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17/62

17.倒れた木は建材になります

 

 翌朝になると、雨は上がっていた。

 空は澄み渡った青、濡れた土と草の匂いが鼻をくすぐる。

 地下室の石床へ毛布を敷いて眠ったイデアは、身体のあちこちが痛かった。

 アルゼルは結局一睡もせず、地下室の入口付近で過ごしていたらしい。

 外へ出る前に、再び大きな外套へ翼を押し込んでいる。


「おはようございます」

「おはよう……」

「よく眠れましたか?」

「石床で熟睡できるほど、まだたくましくありませんわ」

「翼をお貸しすると申し上げたのに」

「翼の上で眠るのは、さすがに遠慮いたします」

「柔らかいですよ」

「試したことがありますの?」

「自分の翼ですから」

「どうやって自分の翼の寝心地を確かめますの?」


 アルゼルは答えなかった。


「……今、適当におっしゃいましたわね?」

「どうでしょう」

「絶対そうですわ」


 教会の前には、すでにオルドと数人の村人が集まっていた。


「伯爵様」

「おはようございます」

「昨夜、随分大きな音がしたが」

「寝室の天井が落ちましたわ」


 オルドが黙った。

 村人たちも黙った。


「お怪我は?」

「ございません」

「……別の家へ移られますか」

「いいえ」

「だが、ここは危険だ」

「直せば安全になります」

「直すまで、どこで寝る」

「地下室です」

「鼠がいるぞ」

「三匹ほどですね」


 アルゼルが補足する。

 オルドは二人を交互に見た。


「本当に、ここへ住むおつもりなのですな」

「最初からそう申し上げておりますわ」

「一晩で嫌になるかと思っていた」

「少しは嫌になりました」


 イデアは正直に答えた。


「ですが、寝室の天井が落ちた程度で逃げていましたら、わたくしの人生はどこにも住めませんもの」


 村人の一人が吹き出しかけ、慌てて口元を押さえた。

 オルドも、ほんの少しだけ表情を緩める。


「それより、見ていただきたいものがあります」


 イデアは地下室から持ってきた羊皮紙を広げた。


「昨夜、この教会の地下で見つけました」


 図面を目にしたオルドの顔が変わる。


「これは……」

「ご存じですの?」

「いや。だが」


 皺の深い指が、描かれた水路を追った。


「子供の頃、祖父から聞いたことがある。昔、この村には地の下を流れる水があったと」

「地下水路?」

「ああ。井戸も畑も、昔は今ほど水に困らなかったそうだ」

「入口は?」

「誰も知らん。ずっと昔に埋まったと言われている」


 イデアは図面上の大木を指差す。


「この教会の北側に、点検口らしきものがあります」


 全員の視線が庭の一角へ向かった。

 大木は、遠目に見てもかなり大きい。

 近付くと、その大きさはさらに鮮明になる。幹は大人二人で腕を回しても届かないほど太く、背丈は崩れた尖塔より高い。

 ただ、枝の半分ほどは葉をつけていない。


「枯れかけておりますわね」

「半分は死んでいる」


 オルドが答えた。


「前から切ろうという話はあった。だが教会側へ倒れれば危ない。今まで手をつけられなかった」

「では、今日は根元を調べるだけにしましょう」


 イデアは昨日使った斧を手にした。

 アルゼルが見る。


「なぜ斧を?」

「根元の蔦を払うためです」

「私がやりましょう」

「昨日、一度も木へ当てられなかった方が?」

「いつまで言うおつもりですか」

「一度でも当てるまで」


 イデアは木へ近づいた。

 雨を吸った地面は柔らかい。

 根元には太い蔦が絡み、土と落ち葉が積もっている。

 オルドや村人たちにも手伝ってもらいながら、少しずつ根元を露出させていく。

 やがて、


「ありましたわ!」


 土の下から平たい石が姿を現した。

 円形の石蓋。

 表面には、翼と水滴を組み合わせたような古い紋様が刻まれている。

 図面にある印とほぼ同じだ。


「本当にあった……」


 誰かが呟く。

 オルドが蓋へ手をかける。


「持ち上げてみるぞ」


 数人の村人も加わった。


「一、二の――」


 その時。

 みしりと、頭上で低い音がした。

 イデアの身体が固まる。

 昨夜も聞いたような音だ。嫌というほど覚えている。


「まさか」


 見上げると、大木がゆっくりと傾いている。


「離れろ!」


 オルドが叫んだ。

 村人たちが一斉に散る。

 イデアも後ろへ下がる——はずだった。

 雨で土から浮いた蔦が靴へ絡んだ。


「きゃっ!」


 身体が崩れる。

 地面へ片手をつく。

 頭上から、太い枝が迫った。


「イデア!」


 鋭い声がした。

 次の瞬間、身体を強く抱き上げられる。


「え――」


 アルゼルだった。

 大きな外套をまとったまま、片腕がイデアの腰へ深く回る。

 昨夜、崩れ落ちた天井から助けられた時よりも、その腕はずっと強く感じられた。

 背中へもう片方の腕が回り、抱き寄せられる。

 近い。

 昨夜だって十分に近かったはずなのに、今はそれ以上だった。

 アルゼルの衣へ頬が触れそうになるほど胸元へ抱き込まれた瞬間。

 ふっと香りがした。

 白檀を思わせる、静かで澄んだ香り。

 淡く。

 けれどこうして近づけば確かに分かる、アルゼル自身から漂っているような匂いだった。

 そんな香りがすることさえ、イデアは今まで知らなかった。

 そして。

 胸元から伝わってきたものに、今度は息を止める。

 とくん、と。

 温もりの向こうに、確かな鼓動があった。

 天使にも、こうして胸の奥で脈打つものがあるのだと、初めて知った。

 いつも落ち着き払っている彼からは想像しにくいほど、その鼓動は少し速い。

 

「掴まって」


 我に返る。

 今は、こんなことで動揺している場合ではない。

 イデアが反射的にアルゼルの衣を掴む。腰を抱く腕へさらに力がこもった。

 アルゼルはイデアを胸元へ抱え込んだまま、地面を強く蹴った。

 二人の身体が木の下から転がるように離れる。

 ほとんど同時に、大木が地へ倒れ込む。

 土が跳ね上がる。

 枝が教会の石壁を掠め、古い窓枠の一部を砕いた。

 建物そのものへの直撃は免れた。

 しばらく、誰も声を出せなかった。


「……」


 イデアはアルゼルに抱えられたまま、倒れた大木を見る。


「怪我は?」


 耳元から低い声がした。


「ございません」

「足は?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「捻ってもおりませんわ」


 アルゼルはすぐには腕を緩めなかった。

 瞳は閉じたまま。

 でも、いつもの微笑みはない。


「なぜ危険だと言った直後に、あなたは危険の中心へいるのです」

「倒れるとは思わなかったの!」

「あなたの場合は思ってください」

「無茶をおっしゃらないで!」

「私がいなければ、今頃――」


 言葉が途切れた。

 イデアを支える腕へ、少しだけ力が入る。

 昨夜と同じだ。

 本気で心配している。

 怒っているようにも聞こえる。

 けれど、イデアへ怒っているのではないのだろう。

 アルゼルは、彼女を危険へ追いやった何かに珍しく苛ついている。

 そう気づくと、いつものように言い返す気が少し薄れた。


「……助けてくださって、ありがとう」


 アルゼルがわずかに黙った。


「無事なら、それでよいのです」

「ええ」

「今後は、私より前へ出ないでください」

「状況によりますわ」

「イデア」

「努力はします」

「約束してください」

「善処いたします」

「まったく信用できませんね」


 ようやく、アルゼルの口元へいつもの微笑みが戻った。

 イデアを地面へ下ろす。

 そこで、周囲から向けられている視線に気づいた。

 オルド。

 村人たち。

 皆がアルゼルを見ている。

 当然だった。

 倒木の寸前に、あれほど素早くイデアを抱えて飛び退いたのだから。


「……随分と足が速いのだな」


 オルドが言う。

 アルゼルは平然と答えた。


「研究者にも体力は必要ですので」

「羽毛の研究に?」

「……」


 アルゼルがイデアを見る。


「そこで私を見ないでくださる?」

「あなたが作った設定ですよ」

「今だけ研究してくださいませ!」


 すでに見慣れたやりとりに、村人たちからほっとしたような笑いが起きた。

 どうやら、今回も押し切れるらしい。

 イデアは胸を撫で下ろした。


「それより」


 オルドが倒木へ近づいた。

 全員無事だった。

 大木は教会の壁を避けるように庭を横切り、太い幹を晒している。

 外側はところどころ枯れている。

 しかし、折れた枝の断面を見ると、中にはまだ丈夫な部分が残っていた。

 オルドが幹を軽く叩く。


「使える」


 イデアの目が動く。


「どの程度?」

「全部ではないが、かなり取れる。屋根の梁にできる部分もある。床板。机や長椅子くらいなら作れるだろう。細い枝は薪になる」

「つまり」


 イデアは倒木を見る。


「建材を買う量を減らせる?」

「ああ」

「見返りですわね」


 思わず口から出た。

 アルゼルが頷く。


「そうでしょうね」

「命を失いかけた見返りが一本の木?」

「今回は私が間に合ったので、あなたは無傷です」

「また未遂扱い!」

「そして」


 アルゼルが顎で木の根元を示した。

 大木が倒れたことで、太い根が土ごと地面から引き抜かれている。

 その下。

 本来なら根に覆われていた場所に、石積みの空洞が口を開けていた。


「……何ですの、あれ」


 イデアが近づこうとする。

 すぐに外套の袖を掴まれた。


「私より前へ出ない」

「もう実践なさるの!?」

「先ほどの先ほどです」


 仕方なくアルゼルの後ろから覗き込む。

 先ほど見つけた円形の点検口とは別だ。

 もっと大きい。

 人が屈めば入れるほどの石造りの通路。

 奥から、ひんやりとした空気が流れてくる。

 ぽたりと、音がした。

 もう一度。

 なにかが滴るような音が。

 オルドが息を呑む。


「水だ」

「流れておりますの?」

「静かに」


 全員が耳を澄ませる。

 雨上がりの庭。

 鳥の声。

 濡れた葉から雫が落ちる音。

 そのさらに奥。

 地面の下から、かすかな水音が続いていた。

 イデアは急いで図面を開く。

 木、点検口、地下水路。位置を見比べる。


「根が」


 気づいた。


「この木の根が、水路の上まで伸びていますわ」


 長い年月をかけて育った大木の根が、石組みを押し、隙間へ入り込み、一部を塞いでいたのかもしれない。

 木が倒れたことで根ごと持ち上がり、隠れていた通路まで露出した。


「アルゼル」

「はい」

「これも、見返りの一部?」

「おそらく」

「屋根に使える建材と」


 イデアは倒木を見る。


「地下水路の入口」


 乾いた畑。

 水量の少ない井戸。

 昨日見た、村人たちの暮らし。

 そして、地面の下から聞こえるかすかな水の音。


「収支としては?」


 アルゼルが尋ねた。

 イデアはしばらく考え。


「……大幅な黒字ですわ」

「でしょう?」


 アルゼルが満足そうに微笑む。


「私の加護に間違いはありません」

「ですが!」


 イデアは人差し指を突きつけた。


「わたくしの命を必要経費にするのはおやめなさい!」


 声が庭へ響いた。

 村人たちがまた笑う。

 もちろん、彼らには、このやり取りの意味までは分からない。

 オルドだけは笑わなかった。

 水路の入口をじっと見つめている。

 その目には、昨日まではなかったものが浮かんでいた。

 期待と迷い。

 まだ信じるには小さすぎる。

 新しい領主が本当にこの村を変えられるのか。

 そんなことは誰にも分からない。

 けれど地面の下から、確かに水の音が聞こえている。


「伯爵様」


 オルドが言った。


「この水路を、本当に直すおつもりか」

「ええ」

「金も人手も足りん」

「分かっています」

「何百年も放置されたものだ。途中まで掘り返して、かえって危険になるかもしれん」

「それも承知しております」

「それでも?」


 イデアは倒れた大木を見る。

 そのそばには、昨日使った斧が転がっている。

 拾い上げると、泥のついた服を軽く払い、太い枝の一本へ向き直った。


「まず、この木を片づけます」

「水路ではなく?」

「水路へ入るにも、根と枝が邪魔でしょう」


 斧の柄を握り直す。


「それに、屋根も直さなくてはなりませんもの」


 寝床。

 屋根。

 備蓄。

 水路。

 井戸。

 畑。

 村。

 そして、借金。

 どれも一日で解決できる問題ではない。


「ひとつずつ、ですわ」


 イデアは斧を振り上げた。


「五年しかございませんけれど」


 刃が枝へ食い込む。

 乾いた音が、雨上がりの朝へ響いた。


「一日も無駄にはいたしません」


 アルゼルが隣へ立つ。


「私も手伝いましょう」

「斧は渡しませんわよ」

「では枝を運びます」

「それならお願いいたします」

「七本以上運べば、昨日の評価は訂正されますか?」

「桶一個分は差し引きます」

「まだ差し引くのですか?」


 二人の会話を聞きながら、村人たちも少しずつ動き始めた。

 一人が鋸を取りに戻る。

 別の者が縄を持ってくる。

 子供たちは、邪魔にならない場所から細い枝を集め始めた。

 まだ、イデアを信じたわけではない。昨日来たばかりの若い伯爵だ。

 秋税を取らないと言ったところで。

 五年残ると言ったところで。

 それが本当かどうかを知るには、時間がかかる。

 それでも、目の前には使える木がある。

 その根の下には、長い間失われていた水へ続く道がある。

 ならば、ただ見ている理由もなかった。

 廃教会の庭へ、斧と鋸の音が重なり始める。

 こうして。

 イデアと村人たちは、倒れた一本の大木から。

 最初の建材と、最初の家具になる木材と。

 小ラズマイトが失っていた水へ続く入口を手に入れたのだった。


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