25.水車は回っても、小さなずれが残りました
埋まっていた石臼は、泥を洗い落とすと十分使える状態だった。
デガンが溝を掘り直し、表面を整える。
軸受けも、錆を落とせば再利用できそうだった。
新しく購入しなければならない部品は、大幅に減った。
「これなら、余った金具を水門へ回せます」
ローデンが簡単な図へ線を引く。
「水量を調整しやすくなる」
「畑へ流す水と、水車へ流す水を分けられるのですわね」
「ええ。乾いた時期には畑を優先し、収穫後は水車へ多く回す」
「村の者だけで操作できますか?」
アルゼルが尋ねた。
「できます」
「修理も?」
「羽板ならミラが交換できる。軸の手入れも俺が教えます」
「あなた自身がいなくても?」
「三十日後の話ですか?」
ローデンが苦笑する。
「それより先も含めてです」
アルゼルの声は穏やかだった。
ローデンは図を見つめる。
「俺は、ここへ残るつもりです」
「まだ仮住民ですわよ」
イデアが言う。
「ええ。だから、残れるように働きます」
その言葉に迷いはなかった。
「水車を造れば終わりじゃありません。水路の手入れもいる。粉挽き小屋も必要になる。もっと水が安定すれば、別の仕掛けも動かせます」
「別の?」
「木を切る鋸や、布を叩く槌です」
イデアの頭の中で、数字が動き始めた。
粉挽き。
製材。
織物。
いずれも、小ラズマイトの新しい仕事になり得る。
「ずいぶん先まで考えておりますのね」
「長く住む場所なら」
まだ決定したわけではない。
食料だって足りない。
仮住民として認められてから、まだ数日しか経っていない。
それでもローデンは、すでに小ラズマイトでの先を見ている。
イデアは、そのことが少し嬉しかった。
◇
五日目。
近隣の町へ食料の買い付けに出ていたトーマとクラウスが戻ってきた。
荷車には麦、豆、干した芋が積まれている。
だが、予定より量が少ない。
「価格が上がっております」
クラウスは廃教会の仮机へ帳面を広げた。
「周辺地域でも、昨年の収穫がよくなかったようです」
「どの程度買えましたの?」
「現在の人口で、およそ十七日分」
「残っている分と合わせれば?」
「厳しく配給して、四十一日ほどです」
収穫までは、まだ二月以上。
足りない。
「種へ手をつければ——」
「それは最後です」
イデアは即座に答えた。
「王都から持ってきた種も、黒穂麦も植えます。種まで食べてしまったら、その先がございませんもの」
「月白花は?」
「食料にはなりませんわ」
「売却する選択肢もあります」
「まだ育つかどうかすら分かっておりません」
ドワーフの坑道から持ち帰った月白花の種は、廃教会脇の花壇に植えてある。
水を切らさないよう気をつけてはいるが、まだ芽は出ていない。
「では、足りない分をどうするか」
クラウスの問いに、すぐ答えられる者はいなかった。
「水車が回っても、麦そのものが増えるわけではない」
オルドが言う。
「ですが、失われる分は減らせます」
ローデンが答えた。
「手回しの石臼は、挽く者によって粉の細かさが違います。こぼれる麦も多い。水車なら一定の速さで挽ける」
「どれほど?」
「一袋につき、一割近く違う場合もあります」
「一割……」
少なくはない。
「それに、粉挽きへ使っていた人手を畑や採取へ回せる」
トーマが続ける。
「山菜を探す範囲も広げられるし、川へ魚の仕掛けも置ける」
「水車一台で食料問題が解決するわけではございませんわね」
イデアは帳面へ書き込んだ。
「ですが、解決するための時間と人手は増える」
完成予定まで、あと二日。
◇
七日目の朝。
新しい水車は、古い土台の上に組み上がっていた。
大きさはイデアの背丈の二倍ほど。
倒木から切り出した羽板が、円形の枠へ等間隔に取り付けられている。中心には太く真っ直ぐな木製の軸。
金属の留め具は必要な場所にしか使っていない。
壊れた時に村で交換できるよう、多くの部品が木栓と縄で固定されていた。
「本当に七日で完成しましたのね」
「まだ回していません」
ローデンは緊張した表情で軸を確かめている。
「水を流し、石臼まで力が伝わって初めて完成です」
村人たちも周囲へ集まっていた。
畑仕事へ出る前の者。
子供。
老人。
ローデンの家族も一番近くで見守っている。
セラはリルを抱き、ピムは今にも走り出しそうな顔で水車を見上げていた。
「始めます」
ローデンが、水門の横へ設けた木製の取っ手を握る。
上流で水を止めている板を引き上げれば、水車へ水が流れる仕組みだ。
力を込める。
動かない。
「固いな」
ミラが横へ並び、二人で引いた。
水門はわずかに軋んだだけだった。
「木が水を吸って膨らんだか?」
「削り直す?」
「いや、その前に根元を——」
村人たちの間に、小さな不安が広がる。
「私が手伝いましょうか」
「待ってください」
前へ出るアルゼルを、ローデンが止めた。
「これくらいの不具合は、この先いくらでも起きます。俺たちで原因を見つけられなければ意味がない」
「分かりました」
アルゼルはあっさり引いた。
そのやり取りを見て、イデアの胸がまた小さく疼く。
それでいい。
これでいいのだ。
アルゼルがいなくても、回る水車。
ならば自分も、彼がいなくても立てるようにならなければ。
ローデンとミラが水門の根元を調べ始める。
イデアも近づいた。
「何か挟まっておりますの?」
「土か小石かもしれません」
水門の脇へしゃがみ込み、石積みへ手をつく。
その石が、わずかに動いた。
「あら?」
身体の重みをかけた瞬間。
石が壁の内側へ沈んだ。
同時に、頭上から水が落ちてきた。
「冷たい!」
水をまともに浴びる。
驚いたイデアは身体を起こしたが、今度は転ばなかった。
すぐ横からアルゼルの手が伸びかける。
けれど彼は、ほんの一瞬でそれを止めた。
先日の泥の中で、イデアがその手を取らなかったことを覚えているのだろう。
何も言わず、手を下ろす。
その直後。ごとん、と重い音がした。
「下がって!」
ローデンが叫ぶ。
水門の内側で何かが外れ、止まっていた板がゆっくりと持ち上がる。
流れ出した水が、水車の羽板へ当たる。
一度。大きく軋んだ。
二度。車輪が、ゆっくり動く。
「回った!」
誰かが叫んだ。
水車は最初こそ重そうだったが、水を受けるたび少しずつ速度を増していく。
ごとん。
ごとん。
一定の音が響いた。
小屋の中では木の歯車が噛み合い、泥の中から見つかった古い石臼が回り始める。
村人たちから歓声が上がった。
「父ちゃん、回った!」
ピムがローデンへ駆け寄る。
「ああ」
ローデンは水車を見上げたまま、しばらく動かなかった。
やがて目元を手で拭う。
水しぶきのせいなのか、それとも別のものなのかは分からなかった。
「成功ですわね」
イデアが言う。
「あなたはまた濡れていますが」
アルゼルが横から答えた。
「今回は泥ではありません」
「それで安心するところでしょうか」
「水なら乾きますわ」
「風邪は?」
「引きません」
「人間はそう言ってから風邪を引くのですよ」
「あなた、最近ずいぶん人間に詳しくなりましたわね」
「観察対象が無茶をしますので」
イデアは聞こえなかったふりをして、水門の脇を見る。
沈んだ石の奥から、古びた木の部品が覗いている。
「先ほどの石は何でしたの?」
「昔の開閉装置でしょう」
ローデンが調べる。
「この石を押すと、内側の留め具が外れる仕組みだったらしい」
「では、わたくしが押したから開いた?」
「そうなります」
「……またですのね」
イデアは濡れた袖を見る。
災難。
その先に、偶然見つかった古い仕掛け。
「見返りですわね」
小さな声で言うと、アルゼルが頷いた。
「おそらく」
「頭から水を浴びた分?」
「水門の仕掛けはいずれ調べれば見つかったでしょう。今回は、少し早く分かった程度ですね」
「相変わらず細かいですわね」
「その辺りは正確に」
以前なら、水を浴びた時点でアルゼルが手を差し出し、イデアも何も考えずに取っていただろう。
今日は、どちらもしなかった。
◇
最初に水車で挽いたのは、共同倉庫に残っていた麦だった。
ローデンが上から少しずつ粒を入れる。回転する石臼の間から、淡い色の粉がさらさらと落ちてきた。
村人たちは息を詰めて見守る。
「粉ですわ」
イデアが呟く。
「麦を挽けば粉になります」
「分かっております!」
アルゼルの返事へ思わず声を上げる。
それでも、昨日まで誰かが何時間も石臼を回さなければ得られなかったものが、いまは水の力だけで次々と生まれていく。
小さな奇跡のように見えた。
けれど、奇跡ではない。
ローデンの知識。
デガンの技術。
ミラと村人たちの手。
ピムたちが集めた釘。
セラたちが整えた布や縄。
そして、長い年月の間、土の下に眠っていた昔の土台。
そのすべてが重なって、いま目の前の石臼を動かしている。
「父ちゃん、すごい」
ピムが言った。
ローデンは照れたように頭を掻く。
「俺一人で造ったんじゃない」
「でも、父ちゃんが十日で回すって言った」
「七日だったな」
ミラが笑う。
「領主様が泥へ落ちなきゃ、石臼も見つからなかったし」
「そこを功績として数えないでくださる?」
「重要な発見です」
クラウスが真面目な顔で帳面へ記録している。
「水車用石臼の発見。発見者、イデア・ラズマイト伯爵」
「事故ですわ!」
「発見した事実に変わりはありません」
「でしたら泥へ落ちたことは書かないで」
「経緯として必要です」
「必要ありません!」
村人たちが笑った。
その笑い声の中で、最初に挽いた粉から薄い焼きパンが作られた。
一人分は小さな欠片だけ。
食料を無駄にはできない。
それでも、完成を祝うには十分だった。
イデアは焼きたての欠片を受け取る。
温かい。
香ばしい匂いがした。
「ローデン」
「はい」
「三十日は、まだ終わっておりません」
彼の表情がわずかに強張る。
「ですが、この水車を管理できる方が必要です」
イデアは回り続ける車輪を見上げた。
「仮住民の期間が終わった後も、あなたがたには、小ラズマイトへ残っていただきたいと思っております」
ローデンは何も言わなかった。
セラが口元を押さえる。
ピムは父親と母親を交互に見ている。
腕の中のリルだけが、焼きパンへ手を伸ばしていた。
「それは……」
ローデンの声が掠れた。
「正式な定住を認めていただけるということですか」
「村の決まりを守り、皆様もそれを望むなら」
イデアはオルドを見る。
「村長は?」
「水車だけ置いて出ていかれても困る」
オルドはぶっきらぼうに答えた。
「残って、最後まで面倒を見てもらう」
「ありがとうございます」
ローデンが深く頭を下げる。
「顔を上げてくださいませ」
「ですが」
「水車を造った方からそこまで頭を下げられては、こちらが困ります」
「俺たちを受け入れてくださったのは、領主様です」
「受け入れただけです。水車を回したのは、皆様でしょう?」
イデアは彼へ手を差し出した。
「これからも、働いていただきますわよ」
ローデンは少し驚いたあと、その手を握る。
水車大工の手は硬く、傷だらけで、温かかった。
「もちろんです」
◇
その日の夜。
イデアは住民帳の七人の欄を開いていた。
――仮住民。
その文字へ細い線を引く。
代わりに、
――定住申請中。
と書き加える。
「まだ七日ですよ」
アルゼルが隣から覗き込む。
「実績は十分でしょう?」
「水車一台で?」
「七日で造った水車です」
「あなたは三日目に泥へ沈み、七日目に頭から水を浴びました」
「わたくしの実績ではありませんわ!」
「建設へ身体を張って貢献しています」
「その評価は不本意です」
イデアは帳簿を閉じる。
少し沈黙が続いた。
いつもなら、どちらからともなく次の軽口が始まるところだった。
「イデア」
アルゼルが先に口を開いた。
「何ですの?」
「泥へ落ちたときのことですが」
アルゼルは閉じた瞳のまま、イデアへ顔を向ける。
「なぜ、私の手を取らなかったのです?」
尋ねられるとは思っていなかった。
イデアは一瞬、返事に詰まる。
「……ローデンのお話を聞いて、考えただけですわ」
「水車の?」
「ええ」
イデアは帳簿の端へ指を置いた。
「アルゼルがいなくても、水車は回せるようにする。それは正しいと思いましたの」
「そうですね」
「でしたら、わたくしも同じです」
言葉にしてしまうと、思っていた以上に胸が痛んだ。
「いつかあなたがいなくなっても、わたくしは領地を運営していかなければならないでしょう?」
アルゼルは黙って聞いている。
「ですから、何でもあなたの手を借りる癖をつけてはいけないと思っただけですわ」
「……そうですか」
また、その答えだった。
以前に聞いたものと同じ。
穏やかで、否定も肯定もしない声。
イデアはなぜか、少しだけ腹が立った。
自分から言い出したことなのに。
「何ですの、その返事は」
「あなたがそう望むのであれば、尊重しようと思っただけです」
「尊重?」
「自分でできることには、先に手を出さないようにします」
胸が、また小さく痛んだ。
それを望んだのは自分だ。
なのに。
「……そうなさって」
「ええ」
二人の間へ、妙に静かな空気が落ちた。
外からは、水車の音が聞こえてくる。
一人の特別な力がなくても、村人たちだけで直しながら回していける水車。
望んだとおりのものだった。
「ところで」
アルゼルが言った。
「今夜の食事を残しましたね」
イデアの肩が跳ねる。
「なぜご存じなの?」
「食事監督官ですので」
「その役職は認めておりません!」
「先に手を出さないとは言いましたが、あなたが自分から身体を壊すのを見守るとは言っていません」
「それは別なの?」
「別です」
アルゼルは迷いなく答えた。
「残りを持ってきます」
「もう夜ですわよ!」
「夜でも食べられます」
「太ったらどうするの?」
アルゼルは足を止めた。
閉じた瞳のまま、改めてイデアへ顔を向ける。いつもの軽口を返すのかと思ったが、しばらく彼女の姿を確かめるように黙ったあと、静かに口を開いた。
「あなたは、もう少し増えた方がよい」
冗談ではない声だった。
イデアは思わず黙る。
「……そういうことを、女性へ簡単におっしゃるものではありませんわ」
「なぜです?」
「なぜって」
「健康を案じただけですが」
本当に分かっていないらしい。
アルゼルは不思議そうに首を傾げたあと、いつもの微笑みに戻った。
「ともかく、今夜の残りは食べていただきます」
「結局そこへ戻りますのね」
「大事なことですので」
「あなた、本当に食事のことだけはしつこいですわ」
「あなたがきちんと食べれば、私も言わずに済みます」
「……それは、わたくし次第ということ?」
「ええ。非常に分かりやすいでしょう」
「少しも嬉しくありませんわ!」
イデアの声が、廃教会へ響いた。
いつものやり取りに戻ったように見える。
けれど。
アルゼルが差し出した手を、イデアが取らなかったこと。
そしてアルゼルが、もう先に手を出さないと言ったこと。
その小さなずれだけは、まだ二人の間に残っていた。
廃教会の外では、新しい水車が回り続けている。
七人分、食費は増えた。
けれど七人分、小ラズマイトの未来を造る手も増えた。
借金は、まだ一枚の硬貨も減っていない。
食料不足だって解決していない。
それでも村には今日、人の手だけで回り、人の手で直していける水車がひとつ増えた。
昨日より少しだけ、自分たちの力で生きていける土地になったのだ。
それが嬉しいはずなのに。
イデアは眠る前、泥の中で取らなかった手を、一度だけ思い出した。




