第四話 終点
先輩は三年目の春に出ていった。
喧嘩はしなかった。転職して通勤に一時間半かかるようになって、帰ってこない日ができた。最初は月に一度、そのうち週に二度になった。私は何も聞かなかった。聞く権利があるのかどうか、わからなかったからだ。
ある日「実家に戻る」と言った。私は「うん」と言った。
部屋を出るとき、先輩は冷蔵庫を置いていってくれた。「使えばいい」と言った。私は礼を言った。三年一緒にいた人に、最後に言ったのが「ありがとう」だった。
悪い人ではなかった。最後まで、悪い人ではなかった。それがいちばん困る。
いまは二つ隣の駅に住んでいる。
部屋の名義は、工場で一緒だった女の人のものだ。家賃を現金で渡している。彼女はそのことを何も聞かない。この街には、そういう部屋がいくつもある。
携帯も彼女の名義で、料金は同じように現金で渡す。銀行口座は、逃げる前に作ったものが一つだけ残っている。それだけが、私の名前だ。カードの有効期限が切れたとき、住所が違うので再発行できなかった。窓口に行けばできると言われた。まだ行っていない。
仕事は弁当工場の夜勤と、昼の清掃を掛け持ちしている。
夜勤はハンバーグを詰める。一時間に何百個詰めるのか知らないが、体が覚えている。頭を使わない時間は、悪くない。
右下の奥歯はもうない。抜いたのではなく、欠けたまま残っている。鏡を見るときは、口を開けない。
母が死んだのは、去年の十一月だった。
知ったのは年が明けてからだ。妹のアカウントに家族写真が上がっていた。喪服だった。日付を見て、二ヶ月前だとわかった。
妹のアカウントは、逃げた次の年に見つけた。フォローはしていない。ログアウトしたまま、月に一度くらい見る。妹は就職して、結婚して、去年、子どもが生まれた。私は姪の名前を知らない。写真の下に書いてあるが、それが名前なのか呼び名なのか、わからない。
通夜も葬儀も、とっくに終わっていた。
私は斎場の場所を調べた。調べてどうするつもりだったのか、自分でもわからない。四十九日にあたる日、その建物の前まで行った。知らない家の名前が出ていた。当たり前だった。
駐車場を見た。父の車があるかと思った。父がどんな車に乗っているのかも、もう知らなかった。二十分ほど立って、帰った。
三百万は、まだ払い終わっていないらしい。妹の投稿から推測しただけだ。直接は聞いていない。聞いていないので、確かなことは何も知らない。
私はもう、実家のことについて、確かなことを何ひとつ知らない。
三月の午後、バスに乗った。
病院の帰りだった。去年の秋、工場の健康診断で再検査の紙をもらった。数字がひとつ、基準を超えていた。紙は半年、鞄に入れたままだ。その日は市の窓口で保険料の未納分の話を聞いて、金額を聞いて、結局、何も決めずに帰るところだった。
三つ目の停留所で、彼が乗ってきた。
最初はわからなかった。太っていたし、髪が短かった。抱いた子どもの靴を直しながら乗ってきて、後ろから女の人が畳んだベビーカーを持って続いた。奥さんだろうと思った。
三人は、私の一つ前の席に座った。
子どもは二歳くらいだろうか。奥さんが「靴、脱ごうね」と言って、脱がせた靴を自分の鞄にしまった。手際がよかった。彼が子どもを膝に乗せ直した。
子どもが窓に手をついて、外を指さした。彼が「うん、犬だね」と言った。
声で、確信した。
彼が窓の外を見ようとして、少し体をひねった。
目が合った。
彼は、一秒か二秒、私を見た。
それから、軽く会釈した。
顔を戻して、子どもの手を窓から下ろして、奥さんに何か言った。奥さんが笑った。彼も笑った。
それだけだった。
怒鳴られると思っていた。何年も、そう思っていた。もし会ったら何を言われるだろうと、何百回も考えた。考えた言葉は、全部、彼のものだった。私が用意していたのは、それに返す言葉だけだった。
用意していた言葉は、ひとつも要らなかった。
彼は私を憎んでいなかった。
三百万を請求して、私の家に内容証明を送って、母の葬式にも来なかった彼は、私を憎んでさえいなかった。ただ、もう関係がなかった。憎むというのは、まだ関係があるということだ。
あの会釈は、たぶん、近所の人にするのと同じものだった。
私は、降りるはずの停留所で降りなかった。
次も、その次も、降りなかった。
彼らは五つ先で降りた。ベビーカーを開くのに手間取っていて、奥さんが子どもを抱き上げた。彼が何か言って、二人で笑って、道の向こうへ歩いていった。
彼は一度も、こちらを振り返らなかった。
バスは走り続けた。知らない町並みが流れていった。この街に何年も住んでいるのに、知らない場所ばかりだった。住民票がないせいなのか、ただ興味がなかったせいなのか、わからない。
——本当の君は、ここにいるべきじゃない。
じゃあ、どこにいればよかったんですか。
聞く相手は、もうどこにもいなかった。
バスは終点まで行った。
運転手に声をかけられるまで、私は席を立たなかった。
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