勇者の使命
肌を撫でる冷たい夜風が、妙に心地よかった。
ようやく動くようになった身体で立ち上がった俺は、そこで初めて、自分の肉体に起きた変化に気がついた。
下腹部から胸、そして右の頬にかけて――まるで星の光を反射する、硬質な『黒曜石』のような結晶に覆われていたのだ。
(……あぁ、そうか。これはお前の、レヴァナスの魔力の跡なんだな)
俺は結晶で覆われた胸にそっと手を当てた。
脈打つ鼓動の奥に、確かにあいつの遺志が、今も息づいているような気がした。
ふと視線を向けると、すぐ傍にネフィリアが静かに佇んでいた。
「……ネフィリア。君は、これからどうするんだ?」
俺の問いかけに、ネフィリアは俺に背を向けたまま、感情の消えた淡々とした声で口を開いた。
「私はレヴァナスが直接の召喚した僕よ。……レヴァナスが完全に消滅してしまった以上、私の肉体を維持する魔力も、すぐに底を突いて消滅するわ。だから――私の旅も、ここまでよ」
「ネフィリア……」
俺は彼女の肩を掴もうと歩み寄った。
しかし、それを拒絶するように、彼女は囁く。
「来ないで…そのまま行って」
「でも、一人で残して行けないだろ……」
「――恥を、かかせないで」
ネフィリアの、絞り出すような悲痛な声。
彼女は、肩を小刻みに震わせていた。
きっと、泣いているのだろう。
命を懸けて護ると誓った主を看取り、先ほどまで張り詰めていた強がりを、もう維持する必要がなくなってしまったから。
「そうか……ネフィリア……ありがとう」
俺は、彼女の気高い背中に感謝をささげ、一人、帰路へと着くのだった。
◇
――アルフィーデ城、城下町。
俺が城下町へと戻ると、行き交う民や商人たちの誰も彼もが、俺の姿を見て一瞬で表情を凍りつかせ、短い驚愕の声をあげた。
それもそうだ。
今の俺の姿は、不気味な黒曜石に侵食された、まるで『魔族』のような異形の出立ちなのだから。
だけど、そんな周囲の怯えも、陰口も、今の俺にはどうでもよかった。
俺は群衆の視線を真っ正面から浴びながら、城の謁見の間へと真っ直ぐに歩みを進めた。
「――勇者様、なんと痛ましいお姿に……」
「一体、どれほど壮絶な戦いだったのだろうな……」
謁見の間。
居並ぶ近衛兵や貴族たちが、口々に妄言を吐き散らすのが聞こえる。
彼らはただただ他人の徒労を待ち続けるだけ。
今ここにレヴァナスやネフィリアがいないことなど、誰一人として気にも留めていないのだ。
「勇者アルスよ。 よくぞ生きて戻った。……して、此度の任務の『成果』は如何に?」
玉座に座る国王が、どこか白々しく尋ねてくる。
俺は一歩前に進み、城内に響き渡る声で、淡々と事実を告げた。
「過剰な魔素の源は、完全に閉じました。……人間が強大な魔物の脅威に怯えることはないでしょう」
おおおおおーーーーっっっ!!!
刹那、割れんばかりの地響きのような歓声が城内を揺らした。
貴族たちがお互いの手を握り合い、兵士たちが剣を掲げて狂喜乱舞している。
そのあまりにも身勝手な歓声を聞くたびに、俺の心の奥が、不快な怒りで激しく揺れ動いた。
(……その讃頌は……誰に向けてのものなんだ……)
胸の奥が、熱く、怒りに満ち溢れそうになったが、胸の結晶に触れると、不思議と穏やかになる。
レヴァナス……お前は本当に優しいやつだな。
「静まるのだッ!!」
国王の重厚な怒号が、騒ぎ立てる城内に一瞬で冷徹な静寂をもたらした。
国王は玉座の上から、鋭い目で俺の結晶にまみれた顔を見据え、問いかける。
「……勇者アルスよ。その姿……」
「……魔王の最期がいかようであったかのか……語るが良い」
予想だにしなかった国王の言葉に、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
すると周囲の従者や兵士たちが、口々に歓声をあげる。
「そうだ! 勇者様がどのように魔王を打ち倒したのか!」
「ぜひお聞かせください、我が国の英雄よ!」
再び、俺の心は怒りと哀しみで打ち震えていた。
俺は、ゆっくりと口を開いた。そして、語った。
皆が期待したような『英雄譚』なんかじゃない。
レヴァナスという一人の男の、本当の最期を。
自分が不当に傷つけられたことなど一切恨まず、ただ一人の友である俺の命を救うために、その身のすべての魔力を使い果たし、灰となって消えていった、あの誇り高き王の最期を。
俺がこの命を賭けて背中を預けた、ただ一人の『最高の戦友』の真実を――。
語り終えた時。
城内は、水を打ったように静まり返っていた。
俺は顔を伏せたまま動かなかった。
もしここで国王や近衛兵たちの、『魔族を蔑んだ顔』を見てしまったら――
自分を抑えきれる自信がなかったからだ。
しかし。
静寂に包まれた謁見の間のどこからか、スン……と、静かに鼻をすするような微かな音が聞こえた。
俺は驚き、ゆっくりと顔を上げる。
そこには――涙を流している人物がいた。
王妃セレナだった。
彼女はその白い美貌を赤く染め、頬を涙で濡らしながら、俺の胸の結晶を見つめていた。
城内の他の者たちには、なお戸惑いを隠せない者もいたが、涙を流す者も、恥じるように俯く者もいた。
国王が、その重厚な口を開いた。
「……我らは、魔王を知らなかった」
「…………」
国王は暫くの沈黙したのち、深く……深く目を閉じ、再度口を開いた。
「……アルスよ。真に、真に良い働きであった。――そして」
国王は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
そして、玉座の階段を降り――
「……私が……間違っていた」
俺の前で、静かに膝をついたのだ。
王は深く頭を垂れ、その両手を胸の前で重ね、祈りを捧げる。
「――魔王レヴァナスよ。人類を救いし誇り高き王に、我が国と全人類の深き感謝と祈りを」
――その瞬間、城内は歓声ではなく、万感の拍手と、祈りの声で満たされた。
(レヴァナス――)
脳裏に、あいつの笑顔が浮かぶ。
(……お前の遺した行動は、人間たちの心を、本当に変えたよ)
◇
それから数日間にわたり、国を挙げての大々的な祝宴が催された。
俺は国中の民から、英雄、勇者と話しかけられ、至る所で讃えられた。だけど、出された酒にはほとんど口をつけなかった。
(……まだ、やらなくてはならないことがある)
レヴァナスから受け取った、この胸に宿る熱い想い。
神の託宣によって、理不尽に傷つけられ、孤独に泣くような人間や魔族は、もう二度とこの世界に生み出してはいけない。
『人類最強の勇者』。
神が勝手に運命を決めるなら、そんなものは覆してやる。
俺は、自分自身の意志で世界を変えるため、静かに、力強く歩み出すのだった。
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