20.帳簿の赤字には名前があります(上)
井戸に水が戻った翌朝、イデアは水路ではなく、帳簿の前に座っていた。
机と呼んでよいものかは少々怪しい。倒れた大木から切り出した板を木箱の上へ載せただけで、表面はまだざらついており、羽根ペンを動かすたびに紙が引っかかる。
椅子もない。
昨日まで長椅子だった座面を、適当な高さの石へ載せて使っている。
頭上には雨漏りを防ぐための布が張られていた。風が吹くたび頼りなく揺れ、その向こうには補修の終わっていない屋根が見える。
伯爵の執務室としては、王国でも有数の質素さだろう。
「見事な執務室ですね」
祭壇の脇に立つアルゼルが、礼拝堂を見渡しながら言った。
「嫌味ですの?」
「いいえ。天井が高く、開放感があります」
「一部が抜けているからでしょう」
「自然光も豊富です」
「屋根の穴から入っておりますわね」
「換気にも優れています」
「窓硝子がないだけです!」
イデアは羽根ペンを机へ置いた。
「無理に褒めなくて結構ですわ」
「物事の美点を見つけるのは、私の得意分野です」
「ご自分以外にも適用できましたのね」
「私は寛大ですから」
アルゼルは満足そうに微笑んだ。
村人がいつ来てもおかしくないため、今日も大きな外套をまとっている。その下では白い翼が窮屈そうに畳まれており、背もたれのある椅子へ座ることもできない。
もっとも、立派な椅子などない。そのうえ、本人は立ったままでもまったく疲れないらしい。
「あなたには便利な身体ですわね」
「どの辺りが?」
「立ち仕事に強いところです」
「私の美点としては随分と地味な評価ですね」
その時、礼拝堂の入口から控えめな咳払いが聞こえた。
クラウスが書類の束を抱えて立っている。
「お話し中、失礼いたします」
「いつからいらしたの?」
「伯爵閣下が窓硝子についてお怒りになっていた辺りから」
「ほとんど最初ではありませんか!」
「声をかける機会を窺っておりました」
クラウスの後ろにはオルドもいた。
二人とも真面目な顔をしている。
ただし、オルドの口元だけがわずかに緩んでいた。
イデアは何も見なかったことにした。
「必要な書類は揃いましたの?」
「村に残されていたものは、ひととおり」
クラウスが古い帳簿を机の上へ置く。
革張りの表紙は端が擦り切れ、ところどころ虫に食われていた。開けば、古い筆跡が何代分も重なっている。
「最後に正確な人口調査が行われたのは、九年前です」
「土地台帳に記載されていた八十七名という数字ですわね」
「はい。それ以降は、徴税人が村長から聞き取った人数を書き加えているだけです」
「死亡や移住の記録は?」
「一部しかありません」
クラウスが頁をめくる。
名前の横へ線が引かれている者。
欄外へ小さく書き足されている者。
家族ごとひとつの丸で囲まれている者。
誰が生きていて、誰が亡くなり、誰が村を離れたのか。これだけでは正確には分からない。
「これでは、税の計算もまともではなかったでしょう」
「だから家ごとに一定量を割り振られていました」
オルドが答えた。
「住んでいる人数が減ろうが、病人が出ようが関係なく」
「徴税人は、現状を確かめなかったの?」
「村の入口で酒と食事を出せば、畑も家も見ずに帰りました」
怒っているというより、もう怒ることにも疲れた声だった。
村が貧しくなっても、帳簿の数字は変わらない。
働ける者が減っても、求められる税は減らない。
帳簿が現実を記録するものではなく、現実を押し潰すための理由になっていた。
イデアは白紙の紙を取り出した。
「新しい住民帳を作ります」
「新しい徴税のためですか」
オルドの目が鋭くなる。
「違います」
イデアは即座に答えた。
「食料をどれほど用意すべきか。誰がどのような仕事をできるのか。病人や、助けが必要な方が何人いるのか。それを知るためです」
「税を取らないのに、家畜や蓄えまで調べると?」
「村全体が冬を越せるか確認するには必要でしょう」
イデアはまっすぐオルドを見る。
「ですが、記録したものを取り上げるつもりはありません」
「そう言った徴税人もいた」
「でしょうね」
すぐには信用されない。
井戸へ水を戻したからといって、それまで何年も積み重なった不信まで一日で流れ去るわけではない。
ならば、言葉だけで信じてもらおうとする方が間違っている。
「クラウス」
「はい」
「今年の秋税を免除することは、すでに決めていますわね」
「はい」
「それとは別に、今年の秋まで、領主権限による食料、種、家畜の臨時徴発を行わないことも正式な文書にできますか?」
クラウスがわずかに眉を上げた。
「可能です。ただし、火災や戦乱など、領地全体の存続に関わる緊急時を除くという条項は必要でしょう」
「それで構いません」
「伯爵家自身の食料が不足した場合も、村から無償で取り上げることはできなくなります」
「承知しています」
「本当によろしいのですか?」
「わたくしが飢えたからといって、領民の食事を奪っていたら、何のための領主ですの?」
イデアは羽根ペンを持ち直した。
「文書を作ってくださいませ。署名いたします」
クラウスはしばらくイデアを見ていた。
やがて、重要な命令書に使う羊皮紙を取り出す。
「承知しました」
◇
村人を廃教会へ集めるための鐘はなかった。
昔は鐘楼にあったらしいが、何十年も前に壊れ、使える金属は農具へ作り替えられたという。
そのためオルドは古びた鍋を持ち出し、棒で叩きながら村を回った。
がん、がん、と鈍い音が響く。
「新しい伯爵様が、家族の人数を聞くそうだ!」
その呼びかけ方のせいで、村人たちは余計に警戒した。
「もう少し言い方があったのではなくて?」
教会の入口で待っていたイデアが尋ねる。
「正確に伝えました」
「税のためではないとも伝えてくださいませ!」
「言っても、すぐには信じません」
「あなたまで!」
「わしも、まだ半分しか信じていませんので」
オルドは悪びれずに答えた。
正直である。
少しだけ悔しいが、腹は立たない。
やがて教会へ集まってきた村人たちは、家族ごとに固まり、壁際へ距離を取って並んだ。
イデアの隣にはクラウス。
反対側では、アルゼルが別の板を木箱へ載せ、立ったまま羽根ペンを手にしている。
「あなたも記録を?」
「できますよ」
「人間の文字を書けますの?」
「当然です。天使は無知ではありません」
イデアが予備の羽根ペンを渡すと、アルゼルはさらさらと紙へ文字を書き始めた。
流れるような筆運びだった。
金髪の天使に相応しい、優雅で隙のない文字。
ただし、妙に飾りが多い。
「……綺麗ですわね」
思わずイデアが覗き込む。
「私の字が?」
「文字が」
「私が書いた文字です」
「すべてご自分への称賛として受け取らないでくださる?」
クラウスも横から覗いた。
「公文書の筆記様式とは異なります」
「美しければよいのでは?」
「記録は、誰が読んでも同じように解釈できることが重要です」
「私の文字が読めないと?」
「装飾が多すぎます」
「芸術性を理解できないのですね」
「書類に芸術性は不要です」
二人の視線がぶつかる。
アルゼルは瞳を閉じているのに、器用に睨んでいるように見えた。
「では、アルゼルは聞き取りと下書きを。クラウスが正式な住民帳へまとめてくださいませ」
イデアが強引に役割を決める。
「適材適所ですね」
「私の文字の方が美しいことは変わりません」
「読みやすさでは私です」
なぜ張り合っているのだろう。
◇
最初に前へ出たのは、三人家族だった。
父親と母親。
その間に、まだ幼い男の子が立っている。
「お名前をお願いします」
イデアが尋ねると、父親は緊張した様子で答えた。
「デニス・ブラウンです。妻のエマと、息子のカイ」
「畑は?」
「南側に、麦畑を少し」
「家畜は?」
一瞬。
デニスとエマの視線が揺れた。
「……おりません」
その瞬間、カイが母親を見上げた。
「母ちゃん、灰坊は?」
父親と母親の顔が固まる。
「昨日、納屋の奥に隠しただろ?」
「カイ!」
エマが慌てて息子の口を塞いだ。
礼拝堂へ、気まずい沈黙が落ちる。
イデアはオルドを見た。
オルドは何も言わない。
クラウスも無表情のまま羽根ペンを止めている。
「灰坊というのは——」
「山羊だよ!」
カイが元気よく答えると、デニスは青ざめた顔で頭を下げた。
「申し訳ありません、伯爵様」
「なぜ謝りますの?」
「隠し立てを」
「取り上げられると思ったのでしょう?」
デニスは声を詰まらせた。
答えられないのだろう。
イデアは机の上へ置いていた、先ほど作った命令書を取り上げた。
「こちらをご覧くださいませ」
村人たちにも見えるよう、羊皮紙を広げる。
「今年の秋税は取りません。それに加えて、ラズマイト家は今年の秋まで、皆様の食料、種、家畜を領主権限で無償徴発いたしません。灰坊を一頭飼っていると記録されても、それを理由に何かを取り上げることはございませんわ」
「本当に?」
カイが尋ねた。
「ええ」
「灰坊、連れていかない?」
「連れていきません」
「領主様、山羊が好きじゃないの?」
イデアは少し考えた。
「好き嫌いの問題ではありませんわ。灰坊は、あなたの家で飼っているのでしょう?」
「うん」
「でしたら、その家の大切なものです。勝手に連れていったりはいたしません」
カイがほっとしたように笑う。
対して両親は、まだ完全には信じられない顔をしていた。
それでもデニスは、しばらく迷ったあとで口を開く。
「……干した豆が一袋あります」
「ほかには?」
「冬まで残すつもりだった麦が、籠に半分ほど」
エマも小さな声で付け加えた。
「ありがとうございます」
イデアはそれ以上追及せず、クラウスへ記録を促した。
今日すべてを信じてもらう必要はない。
記録した山羊を明日も奪わない。
七日後も奪わない。
秋になっても約束を破らない。
そうして初めて、命令書の文字よりも行動の方が信用されるのだろう。
◇
聞き取りには、午前いっぱいかかった。
素直に名乗る者もいれば、口を閉ざす者もいる。
自分の年齢を正確に覚えていない老人。
生まれた子供を、まだどの帳簿にも載せていなかった家族。
村を出ていった息子が、いつか戻るかもしれないからと名前を消したがらない母親。
イデアは一人ずつ話を聞いた。
途中から、そもそも教会まで来られない住民がいることも分かった。
足の悪い老人。
寝台から起き上がれない病人。
乳飲み子から長く離れられない母親。
「午後はこちらから伺います」
イデアが言うと、オルドが眉を寄せた。
「伯爵様が、一軒ずつ?」
「来られない方を最初から帳簿の外へ置くわけにはいかないでしょう」
「わしが聞いてきます」
「ご本人の顔も拝見したいのです」
「村中を歩けば、日が暮れます」
「日が暮れるまで歩きますわ」
オルドは何か言おうとして。
やめた。
「……分かりました」
◇
午後。
イデアはオルドとともに村を回った。
クラウスとアルゼルも同行する。
最初の数軒では、住民たちはなかなか家の中へ入れようとしなかった。
領主に見られては困るものがあるからではない。
恥ずかしいのだ。
何度も縫い合わせた寝具。
ひび割れた器。
補修を重ねた壁。
ほとんど食料のない棚。
だが、イデアは笑わなかった。
汚いとも、貧しいとも言わない。言えるわけがない。
屋根が傷んでいれば、修繕が必要だと記録した。
咳をする者がいれば、いつからなのか、薬はあるのかを尋ねた。
使われていない道具を見つければ、壊れているのか、それとも使える者がいないのかを確認する。
そうして話を聞くうちに、古い帳簿には書かれていなかったことが少しずつ見えてきた。
ミラは、木工だけではなく簡単な石積みまでできる。
バルクは畑仕事のほかに、壊れた農具を直せる。
トーマは山で狩りをし、食べられる野草や茸に詳しい。
村の外れに住む老女ハンナは薬草に詳しく、これまで何度も病人を診てきたうえ、子供を取り上げた経験もあるという。
畑を耕す者。
糸を紡げる者。
壊れた籠を編み直せる者。
保存食の作り方をよく知る者。
どれも昔の徴税帳簿には必要のない情報だった。
税を取るだけなら、人数と土地の広さが分かればよい。
だが村を立て直すなら、誰が何をできるのかを知らなければならない。
そして、一軒の小さな家で。
イデアは一人の男と会った。
四十歳ほどで、姿勢はよく、言葉遣いも村人の中では少しかたい。
何より目につくのは、片方の前腕だった。
手首と肘の中ほどから先がなく、袖はその位置で丁寧に留められている。
「ダリオ・ロウです」
男は静かに名乗った。
「以前は兵士をしていました」
「文字が読めると伺いました」
「はい。書くこともできます」
「計算は?」
「簡単なものでしたら」
「なぜ、それを今までおっしゃらなかったの?」
ダリオは少し困ったように笑い、短くなった方の腕へ視線を落とした。
「字が読めても、畑は耕せませんから」
淡々とした声だった。
自嘲しているようにも聞こえない。
ただ、それが自分に与えられた役割の限界だと思っているのだろう。
「帳簿はつけられますわ」
「帳簿、ですか?」
「村に必要なもの。収穫した量。使った種。残っている備蓄。配った食料。記録しなければならないことはいくらでもございます」
「ですが、外で記録するとなれば……」
ダリオは無事な方の手を軽く上げる。
「こちらは利き手なので、書くこと自体はできます。ただ、紙や帳面を支える手がありません」
「なるほど」
イデアはそこで初めて、彼が言いたいことを理解した。
机の上なら書ける。
けれど、畑や倉庫、諸々の現場を歩きながらとなれば、片手で紙を押さえ、同じ手で羽根ペンを動かすことはできない。
「でしたら、それは仕事ができない理由ではございませんわ」
「と、おっしゃいますと?」
「紙を支える方法を考えればよいのでしょう?」
ダリオが目を瞬く。
「……そのようなものがあるのですか?」
「今はございません」
「ないのですか」
「作ればよろしいのですわ」
イデアは当然のように答えた。
短く残った前腕へ固定し、紙や薄い板を載せられるもの。
あるいは端を挟んで留め、利き手だけで文字を書けるもの。
今すぐ形までは思いつかない。
けれど、ミラをはじめ、この村には手を動かして物を作れる者がいる。
「少なくとも、羽根ペンを持つ手はございますもの」
「……私にも、できる仕事があると?」
「むしろお願いしたいくらいですわ」
ダリオはしばらく、自分の利き手を見つめた。
その表情が、ほんの少しだけ変わった。
イデアは住民帳へ、新しい項目を書き足す。
名前と家族。
健康状態。
食料に家畜。
そして、できること。
働けない者はいない。
少なくとも、畑を耕せないという理由だけで、そう決めつける必要はない。
その者に合う仕事がまだ見つかっていないことはある。
ならば、それを見つけることも、領地を運営する仕事なのだろう。




