21.帳簿の赤字には名前があります(下)
日が傾く頃。
一行は村の共同倉庫へ入った。
春に税として持っていかれた穀物を除き、村全体の備蓄を保管している場所だ。
扉を開けると、乾いた麦と埃の匂いがした。壁際に積まれている袋は、想像していたよりずっと少ない。
「これで、すべて?」
イデアが尋ねる。
「共同の分は」
オルドが答えた。
「各家に残っているものを合わせれば、もう少しあります」
「今日の聞き取りも含めて計算いたします」
クラウスが帳面を開いた。
アルゼルも横から数字を見る。
しばらくして、クラウスが口を開く。
「全住民が現在と同じ量を食べるなら、二十日ほどです」
「食事をかなり減らせば二十七日」
アルゼルがすぐに続けた。
クラウスが顔を上げる。
「暗算ですか」
「この程度なら」
「……計算は合っています」
「私が間違えると?」
「確認しただけです」
また張り合いそうな二人を、イデアは手で制した。
「収穫までは?」
「早い作物でも二月以上」
オルドが答える。
「昨日、水が戻ったばかりです。今年植えた麦の大半は、育ちが悪い」
「王都から持ってきた種を植えても?」
「食べられるようになるまでには間に合わん」
イデアは積まれた袋を見る。
二十七日。
それも、全員が食事を減らした場合。
子供も。
老人も。
病人も。
全員となれば、そこに含まれる。
「種として残している麦は?」
「あそこに五袋」
オルドが倉庫の奥を指した。
「それを食べれば?」
「来年がなくなります」
「……そうですわね」
種を食べれば、今は生きられる。
その代わり、次の収穫が消える。
貧しくなった土地では、人々は未来から先に食べていくのだ。
イデアは棚に置かれていた古い木製の升を手に取った。
「春の税は、これで量ったの?」
「ああ」
「十八袋分?」
「そうだ」
イデアは棚から升を持ち上げた。
見たところ、古びてはいるものの、ごく普通の木製の升である。底の周囲には厚めの木枠が巡らされているが、長く使う道具なので、それほど不自然には見えない。
「随分と頑丈な作りですのね」
底を確かめようと裏返した、その時だった。
袖口が棚の突起へ引っかかる。
「あっ」
升が手から滑り落ちた。
石床へぶつかり、乾いた音を立てる。
衝撃で、底を覆っていた木板の一部が割れた。
「申し訳ありません!」
イデアは慌てて屈み込む。
だが。
割れた木板の奥から、黒ずんだ金属が覗いていた。
「……何ですの、これは」
クラウスも隣へ屈み込んだ。
外側の木板のさらに内側に、もう一枚、金属製の底がある。
しかも平らではない。
中央へ向かうほど、浅く下へ膨らむように作られていた。
「補強でしょうか」
イデアが首を傾げる。
「いいえ」
クラウスの声が低くなった。
アルゼルが升を拾い上げ、割れた部分を指先で確かめる。
「外から見えていた木板は、本当の底ではありませんね」
「どういうこと?」
「覆いです。外からはこの位置に底があるように見えますが、実際に穀物を受ける底は、その内側でもう少し下にあります」
アルゼルが升を元の向きへ戻し、中を覗き込む。
「金属板を浅く窪ませ、その下がった部分を外側の木枠と板で隠しているのでしょう」
「では……見た目より中が深い?」
「ええ」
クラウスが升を受け取り、内側の深さを測る。
「正規の升と並べなければ、気づきにくい程度です。しかし、一杯ごとに一割前後は余分に入るでしょう」
イデアは升を見つめた。
「同じ一杯と言いながら、こちらを使えば、それだけ多く麦を取れるということですのね」
「はい」
クラウスの声が冷たくなった。
「徴税のために細工された、不正な計量器です」
オルドが升を見る。
「では、十八袋ではなく……」
「正規の量へ換算すれば、二十袋近くを納めさせられていた可能性があります」
倉庫の中が静まり返る。
春に村から出ていった穀物は、記録よりさらに多かった。
以前分かった徴税人の横領だけではない。
最初から村人を騙すための道具まで用意されていたのだ。
「ほかの升も確認してくださいませ」
イデアが言う。
棚から残りの升を下ろして調べる。
三つのうち、ふたつに同じ細工があった。
「証拠として保全します」
クラウスが不正な升を布へ包む。
「旧代理人と徴税人について調査し、横領分の返還を求めることができます」
「戻ってくるのですか?」
オルドが尋ねた。
「すぐには難しいでしょう。記録を照合し、相手の資産状況も確認しなければなりません」
返ってくるとしても、何月も先。
食料が尽きるまで、長く見ても二十七日。
間に合わない。
「アルゼル」
「はい」
「升を落とした災難の見返りが、横領の証拠?」
「おそらく」
「食料そのものではありませんのね」
「求めた形で返るとは限らないと、最初に申し上げたでしょう」
「こういう時だけ説明をよく覚えておりますのね」
「重要な内容ですので」
イデアは割れた升を見た。
これで過去の不正を正せる可能性は生まれた。
しかし。
過去の不正を暴いても、明日の食事にはならない。
◇
日が沈んだあと。
廃教会へ戻ったイデアは、粗末な机の上へ金銀銅の硬貨を並べていた。
王都を出た時より、残金はかなり減っている。
農具。
種。
旅費。
荷車。
途中で失ったものもあれば、買い直したものもある。
ドワーフたちの助けで損失を抑えられたものもあった。
それでも、領地再建へ使える金には限りがある。
「この金額で買える穀物は?」
イデアが尋ねる。
クラウスが帳面へ数字を書き込んだ。
「近隣の町で通常価格なら、村全体の一月分ほどでしょう」
「それでは収穫まで足りませんわね」
「そもそも、今年の収穫が十分になる保証もありません」
「豆や芋なら?」
「麦より安価なものもありますが、運搬費がかかります」
「町からここまでの道が悪いですものね」
数字を増やす。
減らす。
品目を変える。
運び方を変える。
何度計算しても、足りない。
アルゼルは向かい側から、机に並んだ硬貨を見ていた。
「これを食料へ使えば、当初予定していた屋根の資材と農具の追加購入は難しくなります」
「屋根は倒木から取った木材で直します」
「すべては無理でしょう」
「雨漏りする場所には桶を置きますわ」
「ひとつは私が壊しました」
「まだその話をなさいますの?」
「事実を確認しただけです」
イデアは硬貨を一枚ずつ積み上げた。
「月白花の種を売ればどうです?」
クラウスが尋ねる。
小ラズマイトへ向かう道中、彼にはイデアの不幸体質やアルゼルの加護、それにドワーフの坑道で起きたことも、必要な範囲で話してある。当然、そこで手に入れた月白花の種についても知っていた。
「売りません」
イデアは即答した。
「正確には、今は売れません。育つかどうかも、どの程度の価値があるのかも確定していないものを、高値で売るつもりはございませんわ」
「では、残金の大半を食料へ?」
「ええ」
「借金返済の計画が遅れます」
「分かっています」
「領地の収支は、初月から赤字になりますよ」
クラウスの指摘は正しい。
秋税を取らない。
当面、村からまとまった収入はない。
そのうえ、外から食料を買う。
支出ばかりだ。
「そうですわね」
イデアは、新しく作った住民帳を開いた。
今日一日で記した名前が並んでいる。
生まれたばかりの子供。
足の悪い老人。
片腕を失った元兵士。
建築仕事のできるミラ。
薬草の知識を持つハンナ。
灰坊を隠していたデニスたち一家。
帳簿の数字だけを見れば、全員が食料を消費する者だ。
一人増えるほど、必要な麦が増える。
支出が増える。赤字が増える。
だが。
「この方々が生き延びれば、来年も畑を耕せます」
イデアは言った。
「家を直せます。道具を作れます。病人を診ることも、帳簿をつけることもできる。村を続けられます」
「つまり?」
アルゼルが尋ねる。
「これは損失ではありません」
イデアは積み上げた硬貨をひとつの袋へまとめた。
「投資ですわ」
アルゼルの口元が、ゆっくりと緩んだ。
「現在の収支が赤字でも?」
「五年の間に、黒字にすればよいのです」
「随分と長期的な計算ですね」
「領地経営とは、そのようなものでしょう?」
クラウスはしばらく住民帳を見つめていた。
「分かりました。明日、近隣で購入可能な穀物の量と、最も費用を抑えられる運搬方法を計算します」
「お願いします」
「ただし、無計画な配給は認められません」
「もちろんですわ」
「全世帯の人数と健康状態に応じて、基準を作る必要があります」
「ダリオにも手伝っていただきましょう。文字と計算ができます」
クラウスがわずかに目を見開く。
「今日見つけた方ですね」
「ええ。この領地で、まだ一番多く残っている資産は人ですもの」
「伯爵閣下は、人間も資産として数えるのですか?」
「もちろんですわ。ただし」
イデアは住民帳の最初の頁へ、羽根ペンを走らせた。
「売ることも、使い潰すこともできない資産です」
金貨は減る。
食料は食べればなくなる。
家も、畑も、道具も壊れる。
人間だって、いつかはいなくなる。
だからこそ。
今、生きている者をただの数字として扱ってはならない。
イデアは最初の頁へ、現在分かっている数字を書いた。
――小ラズマイト村、現在人口六十三名。
その下へ、もう一行。
――冬までに、誰一人として飢えさせないこと。
「これは帳簿に書く内容ではないのでは?」
クラウスが言った。
「わたくしの帳簿ですもの」
「収支の目標は?」
「借金返済」
「それから?」
アルゼルが促す。
イデアは少し考えた。
そして、さらに続きを書き加える。
――五年後、この村に住んでいてよかったと、一人でも多くの者に思わせること。
「随分と測りにくい利益です」
クラウスが呟いた。
「数字にできないものもございますわ」
「黒字かどうか、判定できませんね」
アルゼルが言う。
「あなたなら分かるでしょう?」
「ええ」
アルゼルは住民帳へ並んだ名前を見た。
閉じた瞳のまま、穏やかに微笑む。
「その利益が得られたなら、金貨などより遥かに大きな黒字でしょうね」
「では、まずは六十三人分の食料ですわね」
「いえ」
礼拝堂の入口から、オルドの声がした。
振り返る。
彼はいつになく厳しい表情で立っていた。イデアが尋ねるより早く、オルドは続けた。
「先ほど、村の外で人影を見たとトーマから知らせがあった」
「旅人?」
「分からん」
「盗賊では?」
クラウスが立ち上がる。
「一人ではないそうだ」
「何人ですの?」
「子供を含めて、七人」
イデアは羽根ペンを置いた。
六十三人分の食料すら足りない。
そこへ、さらに七人。
「どのような方々ですの?」
オルドは短く答えた。
「行き場を失った者たちのようだ」
礼拝堂に沈黙が落ちた。
イデアは机の上の硬貨を見る。
次に、まだ空白の残っている住民帳へ視線を落とした。
「アルゼル」
「はい」
「こういう場合も、見返りですの?」
「まだ分かりません」
「災難の可能性は?」
「十分にあります」
「正直ですわね」
イデアは立ち上がり、外套を手に取った。
「会いに参ります」
「受け入れるおつもりですか」
オルドが尋ねる。
「まだ決めておりません」
領地は貧しい。
食料も足りない。
住む家も。働く場所も。
何ひとつ余ってはいない。
善意だけで人を増やせば、今いる村人まで共倒れになりかねない。
だが。
追い返すかどうかを、顔も見ずに決めるつもりもなかった。
「まず、何ができる方々なのか。なぜ行き場を失ったのか。それを聞きます」
「領地の収支へ加えるため?」
アルゼルが尋ねる。
「ええ」
イデアは住民帳を閉じた。
「赤字になるか、黒字になるか。人は、会ってみなければ分かりませんもの」
もっとも。
自分とアルゼルが出会った時も、最初は災難がひとつ増えたようにしか思えなかった。
いまも大部分は災難かもしれないが。
「何です?」
アルゼルが首を傾げる。
「あなたも、黒字になるまで随分とかかりそうだと思っただけですわ」
「私は出会った瞬間から大幅な黒字でしょう」
「その自信だけは、初日から利益を上げ続けておりますわね」
イデアは廃教会を出た。
夜の村の向こうに、小さな灯りがいくつか見える。
新たに現れた七人が、この領地へ何をもたらすのか。
この時のイデアには、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは。
六十三名と記されたばかりの住民帳に、早くも新しい名前を書き加えることになるかもしれない、ということだった。




