第2話
目を覚ますと、喉の奥が潮の香りでざらついていた。まるで寝ている間に粗塩をひと摘み飲み込まされたような不快感だ。瞼を突き刺す朝日の乱暴な明るさは、遮光カーテンに甘やかされてきた僕の網膜には、少々どころではない歓迎ぶりだった。
都会の騒音を遮断するために特注した耳栓は、この島では無力だった。聞こえてくるのは、どこまでも図々しいカモメの鳴き声だ。
這い出すように布団を抜け、キッチンへと向かう。都会での習慣を唯一、死守するように持ち込んだのは、一杯のインスタントコーヒーだ。かつては豆の産地にこだわったこともあるが、今の俺には、この茶色い粉末に熱湯をぶっかけ、無理やり脳を叩き起こす作業の方がずっと身の丈に合っている。
一口啜ると、尖った苦味とインスタント特有の安っぽい酸味が胃の腑を叩いた。
この苦い液体さえあれば、自分はまだ、何者かでいられるという、薄氷のような自尊心があったからだ。
「はぁ……まずは、環境の正常化だ」
寝癖のついた頭のまま雑巾を握りしめた。
店内の掃除は絶望的だった。埃の溜まった扇風機を回せば、澱みが一気に舞い上がり、激しく咳き込んだ。
早速、値札の貼り替えに着手した。二十五円、五十五円……。親が手書きしたその「中途半端な数字」が、神経を逆なでする。
「すべて一円単位をカット。合理的じゃない」
都会のスーパーマーケットで培った「スマートな価格設定」への書き換え。それが、この島への最初の宣戦布告だった。
「帰ってきたんか?先生。何やっとるんじゃ?」ガタピシと音を立てて引き戸が開いた。まだ開店時間前だというのに、当たり前のように入ってくる。
常連の婆さん、トメだ。まだランドセルを背負っていた頃から、店にやってきては「おまけ」という名の、採算を無視したやり取りを母と繰り返していた。
「本日より店主が変わりました。それと、今は準備中です。開店は十時からです」
「何言っとるね。昔からお天道様が昇ったら開いとったよ」
「今日からは変わるんです」食い下がった。
だが、トメは「はいはい」と聞き流しながら、勝手知ったる様子で棚からアメを掴み、カウンターに置いた。
このままでは、彼女の独壇場だ。鼻息荒くタブレットを掲げた。
タブレットを起動させる。読み込みの円を描いたまま固まった。
「……っ、このネット環境は」
「先生、何しよるん。そんな板切れ掲げて、雨乞いか?」
「……雨乞いじゃないです。ネット、です」
「ねっと? 網のことかえ。都会じゃあ、板切れを空に捧げたら、魚でも降ってくるんかえ?」
トメは、本気で心配しているような、あるいは少しばかり頭の弱った者を見るような視線を寄越した。
「……もういいです。ネットが死んでいるなら、手動でやります」
呪文を唱えるように呟くと、逃げるように電卓を引き寄せた。
「先生、電卓叩く方が早かよ。このアメちゃん、三十円でええの?」
「二十五円を三十円にしました。合理的でしょう」
「いや、細かいのがええのよ。端数がある方が、お釣りで小銭が貯まって楽しいんやから」
電卓を見下ろした。無機質な液晶に浮かぶ数字だけが、この店では正しかった。
都会で戦った男が、小銭の話で負けるのか。トメの掌の小銭が、やけに重たく思えた。
「ま、先生もゆっくりやりな。お天道様は逃げやせんから」
トメは、戦利品のアメを懐にねじ込んだ。そして、勝った力士のような悠然とした足取りで店を出ていく。
ガタピシと鳴る引き戸の音が、彼女の退場を告げるファンファーレのように響いた。
静まり返った店内に残されたのは、埃っぽい空気と、必死に守ろうとした「正論」の残骸だけだ。
苛立ちとともに、店に落ちた段ボールを拾い上げたとき、薄汚れた引き戸のガラス越しに、嫌な視線を感じた。
道の向こう側。軽トラックの脇に、一人の女が立っていた。多分、幼馴染のサチだ。
潮風に晒されたその姿は、記憶の中の少女とは別人だった。
目が合った。サチは笑わなかった。会釈もしない。ただ、不格好に値札を貼り直している俺の姿をじっと見ている。
まるで、保護対象か害獣かを測る目だった。
気まずさを隠すように、手に持っていた電卓を強く叩いた。プラスチックが悲鳴を上げる。この島で一番、浮いている音だった。




