"魔王" という存在
思い返せば、あの城での俺は実に『勇者』だった。種族に関係なく、その命を守るために行動するあの姿は、正義の使者そのものだった。
……だった、はずなんだが。
「アルス! あまり離れすぎるなよ!」
「……っ、げほっ、あぁ……分かってる……っ!」
俺は今、ぼやける視界としびれる四肢を引きずりながら、何やら前方で凄まじい轟音を響かせ魔物を破壊し尽くしていく二人の後ろを、ただ必死に追うだけの付き人と化していた。
◇
「――よし、ここら一帯は少し魔素が薄い。もうここに潜ってから随分と時間が経っているし……少し休もうか。大丈夫かい、アルス?」
周囲の魔物を消滅させ終えたレヴァナスが声をかけてくる。
息一つ乱していないレヴァナスとネフィリアさんは、魔素が濃くなればなるほど戦闘力が上がるため、まだまだ余裕そうだった。
だが、俺は完全に限界だった。今にも地面に倒れ伏しそうな表情で、強がって答える。
「……あ、あぁ……! まだまだ……っ、やれるさ……!」
「あなたいたの?」
ネフィリアさんなりの冗談なのか、単なる軽蔑なのかはわからないが、彼女の言葉は心に来るものがある……
(……何も言い返せない…… 実際何もしてないし……)
過剰な魔素が充満するこの空間を俺は完全に甘く見ていた。
洞穴に一歩足を踏み入れた瞬間に全身から冷や汗が吹き出し、目の前が歪んだ。
レヴァナスが配合してくれた、例の『香草の薬』を常に噛み締めていなければ、俺はとっくに正気を失っていただろう。
(……邪魔だよなぁ、俺……)
「できたわ」
ネフィリアさんが少し前から地面に大型の魔法陣を展開していたが、どうやら術式の構築が完了したようだ。
「できたって、何が……?」
「結界よ。この内部だけは、大気中の魔素をほとんど消滅させるわ」
「――もちろん、レヴァナスのためよ」
「あ、なるほど……」
一瞬、俺の体調を気遣ってくれたのかと喜びかけたが、まぁ俺のためなわけないか。
「魔素は魔族にとって魔力の源だけど、過剰に取り込むと制御を失うわ。万が一にもレヴァナスの魔力が溢れて魔物が発生してしまっては困るでしょう?」
(そういえば……レヴァナスは自分の魔力から生まれた魔物に襲われていたって昨日言ってたな……)
◇
結界のおかげで、ようやく呼吸が楽になった。
ネフィリアさんは、「結界の外縁に僅かな揺らぎがあるわ。確認してくる」とその場を離れた。
離れるタイミングが俺が大分落ち着いてからだったのは、彼女との関係が少し縮まった証拠だと思いたい。
ふと見ると、レヴァナスはどこか感慨深そうな、寂しげな表情で洞穴の暗い天井を見つめていた。
「……レヴァナス?」
「あぁ……すまない。ちょっと呆けていたよ」
「珍しいな。……何か、不安なことでもあるのか?」
いつもの飄々とした笑顔がないのが気になり問いかけると、レヴァナスは少しだけ目を伏せて言った。
「……いや。人間の国でのことを、少し思い出していてね」
「あぁ……あの謁見の間か。不快だったろ?」
冷遇され、奴隷呪法を強要され、蛮族扱いされた。俺はあえて少し明るいトーンで、彼の心を軽くしようと言葉を紡ぐ。
「そうだな……。確かに不快だったよ。……でも、私は『魔王』だからね」
「人間に忌み嫌われ、恐れられるのは仕方のないことさ」
レヴァナスはいつもの笑みを浮かべて答えたが、少し…目の奥に寂しさを感じた。
「それも、この『魔素の元』を断つまでの話だろ? これが終わって魔物が減れば、お前の言っていたことが全部真実だったって誰もが理解する」
「そうなれば不当な扱いは終わるさ。お前を敵視する理由なんてなくなるよ」
俺の言葉を聞いたレヴァナスは、ふっと自嘲気味に微笑み、どこか含みのある言い方で呟いた。
「……仮に魔物が消えたとしても、私が『魔王』であることには変わりないんだよ、アルス」
「え……?」
レヴァナスが何を言いたいのか、俺には分からなかった。
いつもの軽薄だけど頼りがいのある、厳格で最強の魔王の姿はどこにもない。
そこにあるのは、世界そのものに絶望し、何かを受け入れているような――深い『諦め』を孕んだ横顔だった。
「アルス。昨日野営した時……君が荷物を置いた際、足元にあった小さな花を一つ、うっかり潰してしまったのを覚えているかい?」
「……なんだよいきなり。よくそんなところ見てたな。」
レヴァナスは、静かに自分の大きな、しかし美しい両手を見つめた。
「私にとって、人間という存在は……その『花』と同じなのだよ」
その瞬間、不意にレヴァナスの瞳がわずかに揺れた。
まるで、意識の奥底で何かに触れかけたように。
「……」
―――…ナス…―――
「私はあまりに強大で、あまりに異質だ。私という存在が生きていて、ほんの少し、ほんのちょっと動いただけで……そこに生きる無力な人間たちの生命を、悪気なく刈り取ってしまう」
―――レヴァナス……あなたは今、この時から―――
ただの比喩なのか、あるいは、彼が過去に経験したことの吐露なのか。
俺の脳裏に、昨日ネフィリアから聞いた『出会った頃の荒れていた若き魔王』の姿が思い出される。
「そうか。なら、今度からは周りをよく見て、注意して動かないとな!」
俺は努めて明るく、冗談めかして言った。
だが――レヴァナスは、言葉を言い淀んだ末に俺に問いかけた。
「アルス……もし私が、君から大切なものを奪ってしまったとしても――」
レヴァナスが、少し困ったような、悲しみを含んだような顔で俺を見る。
「――君は今みたいに、私を見てくれるかい?」
「――ッ!!」
胸を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
言葉が、出なかった。
俺が今まで、何度もこの魔王と戦って生還できたのは、俺が強いからじゃない。『勇者』という人類最強の肉体を与えられ、さらに奇跡のような強運が何度も重なったからだ。
もし、この男が本気でその絶対的な力を振るえば――人間なんて羽虫と同じ。
悪意がなくとも国が滅ぶ。それが『魔王』という存在の、あまりにも残酷な真実。
レヴァナスは、俺の返答を待つことなく、どこか寂しそうに視線を外して言葉を続けた。
「私は……この世界の『魔王』となった瞬間から、本当は、この世界にいてはならない存在だったのかもしれないな……」
少し離れた場所に、ネフィリアが心から辛そうな表情を浮かべていた。
主のその言葉が聞こえたのだろう。彼女にとってどれほどの絶望か。
だけど彼女は、それを決して表に出すまいと、必死に平静を保って唇を噛み締めている。
――そんなことはない。
そう、言ってやりたかった。
だけど、薄っぺらな同情や、状況を何も分かっていない俺の軽薄な綺麗事は、自分の存在を否定しているレヴァナスを、余計に深く傷つけるだけだ。
そう思い、俺はただ、口を噤むことしかできなかった。
(……レヴァナス。俺は、お前と戦友になれたと、少しだけ自惚れていたよ)
だけど、俺は人間で、あいつは魔王だ。
世界でただ一人、その強大すぎる力に孤独を感じ、苦しんでいる『魔王』の本当の痛みを……俺が心から分かってやれる日なんて、本当に来るのだろうか。
洞穴の奥から吹き抜ける冷たい風が、俺たちの間の沈黙を、どこまでも冷たく引き裂いていた。
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