番外編2 大変だったね(男の妻編)
知ったのは、本人から聞く四か月前だった。
うちの営業と先方の課長が飲んだ席の話が、翌週、私のところまで回ってきた。間に三人挟んでいた。誰にも悪意はなかったと思う。悪意のない話ほどよく回る。
「あの人、前に大変なことがあってね」
その言い方で、だいたいのことは伝わってしまう。あとは聞き返さなくても、向こうが勝手に埋めてくれる。式の当日だったこと、九十人いたこと、相手の男が来ていたこと。
私は「そうなんですか」と言った。それ以上は聞かなかった。
聞かなくても、もう十分だった。
そのあと半年、私は普通に仕事をした。彼も普通に仕事をした。私が知っていることを、彼は知らない。その状態のまま、何度か食事に行った。
三回目のときに、彼が話し始めた。
自分から切り出した。それは意外だった。切り出さないまま済ませる人だと思っていたからだ。
彼は事実だけを話した。日付。人数。金額。式場の名前は出さなかったが、それ以外は数字で並べた。私が三人経由で聞いていた話より、はるかに正確だった。
感情の話は一度も出てこなかった。
出せなかったのだと思う。出せる人なら、四年近く経ってから初対面に近い相手に、原価計算のような話し方はしない。
私は最後まで聞いて、こう言った。
「大変だったね」
選んだ。
驚くこともできたし、怒ることもできた。泣いてみせることもできたと思う。どれも、その場では正しく見えたはずだ。
でも、そうしたら、それは大きな話になる。大きな話として受け取った瞬間、私はその話を一生扱い続けることになる。彼の中でいちばん大きい部分が、私と彼の関係のいちばん大きい部分になってしまう。
私は、そうしたくなかった。
だから、いちばん平たい返事を選んだ。そのあとは別の話をして、普通に会計をして、駅で別れた。
あれは親切だったと、いまでも思っている。
ただ、言った直後に、彼の顔が一瞬止まったのを見た。
落胆だった。
彼は、もっと大きい反応が返ってくるものだと思っていた。それを期待していた自分に、たぶんその夜まで気づいていない。
私はそれを見て、この人は駄目だな、と思わなかった。
思ったのは、この人は五年間、誰にもちゃんと聞いてもらっていないんだな、ということだった。
彼を選んだ理由を、はっきり言葉にできる。
彼は、人に反対しない。
打ち合わせでもそうだった。うちの無理な納期に「難しいですね」とは言うが、「できません」とは言わない。会議でも、誰かの意見を否定するところを見たことがなかった。最初はやりやすい人だと思っていた。
途中から、それは性格ではないと気づいた。
反対しないのではなく、反対する側に立ったことがないのだ。ずっと誰かの決めたことの中にいて、そこに納得する形で自分をつくってきた人。
式の話を聞いたとき、全部つながった。この人は、そういう人だから、五年前も何も気づかなかった。
わかったうえで、私は結婚した。
わかっていない人と結婚するよりは、ましだと思っている。
「式はいい」
彼がそう言ったとき、私は「うん」と答えた。
用意していた返事だった。
いつか言うだろうと思っていたし、そのときに一秒でも迷った顔をしたら、彼はそれを覚えてしまう。だから間を置かずに言えるように、頭の中で何度か通していた。
実際には、私は式をしたかった。
携帯に、ドレスの画像を集めたフォルダがある。二十枚くらい。彼に見せたことはない。消してもいないし、増やしてもいない。
写真だけ撮って、両家で食事をした。八人だった。彼のお父さんはずっと機嫌がよかった。お母さんは泣かなかった。あの人が泣かない理由を、私は知っている気がした。
毎月二十五日の入金のことは、通帳で知った。
一度だけ聞いた。
「これ、いつまで」
本当は、いつまでかはもう計算していた。金額と回数から逆算すれば出る。私が知りたかったのは残りの期間ではなく、彼が正直に言うかどうかだった。
「あと二年くらい」
合っていた。
それで十分だったので、それきり聞いていない。
三月の午後、健診の帰りにバスに乗った。
夫が子どもを抱いて先に乗って、私はベビーカーを畳んで続いた。席が三つ空いていたので、そこに座った。
夫が少し体をひねって、後ろを見た。
私は横にいたので、その人の顔が見えた。
夫は一秒か二秒見て、会釈をした。それから前を向いて、子どもの手を窓から下ろして、私に何か言った。私は笑った。
バスを降りて、ベビーカーの組み立てに手間取って、子どもを抱き上げた。夫が何か言って、二人で笑って、道を渡った。
夫は一度も後ろを見なかった。
私は見た。
あの人は、降りなかった。
誰だったのかは聞いていない。聞けば、それは私たちの話になる。いまはまだ、夫一人の話だ。そのままにしておいたほうがいい。
義父の家の物置に、段ボールが三箱ある。
去年、子どもの入園式のときに立ち寄って、荷物を出すのを手伝ったときに見た。開いていた一箱に、名前の入った箸が入っていた。二つの名字が並んでいて、片方は夫の名字だった。もう片方は知らない名字だった。
私は箱を閉じて、元の場所に戻した。
誰にも言っていない。
私は、賢いわけではない。
ただ、聞かないと決めているだけだ。
(了)
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