24.水車は十日で回ります
「これなら、十日で水車を回せます」
ローデンは、畑へ向かう水路の前でそう言い切った。
朝の光を受けて、細い水の流れがきらきらと輝いている。
数日前までは乾いた溝だった。
いまも水量は決して多くない。底にはまだ泥が残り、水路の石積みもところどころ崩れている。
それでも、確かに水は流れていた。
「十日?」
イデアは聞き返した。
「十日で、本当に水車が造れますの?」
「材料と人手があれば」
「そのふたつが、最も足りない土地ですわ」
「では、十五日」
「増えましたわね!」
「何もないのであれば、それくらいは必要です」
ローデンは水路へしゃがみ込み、小さな木片を流した。
木片は水に乗り、ゆっくりと下流へ進んでいく。彼は歩数を数えながらその後を追い、水路が一段低くなっている場所で足を止めた。
「ここです」
畑の端に、古い石積みの段差があった。
土と草に半ば埋もれているが、自然にできたものではない。左右の石は形を整えて積まれ、中央にはかつて水を落としていたらしい溝が残っている。
「昔の水車跡でしょう」
ローデンは石の表面についた土を払った。
「水路が生きていた頃、この下に粉挽き小屋があったんだと思います」
「村に水車があったという話は、聞いたことがないな」
オルドが眉を寄せる。
「わしが子供の頃には、もうこの石しか残っていなかった」
「下を掘れば、土台が残っているかもしれません」
「水の勢いは足りますの?」
イデアが尋ねる。
「このままでは少し弱いですね。上流で流れを調整して、この段差へ集めます」
ローデンは水路の先を指した。
「大きな水車を回すほどではありません。ですが、村の麦を挽く程度なら十分です」
「どのくらいの速さで?」
「手回しの石臼を十人で使うよりは速くなります」
近くにいた村人たちがざわめいた。
いまの小ラズマイトでは、各家が小さな石臼を使い、必要な分だけ麦を粉にしている。石臼を回すのは重労働で、特に収穫の後には何人もの大人がその作業へ取られるらしい。
「水車があれば、人の代わりに水が働くということですのね」
「ええ」
「食事を与えなくても?」
「水が流れていれば」
イデアは隣に立つアルゼルを見た。
「あなたより素直に働きそうですわね」
「比較の仕方に異議があります」
「ですが、働くたびに文句をおっしゃるでしょう」
「水車も、手入れを怠れば文句を言いますよ」
「音で?」
「軋みます」
ローデンが真面目に答えた。
「ほら」
アルゼルが得意げに微笑む。
「私と変わりません」
「水車は自分の顔について語りませんわ」
「美しい水車ならば、語る必要がないだけです」
「あなたも少し見習ってくださる?」
◇
水車を造るために必要なものは、想像していたより多かった。
まず木材。
水を受ける羽板。
車輪を支える枠。
回転を石臼へ伝える軸。
そして、小屋の柱と屋根。
次に石材。
土台。
水路を分ける堰。
粉を挽くための石臼。
ほかにも金属製の留め具や釘、縄、油が要る。
「全部買えば、どの程度かかりますの?」
イデアが尋ねると、ローデンはしばらく考えた。
「いま村にあるもので、どこまで代用できるかによります」
「でしたら、買わずに済むものから確認いたしましょう」
倒れた大木は廃教会の修理へ使う予定だったが、すべてを屋根へ回さなければ、車輪一台分の木材は確保できそうだった。
石は、崩れた水車跡から回収する。
釘は廃屋などから抜いたものを打ち直す。
縄は村に残っていた麻を使い、足りない分は編み直す。
「石臼は?」
ミラが尋ねる。
「村にあるものを使えば?」
「小さすぎます」
ローデンは両手で大きな円を作った。
「水車につなぐなら、これくらいは欲しい」
「新しく削るのか」
オルドが石工のデガンを見る。
デガンは杖をついたまま、石積み跡へ近づいた。
「石さえありゃ削れる」
「膝は?」
「座って削る分には困らん」
「十日で?」
「若い頃なら五日だ」
「今は?」
「口の減らん若造が槌を振るなら七日」
デガンはローデンを見た。
「誰が若造です」
「わしより若けりゃ若造だ」
「俺は四十二です」
「子供だな」
ローデンは何か言い返そうとしたが、デガンはすでに使えそうな石を探し始めていた。
「では、石臼も何とかなりそうですわね」
イデアは帳面へ項目を書き込む。
木材と石材。
縄と釘。
それに、人手。
「最後が最も問題でしょう」
クラウスが言った。
「畑へも人を回さなければなりません。水路の整備、教会の修理、食料の買い付けもあります」
「全員を水車へ集めるわけにはいきませんわね」
「役割を分けよう」
オルドが口を開く。
「畑を止められん者は朝と夕方だけ手を貸す。木工ができる者は水車へ。子供には危なくない範囲で、釘集めや縄仕事を頼めばいい」
「病人や怪我人へ無理はさせませんわよ」
「分かっています」
以前なら、オルドはその言葉に何か返したかもしれない。
だが今は、すでに当たり前の決まりとして受け止めているらしい。
「アルゼルは?」
イデアが尋ねる。
「なぜ私だけ個別に確認されるのです?」
「どの班へ入るのかと思いまして」
「全体を見ています」
「働かない方がよく使う言葉ですわね」
アルゼルは少し考えるように水車跡へ顔を向けた。
「私の“魔術”なら、もっと早く部材を揃えることもできますよ。木を切り、石を動かし、重い部品を組み上げる程度なら」
「それは困ります」
ローデンが即座に答えた。
アルゼルの微笑みが止まる。
「なぜです?」
「あなたにしかできない造り方になったら、壊れた時に直せない」
「壊れないよう造ればよいのでは?」
「水車は壊れます」
「私が手伝ったものでも?」
「水と木を使う限り」
ローデンは真顔だった。
「羽板は削れる。軸は摩耗する。縄は切れる。泥も詰まるし、冬には凍ることもある。壊れないものより、壊れた時に村の者が直せるものの方が、長く使えます」
アルゼルは答えなかった。
「あなたの力を借りたくないわけじゃありません」
ローデンは続ける。
「重い木を持ち上げる時や、危険な作業では助かります。ただ、造り方まで全部あなた任せにしてしまったら困るんです」
「なぜ?」
「研究者さんが、いつまでもこの村にいるとは限らないでしょう」
何気ない言葉だった。
ローデンにしてみれば、遠方から来たという変わった研究者が、いずれ別の土地へ行くかもしれないというだけの話なのだろう。
けれど。
イデアの胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
アルゼルは、ここに住むために来たわけではない。
王都の廃教会で出会い、イデアへ加護を与え、小ラズマイトまでついてきた。
いまは当然のように隣にいる。
だが、それが永遠に続くと約束されたことなど、一度もなかった。
借金を返し、自分の不幸にも決着がつけば。
その時も、アルゼルがここにいる理由はあるのだろうか。
考えないようにしていた問いが、ローデンの言葉によって不意に形を持った。
「ローデンの言うとおりですわ」
イデアは帳面へ視線を落としたまま言った。
「アルゼルがいなくても、村の方々だけで使い続けられるものを造りましょう」
少しだけ間があった。
「私がいない未来を、もう考えているのですか?」
アルゼルの声は穏やかだった。
イデアは顔を上げる。
閉じられた瞳から、その感情を読み取ることはできない。
「五年先まで考えなければ、領地など経営できませんもの」
「……そうですか」
「ええ」
それだけだった。
けれど、なぜか胸の奥に残った痛みは消えなかった。
イデアは自分へ言い聞かせる。
水車と同じだ。
一人しか扱えないものを作ってはいけない。
誰か一人がいなくなっただけで立ち行かなくなる領地にもしてはいけない。
ならば、自分も同じだ。
いつかアルゼルがいなくなっても、何もできなくなってしまわないように。
彼の手を借りることを、当たり前だと思わないように。
それは領主として当然のことだ。
そう思った。
「では、研究者殿」
ローデンが太い丸太を指した。
「まず、あれを加工場まで運んでもらえますか」
「いまの話の流れで、結局私が運ぶのですか?」
「重い物を運ぶのには助かると言いました」
「非常に限定的な評価ですね」
「持てませんか?」
「持てます」
アルゼルは丸太を片手で持ち上げた。
ローデンの眉が上がる。
「……本当に持つんですね」
「私を何だと思っていたのです?」
「妙に顔の整った研究者」
「最初の部分は正確ですね」
いつもなら、ここでイデアから何かしらの声が飛んでくる。
だが、何も聞こえない。
アルゼルが振り返ると、少し離れた場所でイデアがこちらを見ていた。
口元には笑みが浮かんでいる。
けれど、その表情はどこか苦しそうにも見えた。
「……イデア?」
「何でもございませんわ」
そう答えた彼女は、すぐに帳面へ視線を落とした。
アルゼルはしばらくその横顔を見ていたが、やがて何も言わず、丸太を抱え直した。
◇
水車造りにおけるイデアの最初の仕事は、朝食だった。
「なぜですの?」
イデアは自分の前に置かれた木の器を見る。
麦粥。
豆。
干した野菜。
量は、昨日自分が食べたものより明らかに多い。
「食べてください」
向かいに立つアルゼルが言う。
「皆様と同じ量で十分です」
「昨日、ピムと同じだけしか食べなかった方の言葉とは思えませんね」
「覚えていらしたの?」
「あなたのことですので」
アルゼルは器を指差す。
「今日は現場の確認、資材の配分、帳簿、食料の買い付け計画、それに教会の修繕もするのでしょう?」
「ええ」
「でしたら足りません」
「ですが、食料には限りがございます」
「あなたが倒れれば、もっと困ります」
「そこまででは——」
「止まります」
クラウスが横から口を挟んだ。
「伯爵閣下の判断を待つ案件が多すぎますので」
「クラウスまで」
「領地経営上、必要な支出です」
「わたくしの食事が?」
「投資では?」
それは、自分が口にした言葉だった。
イデアは黙る。
「自分への投資だけは、なぜ渋るのです?」
アルゼルが尋ねる。
「わたくし一人分を減らせば、ほかの方へ回せますもの」
「七十人の食料不足を、一人分減らして解決できると?」
「少しは」
「少しだけです」
アルゼルは穏やかに微笑んでいる。
だが退くつもりはなさそうだ。
「食べ終わるまで見ています」
「あなたも働くのでしょう?」
「食べ終われば」
「相変わらず、食事監督官を続けるおつもり?」
「必要性が証明され続けていますので」
「その役職は認めておりませんわ!」
イデアが麦粥を一口食べる。
アルゼルは満足そうに頷いた。
少し離れたところで、それを見ていたピムが言う。
「領主様、怒られてる」
「怒られておりません!」
「ちゃんと食べないから?」
「食べておりますわ!」
「残したら駄目だよ」
「分かっています!」
子供にまで注意され、イデアは仕方なく匙を動かした。
◇
作業が始まると、七人の仮住民はすぐにそれぞれの力を示した。
ローデンは木材を確認し、使う場所ごとに印をつけていく。
節の多い部分は小屋の壁。
真っ直ぐな部分は軸。
加工しやすい部分は羽板。
セラは村の女性たちと一緒に古い麻袋を解き、使える糸を取り出した。油を染み込ませた布を軸の隙間へ巻き、水が入り込みにくくするためだという。
ユーイとエスタも縄作りを手伝い、持ってきた山羊毛の使い道を村人へ教えていた。
デガンは石積み跡の近くへ腰を下ろし、石槌を振るう。
膝が悪いため、立ったまま長く働くことはできない。
だが一度座れば、石を見る目と槌を振るう手は誰よりも確かだった。
「そこじゃない」
デガンがバルクへ言う。
「もう少し右だ」
「右?」
「お前から見てじゃない。石から見てだ」
「石に右左があるのか?」
「分からんなら、まだ槌を持つな」
「教える気があるのか?」
「あるから怒ってる」
二人の声が、朝から水車跡へ響いていた。
一方、ピムは村の子供たちと一緒に古い釘を集めている。
廃屋や教会の周囲から、抜け落ちた釘や錆びた金具を拾ってくるのだ。リルはまだ二歳なので、セラのそばを離れず、時折拾った小枝を得意げに母親へ差し出していた。
「これは?」
ピムが何かを持って走ってくる。
釘ではない。
泥にまみれた、銀色の小さな飾りだった。
「どこにありましたの?」
「教会の裏!」
アルゼルが受け取り、表面の土を指で払う。
「古い宗教具の一部でしょうね」
「価値は?」
「人間の市場なら、それなりには」
イデアはアルゼルを見る。
「見返りですの?」
「何か災難がありましたか?」
「ございませんわね」
「でしたら、ただの発見です」
「災難がなくても利益は得られるのね」
「当然です。世の中の利益すべてを私のおかげにされても困ります」
「普段は何でもご自分のおかげになさるのに」
「功績の分配は正確に」
飾りはひとまず帳簿へ記録し、保管することになった。
ピムには発見者として、干した果物が一欠片与えられる。
「僕も探す!」
それを見た子供たちが、一斉に教会の裏へ走り出した。
「食べ物で釣ったようになりましたわね」
「労働への正当な報酬です」
クラウスが答えた。
「ただし、発見物の価値より報酬が高くならないよう注意は必要ですが」
「子供の干し果物ひとつにまで厳密ですのね」
「帳簿を預かる者ですので」
◇
三日目。
水車を設置する場所の土を掘っていたイデアは、足元の異変に気づいた。
「ここだけ、ずいぶん柔らかいですわね」
土の色が周囲と違う。
黒く湿っており、鋤を入れると簡単に沈んだ。
「昔の水路かもしれません」
ローデンが近づく。
「そこは踏まない方が——」
言い終わる前に、地面が崩れた。
「きゃっ!」
イデアの右脚が、踝まで土へ沈む。
冷たい泥が靴の中へ入り込んだ。
「イデア」
すぐ近くにいたアルゼルが手を差し出した。
「手を」
伸ばされた手を見る。
白い指。
何度も、自分を助けてきた手だった。
橋から落ちた時も。
倒木が迫った時も。
困れば、アルゼルがいる。
そう思うことが、いつの間にか当たり前になりかけていた。
――あなたがいなくなった後に困る。
ローデンの言葉が、不意に胸へ戻る。
いつまでも、この手が差し出されるとは限らない。
「……大丈夫ですわ」
イデアはアルゼルの手を取らなかった。
「自分で出られます」
「イデア」
「これくらい、一人でできなくてどうしますの」
そう言って、左脚へ力をかけた。
途端に、ずぶり、と左側の地面まで崩れた。
「え?」
身体が一気に膝近くまで沈む。
「動かないで!」
ローデンの声が飛ぶ。
「いま動くほど沈みます!」
「先ほど聞きたかったですわ!」
泥は冷たく、重かった。
抜こうとするほど足へまとわりつく。
アルゼルの手はもう伸びていなかった。
その代わり、彼はすぐに周囲の地面を確かめ、ローデンとミラへ指示を送る。
「板を渡してください。あの辺りなら固い」
「分かった!」
倒木から切り出した板が、泥の上へ差し渡される。
ローデンが縄を投げた。
「伯爵様、腰へ!」
「分かりましたわ!」
イデアは泥だらけの手で縄を掴み、自分の腰へ回す。
ローデンとミラ、それに村人二人が引いた。
「せーの!」
ずぼっ、と大きな音がした。
イデアの身体が泥から抜ける。
ただし片方の靴だけは、きれいに置き去りになった。
「靴が!」
「あとで掘り出します!」
ローデンに言われ、イデアは板の上へ引き上げられた。
全身泥まみれだった。
髪にまで黒い泥が飛んでいる。
「領主様、泥のお化けみたい」
ピムが言った。
「笑い事ではありませんわ!」
周囲から、安堵とともに小さな笑いが起きる。
イデアは息を整えながら、アルゼルを見る。彼は少し離れた場所に立っていた。
「怪我は?」
声音はいつもと変わらない。
「ございません」
「足首は?」
「大丈夫ですわ」
「そうですか」
それだけ言うと、アルゼルは近づいてこなかった。
自分が手を取らなかったのだから、当然だ。
そう思ったのに。
なぜか、胸の奥が少しだけ寂しかった。
「領主様!」
ローデンの声が上がる。
「下に何かあります!」
イデアが沈んでいた穴の底から、円形の石が覗いていた。
表面には規則的な溝が刻まれている。
「石臼?」
デガンが杖をつきながら近づき、泥を掻き出した。
「上臼だ。欠けも少ない」
「使えそうですの?」
「洗ってみなきゃ分からんが、捨てるほどじゃない」
さらに掘り進めると、その下から木と金属を組み合わせた古い枠まで現れた。
木はかなり腐っている。
だが、中心部の鉄製の軸受けは形を残していた。
「昔の水車小屋が、そのまま埋まっていたのか」
オルドが呟く。
ローデンは泥の穴へ入り、夢中で周囲を調べ始めた。
「土台も残っています。軸受けの位置もそのまま使える」
「何日短くなりますの?」
泥まみれのまま、イデアが尋ねる。
ローデンが顔を上げる。
「石臼まで使えれば、三日ほどは」
「では、七日で?」
「回せます」
イデアは、自分の姿を見下ろした。
失ったものは片方の靴。
それも、おそらく後で掘り出せる。
得たものは石臼。
軸受け。
水車小屋の古い土台。
「……黒字ですわね」
「大幅な」
アルゼルが答えた。
いつもなら、その声を聞いてすぐに言い返していただろう。
だがイデアは一瞬だけ、先ほど取らなかった手を思い出した。




