、山羊が増えれば、できることも増えます」
エスタが雌山羊の腹を見る。
「あの二頭は、いま乳が出ます」
「乳?」
イデアの声が変わった。
「子山羊がいるので」
エスタが指した先には、それぞれ小さな子山羊を連れた雌がいる。
村にも雌山羊のミルカはいる。
けれど、長く栄養状態が悪かったせいで、今のところ乳は出ていない。まず身体を戻すことを優先しようと、ユーイたちからも言われていた。
灰坊は雄なので、もちろん乳は期待できない。
つまり、いま小ラズマイトで人間へ分けられる乳を出せる可能性があるのは、目の前にいる二頭だけだった。
「どの程度取れますの?」
「子山羊の分を残して、一日に小さな桶半分くらい。二頭合わせてです」
「それだけ?」
「かなり痩せていますから。餌がよくなれば、もう少し増えると思います」
イデアの頭の中で、すぐに顔が浮かんだ。
病人。
老人。
幼い子供。
食事を十分に取れていない者。
「毛は?」
セラが尋ねる。
「冬毛を梳けば糸にできます」
ユーイが答える。
「雌が増えれば、来年には子も増やせます」
「糞は畑へ使えるな」
オルドも言った。
「痩せた土地にはありがたい」
「草を食べさせれば、荒れた牧草地の管理にもなります」
ローデンが続ける。
乳。
毛。
肥料。
牧草地の管理。
将来は、頭数を増やすこともできる。
イデアの頭の中で、帳簿の項目が次々と増えていった。
「黒字ですわね」
「まだ所有者が分かりませんよ」
アルゼルが横から言う。
「……そうでした」
目の前にいるからといって、勝手にラズマイトの財産へしてよいわけではない。
「銅札が残っておりますものね」
イデアは群れを見る。
「近隣へ知らせを出しましょう。以前の持ち主を探します」
「頭数も書くのか?」
オルドが尋ねた。
「いいえ。札の印や頭数は伏せます。本当の持ち主なら、特徴を説明できるでしょう」
「名乗り出たら返す?」
「基本的には。ただし、十年以上ここへ放置されていた理由は確認します」
所有者が死亡したのか。
村を離れたのか。
あるいは本当に捨てたのか。
事情も分からず、こちらで勝手に決めるわけにはいかない。
「誰も現れなければ?」
「一定期間を置いたうえで、小ラズマイトの共同家畜として扱いましょう」
イデアはユーイとエスタを見る。
「その場合、管理をお願いできます?」
「任せてもらえるなら」
ユーイが答える。
「報酬は?」
「乳や毛の一部を管理する方の取り分へ。残りを共同分とします。割合は、必要な労働と餌の量を確認してから決めますわ」
「わたしたちの山羊になるわけじゃない?」
エスタが尋ねた。
「個人で所有したい?」
「……今は無理です」
エスタは群れを見ながら首を横へ振る。
「十一頭を養える餌も、囲いも、わたしたちだけじゃ用意できません」
「でしたら、まず村全体で育てましょう。将来、頭数が増えたら、管理の報酬として子山羊を渡す方法も考えられます」
「本当に?」
「働いた方へ正当な取り分は必要ですもの」
エスタの顔が明るくなる。
「頑張ります」
「無理はなさらないで」
「山羊には慣れてます」
その直後だった。
群れの中央にいた大きな雄山羊が、前脚で地面を掻いた。
「エスタ、下がれ」
ユーイが妹を引く。
雄山羊は人間たちを警戒し、頭を低くしている。
アルゼルが一歩前へ出た。
大きな外套の下で翼をきつく畳んだまま、静かに雄山羊の正面へ立つ。
「何をなさるの?」
「少し様子を見ます」
「神性を?」
反射的に口へ出してから、イデアははっとして唇を閉ざした。
幸い、少し離れたところではユーイとエスタが山羊の動きに気を取られており、ほかの者たちにも聞こえてはいないようだった。
アルゼルはそんなイデアへ顔を向けたが、特に咎めることもなく、いつもの穏やかな調子で答える。
「使わなくても大丈夫でしょう」
彼は閉じた瞳のまま、ただその場に立っていた。
逃げない。
追わない。
手も出さない。
雄山羊が顔を上げた。
一歩近づく。
「私の落ち着きを理解したようですね」
さらに一歩。
「よい判断です」
山羊はアルゼルの外套へ鼻を寄せた。
そのまま、裾を口へ咥える。
「……離しなさい」
山羊は離さない。
むしろ噛み直した。
「それは食べ物ではありませんよ」
強く引く。
外套の布が張った。
その下には白い翼が隠れている。
イデアの顔色が変わった。
「エスタ。草を!」
「はい!」
干し草を差し出すと、雄山羊はようやくアルゼルの外套を放した。
裾には、くっきりとした歯形と、大量の唾液が残っている。
普段は何が起きても涼しい顔を崩さないアルゼルが、濡れた外套の裾をつまみ、わずかに眉を寄せている。
その姿がおかしくて、イデアは堪えようとしたものの、口元がふっと緩んだ。
「災難ですわね」
笑いを含んだ声になった。
アルゼルが、そんなイデアへ顔を向ける。
「そうでしょうか」
「外套を食べられかけましたでしょう?」
「破れてはいません」
「見返りは?」
イデアが尋ねると、アルゼルは少しも迷わなかった。
「あなたの笑顔でしょうか」
「それは利益ですの?」
「私にとっては」
あまりにも自然に返され、今度はイデアの笑みが止まった。
「……袖を洗ってきなさい」
「照れましたか?」
「山羊の唾液がついておりますのよ!」
「否定はしないのですね」
「早く洗いなさい!」
イデアは熱くなった頬を誤魔化すように、アルゼルへ怒鳴った。




