凍てついた心
【深淵の洞穴】。
大陸の遥か最果て、深い原始の森林に覆われた大地の中心に口を開けるその洞穴は、過剰な『魔素』が噴き出す溜まり場だった。
その汚染度は凄まじく、並の人間であれば入り口から漏れ出す魔素に触れるだけで精神に異常をきたす。
俺たちは今、その禍々しい洞穴まで少しの場所にいた。
「結構かかったね。 今日はここで野営をして、明日から洞穴へと進もう」
爽やかな表情のレヴァナスと、その隣に佇むネフィリアさんはまだまだ余裕そうだったが、俺は違った。
魔素の濃度に比例して、魔物の強さは文字通り桁違いになる。勇者である俺を持ってしても、ここまでに思った以上の体力を削られていた。
魔王が「休もう」と言ったのは、俺の体調を気遣ってのことだろう。
「……あぁ、助かるよ」
そこに申し訳なさは感じなかった。
レヴァナスにとっては、戦友を気遣うのは息をするくらい当たり前のことだからだ。
ただ、その横でネフィリアさんが相変わらず若干刺すような視線をこちらに向けているのが怖かったが。
結界を張り、野営の準備を整え、ようやく一息つけると思った矢先、魔王が何やら森の奥へ向かおうと腰を上げた。
「ん? レヴァナス、休むんじゃないのか?」
「ああ。この森にはね、魔素の影響を防いでくれる特殊な香草が自生しているんだ。洞穴内の魔素はここの比じゃないから、少し摘んでくるよ」
「へぇ、博学だな、お前は……」
それも恐らく俺のためなのだろう。俺は感心しながら軽く手を振って送り出した。
――そして、残されたのは俺とネフィリアさんの二人。
パチパチと薪がはぜる音だけが響く中、特に会話もなく、ひたすらに居心地の悪い沈黙が続く。
(……あぁ、気まずいなぁ……なんか喋らないと……)
疲れのせいか、意識せずに触れてはいけない質問を口から滑り落としていた。
「ネフィリアさんってさ、レヴァナスのことどう思ってるんだ?」
(……ん?今なんか聞いちゃいけないこと聞いた気がする……)
俺が冷や汗を流す中、ネフィリアさんは焚き火の炎を見つめたまま、淡々と、しかし一点の曇りもない声で答えた。
「愛しているわ」
あまりにもストレートで、迷いのないその重い一言に、俺は続く言葉を完全に失ってしまった。
「私はね、大気中の魔素から発現した他の魔族とは違うの。魔王であるレヴァナスが、直接この世界に呼び出した『最初の眷属』」
ネフィリアさんは少しの間沈黙し、続けた。
「……最初に対面した時、彼は酷く荒れていたのよ」
静かに語られる、数百年前の記憶。
ネフィリアさんの美しい横顔が、炎に照らされて過去へと巻き戻っていく――。
◇
――数百年前
現・魔王城がそびえ立つ、薄暗く荒れ果てた絶望の大地。
その中心で、ネフィリアはこの世界に召喚された。
「――っ!?!? なに、これ……!?」
ネフィリアが最初に目にしたのは、自身を召喚したはずの主が、完全に正気を失って絶叫している姿だった。
「うあぁぁぁぁああああああああッッ!!!」
「何が起きているの……っ!?」
若き魔王レヴァナスから放出される、天を衝くほどの膨大な、そして禍々しい魔力。
それは主の制御を離れて勝手に変形し、次々と異形なる強大な魔物の群れへと姿を変えていく。
「魔力が暴走している……!?」
魔王から生まれた魔物たちは、あろうことか、主であるレヴァナスへと牙を剥き、一斉に襲いかかった。
キィィィィン……ッ!!!
空間を切り裂く極寒の風と共に、ネフィリアの氷刃が魔物の群れを瞬時に切り伏せた。
「主に刃を向けるなんてね。――深淵に送り返してあげるわ」
「ぐうぅぅ……あ、あぁ……っ」
ネフィリアは戦いながら背後を見る。
これはただの魔力の暴走ではない。何か尋常ではない精神の揺らぎ……激しい恐怖と孤独、何かに怯えるような壊れ方だった。
ガキィィィンッ!!!
逡巡の間もなく、周囲を埋め尽くすように発生した魔物たちが次々と襲いかかる。ネフィリアは不敵に微笑み、氷の刃を構え直した。
「ずいぶんと荒れ果てた場所ね。――まぁいいわ、とりあえずは、この部屋の大掃除から始めましょうか」
氷刃が閃くたび、異形は断末魔すら上げる暇もなく砕け散った。
主を襲った魔物は、数分も経たずにすべて沈黙した。
「……ふぅ。歓迎会にしては趣味が悪いわね。」
「ううぅぅ……っ、う、あ……」
魔力が底を突いたのか、あるいは発狂が収まったのか。ようやく暴走の霧が晴れ、静寂の中で若き魔王が震えていた。
ネフィリアは、ゆっくりと主に歩み寄る。
「私を召喚したのはあなたね。私はネフィリア。――あなたの名前は?」
「……れ……レヴァナス……」
「とにかく、ここは荒れすぎよ。 もう少し、落ち着いて話しやすい場所へ行きましょう」
ネフィリアは微笑み、そっと彼に近づこうとした。
その瞬間だった。
「うわぁぁぁぁああああ!!! 僕に近づくなぁああああああ!!!」
レヴァナスは涙を流し、声を荒げて後ずさった。
自身を召喚した魔族の王。
そのはずの主が魅せた、あまりにも脆く、あまりにも無惨に狼狽した少年の姿。
ネフィリアは一瞬だけ驚きに目を見張ったが――すぐに、その表情に絶対の決意を宿し、どこまでも優しく、静かに言葉を紡いだ。
「……レヴァナス。安心して、これからは私がいるわ」
ネフィリアは彼に向かって、そっと膝をつき告げた。
「あなたを脅かす全ての脅威は、私が命に代えても全て排除する。だから、もう安心して」
◇
「――あの時の彼には、まだ幼さが残っていたわ。あの方が過去に何を見てきたのか、何を経験してあそこまで心が壊れてしまったのか……それはわからない」
パチパチ、と再び薪の爆ぜる音が、俺の意識を現在へと引き戻した。
ネフィリアさんは膝を抱えたまま、寂しげに目を伏せる。
「レヴァナスは、私が知る限り心から笑ったことが一度もない。いつも飄々と、完璧な魔王として振舞っているけれど……その心の奥底は、あの日、出会った時からずっと凍りついたまま」
「……」
「私は、ただ……レヴァナスの、本当の笑顔が見たい。――それだけよ」
胸が、締め付けられるようだった。
ネフィリアさんのその愛は、恋だとか執着だとか、そんな言葉じゃ足りない。
傷ついた主を、ただ守りたい。
その想いだけで、何百年も隣に立ち続けてきたのだ。
「なのに――」
不意に、肌を刺すような圧倒的な冷気がじわじわと充満してくる。
「あなたは……たった数回対峙して、少し言葉を交わしただけなのに。レヴァナスの、何百年も凍りついていた心を溶かし始めた」
(ええぇぇ……今の流れでこうなるの……?)
俺が内心でガタガタ震え、言葉を必死に探そうとした、その時だった。
ふっと、周囲を支配していた凶悪な冷気が、嘘のように綺麗に霧散した。
「――ただ、この前の城でのあなたを見て、考えを改めたわ」
ネフィリアさんは少しだけ視線を逸らし、静かに言った。
「……見直したわ」
「少しだけ、ね」
そう言って、彼女はふいに俺から視線を外し、焚き火へと目を戻した。
(……え? 今の、褒められた……のか?)
彼女の瞳には、今まで俺を穿とうとしていた、あの刺すような冷徹さはなかった。
まるで、水晶のように澄んだ、確かな温もりがそこにはあった。
程なくして、森の奥から「待たせたね!」と、得意げに山ほどの香草を抱えたレヴァナスが戻ってきた。
そんな主の姿を見るなり、ネフィリアさんはすぐにいつものクールな表情に戻り、「レヴァナス…取りすぎると自生しなくなるのよ。少しは生態系を考えなさい」
と注意を入れ、いつもの、どこか微笑ましい主従のやり取りが始まった。
その後、俺たちは静かに目を閉じ、明日に向けて休息を取った。
ネフィリアさんの話。
そして、あのいつも笑顔のレヴァナスが隠し持っている、哀しい過去。
正直、俺は勇者なんて大層な役割を背負わされているけど、そういう重い話やシリアスな事情は、あんまり得意じゃない。
(だけど……まぁ)
もし、この世界の歪みを正して、本当にすべてが平和になったら。
その時は、彼らと酒でも飲みながら、ゆっくりその過去ってやつを茶化して聞いてやろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺の意識は、深い眠りの中へと心地よく遠のいていった。
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