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帰ってきたオッサン  作者: 枕川うたた


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第1話

「臭い」

錆びた手すりに触れると、鉄の匂いが指先にこびりついていた。

アラフォー男が一人で乗るには、このフェリーはあまりに開放的すぎる。

甲板を叩く潮風は、都会で薄汚れた安物のスーツケースを容赦なく揺さぶり、隠しきれない敗北感を感じた。安物のスーツケースの中には、日の目を見ることのなかった書きかけの原稿と、使い古した万年筆が詰まっている。

人生の重みというより、ただ捨てられなかった執着を運んでいる感じだった。

実体のない雲を掴むような職業を追いかけ、結局はその雲に巻かれて遭難して帰る。

「……東京ではな」

言いかけて、すぐに口を閉ざす。誰に聞かせるわけでもない独り言にすら、見栄のトゲが混じっている。

スマートフォンの画面を開けば、編集者からのメールが「既読」のまま冷たく光っていた。

いつだったか、一度だけ獲った事がある文学賞の賞味期限はもう切れたらしく「湊さんの文体は丁寧ですが、今の市場には少し重すぎるというか、なんというか……」

要するに、もう売れないということだ。

物価は上がり、家賃は上がり、光熱費は跳ね上がり、積み上げてきた文字の価値だけが暴落した。

「政治家は何やってんだ?国民をなめているのか?」と愚痴をこぼしているうちに島が近づいてきた。あんなに狭いと罵って捨てた場所が、今は僕を飲み込もうと口を開けていた。

フェリーが接岸し、タラップが下りる。

「おい、先生じゃないか?」

少し歩いたところで、網を直していた老漁師が、潮に焼けた顔を上げた。

「……どうも、お元気ですか?」よく知らない爺さんだが、大人の対応として、挨拶だけはしておいた。

「どうした先生、都会はもう卒業か?」悪意のない、だが鋭すぎる言葉。

スーツケースの取手を強く握りしめた。

老漁師がガハハと笑い飛ばす。その無遠慮な笑い声に僕は軽く殺意を覚え、一瞬、海に突き落とす場面を想像し、その貧しい想像力にうんざりした。

島の人々は、夢に破れて戻ったことなど知らず、きっと「少し長い散歩から帰ってきた」程度にしか思わないのだろう。

その無関心さが、どんな励ましの言葉よりも残酷で、そして救いのように感じられた


港を背に歩き出すと、アスファルトに染み付いた乾いた潮の匂いが鼻をつく。

左手に提げたスーツケースは、中身の原稿の重さ以上に、執着を詰め込んだせいで歩くたびに太腿を無遠慮に叩く。道すがら目に入る光景は、驚くほど何も変わっていなかった。

潮風にさらされて飴色に変色した木造の家々。軒先に吊るされた、もはや何が干されているのか判別不能なカサカサの魚の干物。

「……変わらなすぎて、薄気味悪いな」独り言が、狭い路地に反響する。

道端の側溝では、蟹がハサミを振りかざして威嚇してきた。

「……わかってますよ。俺は余所者だ」

蟹にすらマウントを取られる自分に呆れながら、さらに歩く。

やがて、緩やかなカーブの先に、その建物は見えてきた。


みなと商店。

実家の看板は、思っていたよりずっと色褪せていた。傾いた『休業』の札が、風に吹かれてカタカタと乾いた音を立てている。

「……合理的にいこう」

自分に言い聞かせるように呟き、重いシャッターに手をかけた。

奥の居住スペースへ足を踏み入れると、線香の燃えカスの匂いが鼻をついた。

居間の隅に鎮座する仏壇には、父と母の遺影が並んでいる。最後に帰省したのは母が亡くなった半年くらい前か……

「……悪いな。このザマだ。情けなくて泣けてくるだろう?」誰にともなく呟き、仏壇の埃をはらう。

合理的に考えれば、もっと早く店を畳み、家を売り払っておくべきだった。

だが、家賃の支払いに窮し、いよいよ自分の文章すら信じられなくなったとき、縋れるのはこの「始末し損ねた故郷」だけだったのだ。


店内は、時間が澱んでいた。

スイッチを入れると、一本の蛍光灯が断末魔のような音を立ててチカチカと明滅した。カウンターには、指でなぞれば跡がつくほどの埃が積もった古いレジ。

その横に、一冊の分厚いノートが置かれていた。ツケ帳だ。

中を見る勇気はなかった。ただ、表紙の擦り切れた角を見つめるだけで、胃の奥が重くなった。

入口から邪魔な荷物を運び出していると、後ろから声がした。

「オジサン誰?泥棒?」

そこには見覚えのない少年が立っていた。

「こんなイケメンが泥棒に見えるか?」

僕は突き放すように言った。

「……ただのイケメン店主だ。明日からな」

少年はまだ疑っていそうな顔をして去った。

一人になった入口に、波の音だけが届く。フェリーは着いたが、俺はまだ、どこにも着いていない。


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