霧深き冥土の真実
魔王城。
それはアルフィーデ王国からはるか南方、巨大な渓谷の先に鎮座する漆黒の城である。
昼夜を問わず濃い霧が立ち込めるその土地は、人々から『霧深き冥土』と恐れられていた。
暗雲を突き破るようにそびえ立つその建造物は、見る者に本能的な恐怖を与え、まさに世界の悪意が根城にするに相応しい威容を誇っている。
そんな城に訪れるのも、これで4度目だ。
「【吸魔の宝玉】の力があれば勝てる可能性もあるが……さすがに4回目ともなると、命懸けの戦いって感じが薄れてくるな……」
独り言を言いながら、俺はふと、ずっと感じていた『違和感』の正体に思い至る。
(……落ち着いて考えると不思議だが、この広大な魔王城には本当に魔王しかいないのか?4回も来て、他の魔族や雑魚の魔物を一度も見かけないなんて、普通はあり得ないだろ……)
そんな疑問を抱きつつも、俺はすっかり慣れた足取りで魔王が鎮座する最奥の部屋へと辿り着いた。
もはや実家のドアを開けるかのような自然さで、重厚な扉を押し開ける。
「またお前か……。勇者」
玉座に座る魔王が、心底うんざりしたように溜息をついた。
「魔王。何度も何度も押しかけてすまなかったな。――でも、それも今日で終わりだ」
その魔王のすぐ傍ら――玉座の肘掛けの上には、前回俺から奪い取った、禍々しく赤く輝く【吸魔の宝玉】がこれ見よがしに置かれている。
(距離は……よし、5メートル以内!!)
俺は一気に足を踏み込み、魔王が動くよりも早く、仲間たちから授かった呪文を大声で紡いだ!
「深淵に渦巻く飢えよ、その渇きを満たせ――」
「なっ……!?やめろ!!」
魔王の顔が、初めて明確な焦燥に染まった。
俺の詠唱を肉体言語で止めるべく、魔王が凄まじい速度で突進してくる。
(もう遅いんだよ!!)
「――【マナ・ディヴァー】!!!」
叫びと共に、宝玉の力が完全に発動した。
その瞬間、魔王の身体から尋常ではない量の黒煙(魔素)が吹き出し、濁流となって【吸魔の宝玉】へと強制的に流れ込んでいく。
「ぐおおおあああああーーーッッ!?」
魔王の絶叫が響き渡る。……勝った。そう確信した、次の瞬間だった。
パリーーーーーンッッ!!!
乾いた高い音を立てて、吸魔の宝玉が粉々に砕け散った。
それと同時に、世界が反転する。
黒煙の漂う玉座の間が、一瞬にして、この世のものとは思えない醜悪な『悪霊の群れ』で埋め尽くされたのだ。
「……え?」
呆然とする俺に向かって、魔王が膝をついたまま、怒りを剥き出しにして怒鳴り散らした。
「勇者! なんてことをしてくれたのだ! その宝玉には、深淵の闇に集う無数の悪霊が封印されていたのだぞ!?」
「は……? 封印……?」
「ただでさえ限界だった封印石に私の膨大な魔力を無理やり注ぎ込めば、宝玉が破壊され封印が解けるに決まっているだろう!!」
俺の脳がそれを理解するより早く、解放された凶悪な悪霊たちが、魔王と俺に向かって一斉に牙を剥いた。
ガキィィンッ!!
「ぐうっ……!?」
正面から受け止めた悪霊の爪撃が、あまりにも重い。
防ぎきるだけで、俺の自慢の聖剣の刃が悲鳴をあげた。
返しの攻撃に繋げられない。
隙を晒した俺に向かって、四方八方から無数の魔物が津波のように飛びかかってくる。
「【エアリアル】!!」
シュパンッ!と音を置き去りにして、俺は垂直に高く跳躍した。
眼下にうごめく無数の魔物たちを見下ろし、空中で渾身の広域破壊魔法を繰り出す。
「翠風の精霊よ! 囁きを刃へ――【シルフィード・リング】!!」
展開された風の輪が幾重にも重なり、空間そのものを巨大な環のように包み込んだ。
超高速回転する広範囲の風刃が、暴風となって魔物の群れを細切れに切り刻んでいく。
――だが。
暴風が止んだ一瞬の後、切られたはずの魔物たちが霧のように再構成され、再び周囲を埋め尽くした。
「くそっ……!」
高位魔法は、【勇者】であっても連発はできない。
この異常な数、しかも人間界のボス級を遥かに凌駕する強さの魔物たちを相手に、一人で切り抜ける術など、今の俺にはなかった。
死――その二文字が、脳裏を明確に過った。
「――【ヴォイド・ブレイク】」
直後、何が起きたのかさえ理解できなかった。
空間そのものを文字通り『粉砕』したかのような、圧倒的な『暴』の力。
真空の衝撃波が走り、視界を埋め尽くしていた魔物たちが、一瞬で消滅した。
肩で息をしながら顔を上げると、そこには手をかざしたままの魔王が立っていた。
「魔王……!」
「油断するな、勇者! あいつらに実体はない! 今のは一時的に飛散させたに過ぎん!」
魔王の言葉が終わるか否かのうちに、床から這い出た黒い霧が、再び魔物の形を成して俺たちに襲いかかる。
「おおおぉぉ!!」
そこからは地獄だった。
倒しては復活し、倒しては復活し……終わりの見えない無慈悲な作業。
気がつけば、俺と魔王は背中を合わせるような形で、必死に魔物を迎撃し続けていた。
「はぁ……はぁ……っ。おい、魔王……これ、いつ終わるんだよ……!? もう一回逃げた方がいいんじゃないのか!?」
「……お前が招いた結果だろう。逃げるのは勝手だが、勝手に人の部屋に押し入った挙句、荒らすだけ荒らして逃げ帰るつもりか?」
「なんだと!?」
「静かにしろ。……ご要望の『終焉』が来たぞ」
凍てつくような、冷淡で美しい女性の声が響いた。
「――【アビス・バインド】」
その瞬間、部屋の至る所に漆黒の魔法陣が広がり、床が深淵の口を開けた。
中から這い出した無数の『黒い鎖』が、獲物を捕らえる蛇のように悪霊たちへと襲いかかる。
鎖に縛られたすべての魔物は、抵抗の術もなく、一瞬にして漆黒の闇の底へと引きずり込まれて消え去った。
圧倒的な静寂が、部屋を包み込む。
「レヴァナス。……これは、一体どういうことかしら?」
「ネフィリア。……すまない、面倒をかけたね」
「何がどうなって、こんなお粗末な事態になったのかを聞いているのよ。わざわざ他の眷属たちを城から遠ざけておいて……私が帰ってこなかったら、魔王であるあなたでさえ無事では済まなかったわ」
ネフィリアと呼ばれた魔族の女性は、氷のように冷たい口調で、魔王――レヴァナスを厳しく非難した。
「結果として何ともなかったんだからいいだろう? 私も、そこの勇者も、こうして生きてここにいる」
「あなたはいつも考えが甘いのよ、レヴァナス。不測の事態が起こった時にどう動くか、一族の王なら常に意識なさい」
「……耳が痛いな」
俺は、剣を構えたまま呆然と立ち尽くしていた。
何が何だか、さっぱり分からなかった。
魔王を倒しに来たはずが、大量の化け物に襲われ、なぜか魔王に背中を守られて助けられた。
そして、新しく現れた上位の魔族が事態をあっさりと終結させたと思えば、俺は完全に蚊帳の外に置かれ、目の前で魔王と魔族がごく普通の『上司と部下』のような会話を繰り広げている。
「大丈夫か? 勇者よ」
いつの間にか、レヴァナスが日常の会話のようにフランクに話しかけてきた。
「あ、あぁ……助かったよ……」
俺は、自分でも信じられないくらい馬鹿みたいな返事をしてしまった。
「それだけ?」
氷の女――ネフィリアが、冷徹な瞳で俺を射抜く。
「え……? いや……」
「あの宝玉は、私たち魔族が何百年もの歳月をかけて作り出した、一級品の『封印石』よ」
「人間が欲のために神具として祀り上げるのは構わないわ……どうせ傷一つ付かないのだから」
「なのに……あなたはそれを破壊した」
「いずれさっきの悪霊たちも、深淵から這い上がって復活するわ。……恥を知りなさい」
普通に、正論で注意を受けた。
まるで、度が過ぎた悪戯をして大人に本気で叱られた子供のような、そんな猛烈な気まずさが俺を襲う。
重苦しい沈黙の中、魔王レヴァナスが静かに口を開いた。
「……それで、勇者よ。どうする?」
「え……? どうする、とは……」
「今から、私と戦うのか?」
俺は一応、手元の剣を握り直そうとした。だが、どうしても身体が戦闘体制にならない。
戦う理由が、一瞬で霧散してしまったのだ。
「ふむ……。ならば今日はやめておこう。お互いに士気が削がれた」
魔王レヴァナスはそれだけ言うと、マントを翻して部屋を後にした。
ネフィリアと呼ばれた魔族も、俺をゴミを見るような目で見つめた後、魔王の後に続いて出ていく。
一人、静まり返った玉座の間に残された俺は、しばらくして頭が冷えてから、静かにその場を後にした。
◇
俺は初めて、自ら進んで帰路についていた。
帰りの馬車の中、俺の頭の中にずっとこびりついて離れなかったのは……。
魔王レヴァナスとネフィリアが、お互いを名前で呼び合い、普通に会話を交わしていた、あの後ろ姿だった。
今まで、お伽話や教会の文献で刷り込まれてきた「残虐で邪悪な世界の敵」としての魔王ではない。
普通に同胞を思いやり、普通に喋っていたあの男の姿が、嫌なほど、俺の記憶に深く焼き付いていた。
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