第五話 箸
入金は毎月二十五日だった。
五万円ずつ、六十回。振込人の名義は、彼女の父親の名前だった。カタカナで並んだその名前を、僕は五年間、毎月見ることになった。
最初の半年は、通帳を開くたびに手が止まった。一年経つ頃には、ただの数字になった。二年目からは、記帳のついでに確認するだけになった。
使い道がなかった。
生活費に混ぜるのは嫌だった。何かに使えば、その何かが一生「あの金で買ったもの」になる。だから別の口座に移して、そのままにした。金利のつかない口座で、五年かけて三百万になった。
最後の入金があった月、僕は何も感じなかった。ATMで記帳して、行が一つ増えて、それで終わりだった。感慨のようなものを少し期待していたが、来なかった。来ないことに、少しだけがっかりした。
式の一年半後に転勤の話が来た。
手を挙げたわけではない。上司が気を利かせたのかもしれないし、単に人が足りなかっただけかもしれない。聞かなかった。町を出られるなら理由は何でもよかった。
妻とは、その転勤先で会った。取引先の担当者だった。
半年ほど仕事だけの関係が続いて、それから何度か食事に行った。三回目のときに、僕は式の話をした。伏せておけることではなかった。同じ会社に、事情を知っている人間が何人かいたからだ。
僕は事実だけを話した。日付、人数、金額。感情を混ぜないように話したのは、そうしないと話せなかったからだ。
彼女は最後まで聞いて、「大変だったね」と言った。
それだけだった。
そのあと普通に別の話になって、普通に会計をして、普通に駅で別れた。
その夜、僕は自分が落胆していることに気づいた。もっと大きな反応を期待していた。驚くとか、怒るとか、泣くとか。僕にとって人生で最大の出来事が、他人にとっては「大変だったね」で足りる話なのだと、そのとき初めてわかった。
考えてみれば当然だった。当然のことを、僕は五年近くわかっていなかった。
籍を入れたのは、その半年後だった。
「式はいい」
僕がそう言うと、妻は「うん」と言った。
早かった。考える間もなかった。たぶん、ずっと前から用意していた返事だったんだと思う。僕がいつそれを言い出すか、彼女は待っていたのだろう。
写真だけ撮った。スタジオで、一時間半で終わった。両家の食事会は、個室の和食屋でやった。八人だった。父は最後まで機嫌がよかった。母は泣かなかった。
誓いの言葉は、今も覚えている。
三週間かけて暗記したものだ。使う機会がなかったので、そのまま残っている。ときどき、風呂の中で頭の中を勝手に流れていく。止め方がわからない。
子どもが生まれたのは、その翌年だった。
毎月二十五日の入金は、まだ続いていた。妻はそれを知っている。通帳を見れば載っているし、隠すようなことでもなかった。一度だけ「これ、いつまで」と聞かれた。「あと二年くらい」と答えた。妻は「そう」と言った。それきり、二人ともその話をしていない。
三月の午後、バスに乗った。
子どもの一歳半健診の帰りだった。ベビーカーは妻が畳んで持っていた。僕が子どもを抱いて先に乗って、席が三つ空いていたので、そこに座った。
子どもが窓の外を指さした。犬だった。「うん、犬だね」と言った。
そのとき、後ろから見られている気がした。
振り返るというほどでもなく、少し体をひねった。誰かと目が合った。中年に差しかかったくらいの女の人だった。顔に見覚えがある気がして、近所の人か、健診で一緒だった人か、そのあたりだろうと思った。
軽く会釈した。癖のようなものだった。
子どもが窓ガラスを叩き始めたので、手を下ろさせた。妻に「あとで手を洗わせないと」と言った。妻が笑った。
バスを降りて、ベビーカーを組み立てるのに手間取った。妻が子どもを抱き上げてくれた。僕は何か言って、二人で笑って、道を渡った。
その夜、寝かしつけが終わってから、ふと、あの人は誰だっただろうと思った。
思い出そうとして、思い出せなかった。
それから、まさか、と思った。
思ってから、顔を出そうとした。彼女の顔だ。輪郭は出てくる。目も、たぶん出てくる。でもそれが本当に彼女の顔なのか、確かめる方法がなかった。
写真は一枚も残っていない。
母が全部処分した。アルバムも、データも、携帯の中のものまで。「見ない方がいい」と言われた。正しかったのだと思う。
ただ一枚だけ、僕は前撮りの写真を見ている。
処分される前の日、母が寝た後に、封筒を開けた。一枚だけ抜いて、しばらく見て、戻した。
いま思い出せるのは、その一枚だけだ。プロがつくった顔で、感情が全部消されていて、作り物の笑顔が貼りついていた顔。
バスにいた人が、それに似ていたかどうかは、わからない。
妻には話していない。話すほどのことでもない。
実家の物置に、箸が九十膳ある。
両家の名字が入っている。名入れ済みのため返品不可、と請求書の備考欄にあったやつだ。段ボール三箱に分けて、いちばん奥に積んである。
去年、物置を整理したときに一度出した。父が「これ、どうする」と聞いた。僕は「そのままでいい」と答えた。父は何も言わずに元に戻した。
捨てる理由がないわけじゃない。使う予定はないし、置いておく意味もない。人にあげられるものでもない。
いつか捨てる。
そう思ってから、七年になる。
(了)
2人の話は完結ですが、番外編が何話かあります。
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