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21/62

21.帳簿の赤字には名前があります(下)


 日が傾く頃。

 一行は村の共同倉庫へ入った。

 春に税として持っていかれた穀物を除き、村全体の備蓄を保管している場所だ。

 扉を開けると、乾いた麦と埃の匂いがした。壁際に積まれている袋は、想像していたよりずっと少ない。


「これで、すべて?」


 イデアが尋ねる。


「共同の分は」


 オルドが答えた。


「各家に残っているものを合わせれば、もう少しあります」

「今日の聞き取りも含めて計算いたします」


 クラウスが帳面を開いた。

 アルゼルも横から数字を見る。

 しばらくして、クラウスが口を開く。


「全住民が現在と同じ量を食べるなら、二十日ほどです」

「食事をかなり減らせば二十七日」


 アルゼルがすぐに続けた。

 クラウスが顔を上げる。


「暗算ですか」

「この程度なら」

「……計算は合っています」

「私が間違えると?」

「確認しただけです」


 また張り合いそうな二人を、イデアは手で制した。


「収穫までは?」

「早い作物でも二月以上」


 オルドが答える。


「昨日、水が戻ったばかりです。今年植えた麦の大半は、育ちが悪い」

「王都から持ってきた種を植えても?」

「食べられるようになるまでには間に合わん」


 イデアは積まれた袋を見る。

 二十七日。

 それも、全員が食事を減らした場合。

 子供も。

 老人も。

 病人も。

 全員となれば、そこに含まれる。


「種として残している麦は?」

「あそこに五袋」


 オルドが倉庫の奥を指した。


「それを食べれば?」

「来年がなくなります」

「……そうですわね」


 種を食べれば、今は生きられる。

 その代わり、次の収穫が消える。

 貧しくなった土地では、人々は未来から先に食べていくのだ。

 イデアは棚に置かれていた古い木製の升を手に取った。


「春の税は、これで量ったの?」

「ああ」

「十八袋分?」

「そうだ」


 イデアは棚から升を持ち上げた。

 見たところ、古びてはいるものの、ごく普通の木製の升である。底の周囲には厚めの木枠が巡らされているが、長く使う道具なので、それほど不自然には見えない。


「随分と頑丈な作りですのね」


 底を確かめようと裏返した、その時だった。

 袖口が棚の突起へ引っかかる。


「あっ」


 升が手から滑り落ちた。

 石床へぶつかり、乾いた音を立てる。

 衝撃で、底を覆っていた木板の一部が割れた。


「申し訳ありません!」


 イデアは慌てて屈み込む。

 だが。

 割れた木板の奥から、黒ずんだ金属が覗いていた。


「……何ですの、これは」


 クラウスも隣へ屈み込んだ。

 外側の木板のさらに内側に、もう一枚、金属製の底がある。

 しかも平らではない。

 中央へ向かうほど、浅く下へ膨らむように作られていた。


「補強でしょうか」


 イデアが首を傾げる。


「いいえ」


 クラウスの声が低くなった。

 アルゼルが升を拾い上げ、割れた部分を指先で確かめる。


「外から見えていた木板は、本当の底ではありませんね」

「どういうこと?」

「覆いです。外からはこの位置に底があるように見えますが、実際に穀物を受ける底は、その内側でもう少し下にあります」


 アルゼルが升を元の向きへ戻し、中を覗き込む。


「金属板を浅く窪ませ、その下がった部分を外側の木枠と板で隠しているのでしょう」

「では……見た目より中が深い?」

「ええ」


 クラウスが升を受け取り、内側の深さを測る。


「正規の升と並べなければ、気づきにくい程度です。しかし、一杯ごとに一割前後は余分に入るでしょう」


 イデアは升を見つめた。


「同じ一杯と言いながら、こちらを使えば、それだけ多く麦を取れるということですのね」

「はい」


 クラウスの声が冷たくなった。


「徴税のために細工された、不正な計量器です」


 オルドが升を見る。


「では、十八袋ではなく……」

「正規の量へ換算すれば、二十袋近くを納めさせられていた可能性があります」


 倉庫の中が静まり返る。

 春に村から出ていった穀物は、記録よりさらに多かった。

 以前分かった徴税人の横領だけではない。

 最初から村人を騙すための道具まで用意されていたのだ。


「ほかの升も確認してくださいませ」


 イデアが言う。

 棚から残りの升を下ろして調べる。

 三つのうち、ふたつに同じ細工があった。


「証拠として保全します」


 クラウスが不正な升を布へ包む。


「旧代理人と徴税人について調査し、横領分の返還を求めることができます」

「戻ってくるのですか?」


 オルドが尋ねた。


「すぐには難しいでしょう。記録を照合し、相手の資産状況も確認しなければなりません」


 返ってくるとしても、何月も先。

 食料が尽きるまで、長く見ても二十七日。

 間に合わない。


「アルゼル」

「はい」

「升を落とした災難の見返りが、横領の証拠?」

「おそらく」

「食料そのものではありませんのね」

「求めた形で返るとは限らないと、最初に申し上げたでしょう」

「こういう時だけ説明をよく覚えておりますのね」

「重要な内容ですので」


 イデアは割れた升を見た。

 これで過去の不正を正せる可能性は生まれた。

 しかし。

 過去の不正を暴いても、明日の食事にはならない。


 ◇


 日が沈んだあと。

 廃教会へ戻ったイデアは、粗末な机の上へ金銀銅の硬貨を並べていた。

 王都を出た時より、残金はかなり減っている。

 農具。

 種。

 旅費。

 荷車。

 途中で失ったものもあれば、買い直したものもある。

 ドワーフたちの助けで損失を抑えられたものもあった。

 それでも、領地再建へ使える金には限りがある。


「この金額で買える穀物は?」


 イデアが尋ねる。

 クラウスが帳面へ数字を書き込んだ。


「近隣の町で通常価格なら、村全体の一月分ほどでしょう」

「それでは収穫まで足りませんわね」

「そもそも、今年の収穫が十分になる保証もありません」

「豆や芋なら?」

「麦より安価なものもありますが、運搬費がかかります」

「町からここまでの道が悪いですものね」


 数字を増やす。

 減らす。

 品目を変える。

 運び方を変える。

 何度計算しても、足りない。

 アルゼルは向かい側から、机に並んだ硬貨を見ていた。


「これを食料へ使えば、当初予定していた屋根の資材と農具の追加購入は難しくなります」

「屋根は倒木から取った木材で直します」

「すべては無理でしょう」

「雨漏りする場所には桶を置きますわ」

「ひとつは私が壊しました」

「まだその話をなさいますの?」

「事実を確認しただけです」


 イデアは硬貨を一枚ずつ積み上げた。


「月白花の種を売ればどうです?」


 クラウスが尋ねる。

 小ラズマイトへ向かう道中、彼にはイデアの不幸体質やアルゼルの加護、それにドワーフの坑道で起きたことも、必要な範囲で話してある。当然、そこで手に入れた月白花の種についても知っていた。


「売りません」


 イデアは即答した。


「正確には、今は売れません。育つかどうかも、どの程度の価値があるのかも確定していないものを、高値で売るつもりはございませんわ」

「では、残金の大半を食料へ?」

「ええ」

「借金返済の計画が遅れます」

「分かっています」

「領地の収支は、初月から赤字になりますよ」


 クラウスの指摘は正しい。

 秋税を取らない。

 当面、村からまとまった収入はない。

 そのうえ、外から食料を買う。

 支出ばかりだ。


「そうですわね」


 イデアは、新しく作った住民帳を開いた。

 今日一日で記した名前が並んでいる。

 生まれたばかりの子供。

 足の悪い老人。

 片腕を失った元兵士。

 建築仕事のできるミラ。

 薬草の知識を持つハンナ。

 灰坊を隠していたデニスたち一家。

 帳簿の数字だけを見れば、全員が食料を消費する者だ。

 一人増えるほど、必要な麦が増える。

 支出が増える。赤字が増える。

 だが。


「この方々が生き延びれば、来年も畑を耕せます」


 イデアは言った。


「家を直せます。道具を作れます。病人を診ることも、帳簿をつけることもできる。村を続けられます」

「つまり?」


 アルゼルが尋ねる。


「これは損失ではありません」


 イデアは積み上げた硬貨をひとつの袋へまとめた。


「投資ですわ」


 アルゼルの口元が、ゆっくりと緩んだ。


「現在の収支が赤字でも?」

「五年の間に、黒字にすればよいのです」

「随分と長期的な計算ですね」

「領地経営とは、そのようなものでしょう?」


 クラウスはしばらく住民帳を見つめていた。


「分かりました。明日、近隣で購入可能な穀物の量と、最も費用を抑えられる運搬方法を計算します」

「お願いします」

「ただし、無計画な配給は認められません」

「もちろんですわ」

「全世帯の人数と健康状態に応じて、基準を作る必要があります」

「ダリオにも手伝っていただきましょう。文字と計算ができます」


 クラウスがわずかに目を見開く。


「今日見つけた方ですね」

「ええ。この領地で、まだ一番多く残っている資産は人ですもの」

「伯爵閣下は、人間も資産として数えるのですか?」

「もちろんですわ。ただし」


 イデアは住民帳の最初の頁へ、羽根ペンを走らせた。


「売ることも、使い潰すこともできない資産です」


 金貨は減る。

 食料は食べればなくなる。

 家も、畑も、道具も壊れる。

 人間だって、いつかはいなくなる。

 だからこそ。

 今、生きている者をただの数字として扱ってはならない。

 イデアは最初の頁へ、現在分かっている数字を書いた。

 ――小ラズマイト村、現在人口六十三名。

 その下へ、もう一行。

 ――冬までに、誰一人として飢えさせないこと。


「これは帳簿に書く内容ではないのでは?」


 クラウスが言った。


「わたくしの帳簿ですもの」

「収支の目標は?」

「借金返済」

「それから?」


 アルゼルが促す。

 イデアは少し考えた。

 そして、さらに続きを書き加える。

 ――五年後、この村に住んでいてよかったと、一人でも多くの者に思わせること。


「随分と測りにくい利益です」


 クラウスが呟いた。


「数字にできないものもございますわ」

「黒字かどうか、判定できませんね」


 アルゼルが言う。


「あなたなら分かるでしょう?」

「ええ」


 アルゼルは住民帳へ並んだ名前を見た。

 閉じた瞳のまま、穏やかに微笑む。


「その利益が得られたなら、金貨などより遥かに大きな黒字でしょうね」

「では、まずは六十三人分の食料ですわね」

「いえ」


 礼拝堂の入口から、オルドの声がした。

 振り返る。

 彼はいつになく厳しい表情で立っていた。イデアが尋ねるより早く、オルドは続けた。


「先ほど、村の外で人影を見たとトーマから知らせがあった」

「旅人?」

「分からん」

「盗賊では?」


 クラウスが立ち上がる。


「一人ではないそうだ」

「何人ですの?」

「子供を含めて、七人」


 イデアは羽根ペンを置いた。

 六十三人分の食料すら足りない。

 そこへ、さらに七人。


「どのような方々ですの?」


 オルドは短く答えた。


「行き場を失った者たちのようだ」


 礼拝堂に沈黙が落ちた。

 イデアは机の上の硬貨を見る。

 次に、まだ空白の残っている住民帳へ視線を落とした。


「アルゼル」

「はい」

「こういう場合も、見返りですの?」

「まだ分かりません」

「災難の可能性は?」

「十分にあります」

「正直ですわね」


 イデアは立ち上がり、外套を手に取った。


「会いに参ります」

「受け入れるおつもりですか」


 オルドが尋ねる。


「まだ決めておりません」


 領地は貧しい。

 食料も足りない。

 住む家も。働く場所も。

 何ひとつ余ってはいない。

 善意だけで人を増やせば、今いる村人まで共倒れになりかねない。

 だが。

 追い返すかどうかを、顔も見ずに決めるつもりもなかった。


「まず、何ができる方々なのか。なぜ行き場を失ったのか。それを聞きます」

「領地の収支へ加えるため?」


 アルゼルが尋ねる。


「ええ」


 イデアは住民帳を閉じた。


「赤字になるか、黒字になるか。人は、会ってみなければ分かりませんもの」


 もっとも。

 自分とアルゼルが出会った時も、最初は災難がひとつ増えたようにしか思えなかった。

 いまも大部分は災難かもしれないが。


「何です?」


 アルゼルが首を傾げる。


「あなたも、黒字になるまで随分とかかりそうだと思っただけですわ」

「私は出会った瞬間から大幅な黒字でしょう」

「その自信だけは、初日から利益を上げ続けておりますわね」


 イデアは廃教会を出た。

 夜の村の向こうに、小さな灯りがいくつか見える。

 新たに現れた七人が、この領地へ何をもたらすのか。

 この時のイデアには、まだ分からなかった。

 ただ一つ確かなのは。

 六十三名と記されたばかりの住民帳に、早くも新しい名前を書き加えることになるかもしれない、ということだった。


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