神の理
城下町からは今もなお、人類の勝利を称える復興の祝宴の喧騒が聞こえてくる。
俺は歓声に沸く街に背を向け、こっそりと城内へ戻ると、ただ一人、薄暗く、しかし神聖な気配が満ちる通路を静かに歩いていた。
世界を歪めた根源の破壊。
それこそが、俺が『勇者』として果たすべき、本当の、そして最後の仕事だった。
俺が辿り着いたのは、勇者の信託を受けた場所――城の最地下ある『神託の泉堂』だった。
ほの暗く、淡い燐光を放つ神秘的な泉の前に、その人影はあった。
白銀の長髪を後ろで一本に結び、華美な装飾こそないが、見る者を圧倒するほど厳かな気配を纏うローブを着た、人型の“何か”。
そんな風に感じたのは、出立ちこそ人間に酷似していながら、明らかに人間とも、魔族とも、魔物とも一線を画す、次元の違う絶対的な圧力を放っていたからだ。
「……神、か……?」
俺は胸の奥の黒曜石の熱を感じながら、確信を持って尋ねた。
その人型の存在が、ゆっくりとこちらに冷徹な視線を向ける。
冷や汗が俺の頬を伝った。本能が叫んでいる。
明らかにこの世界の生態系に属する者ではない。
恐怖を通り過ぎた異常性に、俺の頭は逆に冴え渡っていたが、心の奥の闘志だけはマグマのようにふつふつと、激しく高まっていた。
「勇者アルス――こうして相まみえるのは初めてですね。我が何者か、あなたにとっては些末なことでしょう。……ですが、人の言葉であえて名乗るならば、あなた方が“神”と呼ぶ存在です」
神は表情を一つ変えず、しかしどこか哀れむような目を俺に向けて言った。
「魔王が消滅し、救われた世界は……あなたの目に、どう映っていますか?」
胸が燃えるようだ。
「ふざけるな。お前が神だろうが何だろうが関係ない。世界を弄ぶ存在など、ただの『災厄』だ。」
「例え命が尽きようとも、お前は今ここで俺が断つ!」
「気まぐれでは、ありませんよ」
神の言葉が放たれた瞬間、直接脳を揺さぶられるような錯覚に陥った。
一言一言が頭を揺らす。
「勇者よ。魔王の記憶を知り、心が揺らいでいるのでしょう。ですが、結論を急ぐことはない。魔王の言葉だけが、この世界の真実のすべてではない」
神は冷淡に、しかし朗々と告げる。
「今度は我が話を、世界の理を聞きなさい。そのうえで、あなたが何を信じるかを決めれば良い」
「……」
「我は数千年にわたり、この世界と人の営みを見届けてきた」
「始まりの時代、我は人に神託を与えなかった…人が自ら考え、未来を切り拓くと信じていたからです」
「実際、人は繁栄した。文明を築き、知を積み、輝かしい時代を何度も作り上げた」
神の纏う気配が、わずかに昏く澱む。
「……だが、その繁栄は必ず欲望を生んだ」
「欲望は争いを生み、争いは憎悪を育てる。そして人は、何度も自らの手で文明を滅ぼした。」
神の瞳が、果てしない虚無を映し出す。
「何度、時代を繰り返しても――結果は同じだった」
「――ゆえに我は決断したのです。ただの傍観者であることをやめ、この世界に直接介入すると」
神が何を見てきたのか、俺には分からない。数千年――人間には想像すら及ばない。だが――。
「……それが、『神の信託』の正体だというのか」
「いかにも」
神は当然のことのように、淡々と答える。
「長き時を経て、一つの真理に辿り着きました。人間の抱く嫉妬、妬み、憎悪――それらの負の感情は、常に“手の届く身近な相手”へ向けられる。だが、決して届かぬ絶対的な高みを前に、人は争わない。」
「そこに抱くのは畏敬、あるいは崇拝のみ。ゆえに神託を与えた。人類を明確な『能力』で分かち、それぞれに異なる役職を授けることで、内なる争いを極限まで抑え込むために」
「なら……魔王は何のためにいる……! レヴァナスは人類の敵として、一方的に刃を向けられ続けていたじゃないか!」
「必要だからです」
神の答えには、やはり一片の罪悪感すら存在しなかった。
「人が真に団結するには、共通の敵が必要です」
「同じ恐怖を前にすれば、人は争いをやめる。……それが、最も効率の良い秩序だった」
「だからこそ、魔王は必要だった。……勇者よ。あなたがこの世界に現れた日、世界はどれほどの熱狂に包まれましたか?」
「っ……!」
「人は恐怖し、神に祈り、勇者に熱狂し、そして人類として一つに団結した。……実に、美しい秩序でしたよ」
吐き気がする。
この世界のすべては、この『神』という存在の、歪んだ正義によって作り上げられていたのだ。
「……だが、ならせめて教えろ。なぜ……なぜ、あいつを、レヴァナスを魔王に選んだ……!」
俺は怒りで声を震わせ、神を睨みつけた。
「あいつは……どれだけ人間に不当な扱いを受けても……絶望の底に突き落とされても……最期の最期まで、決して人類を憎まなかった……っ!!」
神は、ふっと、この日初めて、綺麗な微笑を浮かべた。
「――彼が、そういう人間だったからです」
「……何……?」
「魔王は、この世界を円滑に回すための最重要の『駒』。 人類の団結を促すため、決して容易く倒されてはならない……だが同時に、無秩序に人類を滅ぼしてしまっては困る」
「力の付与は容易でした。魔王には、我と同等の力を与えています。本来、人類ごときが倒せる存在ではない」
神は、冷酷な事実を淡々と言い放つ。
「難しかったのは、その『心』の選定です。 どれほど世界に否定されようと、どれほど理不尽を押しつけられようと、それでもなお、人類を憎まず、滅ぼそうとしない者。……そんな、ある種の聖人のような人間を、長き時の中で探し続けた」
「そして―― 数百年の果てに、ようやく現れた。 ……それが、彼だったのです」
神のあまりにも軽く、冒涜的な言葉を聞いた瞬間。
俺の全身の血液が、一時に沸騰した。 怒りで視界が真っ赤に染まる。
こいつだ。
レヴァナスを、ネフィリアを、そして俺の人生を狂わせた、すべての元凶が、目の前にいる。
俺は聖剣の柄に手をかけ、一瞬で間合いを詰めて、全力の一閃を叩き込んだ。
「ふざけるなァァァァァァァァァッッ!!!!」
――しかし、音が、しなかった。
確かに、俺の放った至高の刃は、神の肉体を真っ二つに抉った。
手応えもあった。
勇者として、幾度もの死線をくぐり抜けて感じてきた、確かな肉を断つ感触。
だが――
神は何事もなかったかのような、衣服の乱れ一つない姿のまま、そこに平然と立っていた。
「っっ!? うおぉぉぉぉぉあぁぁぁっ!!」
俺は半狂乱になりながら、何度も、何度も神に切りかかった。
当たる。
突き刺さる。
縦横無尽に分断する。
その都度、斬撃の感触は右手に伝わってくる。しかし――神の姿は、傷一つ、衣服に汚れすら増えることなく、そこに存在し続けている。
「無駄ですよ、勇者アルス。あなたは、私が与えた『勇者』という存在に過ぎない」
神は、哀れむように俺を見つめる。
「私に作られただけのあなたが、その創造主を攻撃できるわけがないでしょう?」
「ッ!?」
「役割というのは、絶対です――」
神が、俺の腹部のあたりに、そっと掌を置いた。
その瞬間、全身の筋肉が凝固し、金縛りにあったかのように指一本動かせなくなる。
「勇者という役割は、神に逆らうものではない」
神の、酷く冷たい、世界そのものの崩壊を告げるような声。
「その理を、教えてあげましょう」
ドゴオォォォォォォォォンッッ!!!!
神の掌から、視界を真っ白に染め上げるほどの超高密度の閃光が放たれた。
受けきれなかった衝撃によって、俺の身体は派手に後方へと吹き飛ばされ、幾重もの石壁を突き破っていく。
「くはぁっ……!! ぐぅ……っ!」
瓦礫に叩きつけられながらも、俺は何とか体勢を立て直し、血を吐きながら神に向き直った。
しかし、神の指先には、すでに見たこともないほど巨大で複雑な、世界を覆い尽くすほどの光の魔法陣が展開されていた。
神は、無表情のまま、一言、呟いた。
【――天壊――】
ゴガァァァァァァァァァァンッッ!!!!
俺は防御魔法を瞬時に展開し、どうにか致命傷だけは避けた。
だが、その神の一撃だけで、堅牢だったアルフィーデ城は半壊し、崩落した瓦礫の向こうの城下町からは、先ほどまでの祝宴が嘘のような、人々の悲痛な悲鳴と絶叫が一斉に湧き上がった。
ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の中から這い出した俺は、ゆっくりと目線を空へと向ける。
遥か上空、夜空の真ん中に浮かぶ神が、世界を見下ろしながら語る。
「……魔王が倒された今、秩序は終わりました。 加えて、勇者が神に逆らうなど……あってはならないことです」
「どうやらこの文明も失敗だったようですね。 ……また最初からやり直しましょう」
城下町から、ただ事ではない騒ぎを聞きつけて集まってきた、怯える国民たちの前。
半壊した城の屋根の上で、俺は、世界を滅ぼさんとする神と、真っ正面から対峙していた。
この戦いで、この世界の未来が、今度こそすべて決まる。
俺は、神との間に存在する、あまりにも絶望的な戦力差を肌で感じていた。
人間の勇者が神に勝てる道理なんて、どこにもない。
(だけど……)
不思議と、絶望感だけは、微塵もなかった。
俺は輝く胸の黒曜石にそっと触れ、不敵に笑ってみせた。
「……あいつらと潜り抜けてきたあの地獄のような旅路に比べれば、こんな修羅場なんて――ただの日常だ」
レヴァナスが命を懸けて守った世界だ。こんなクソみたいな神に踏みにじらせてたまるか。
俺は聖剣にありったけの力を込め、眩い光を放つ刃を、天の神へと真っ直ぐに構え直した。
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