【05】友人アリステア・ヴァレリウス
アリステアは夕食を終えて二階の自室に戻り、寝る支度をしていた。
その時、窓に小石が当たる音がした。
窓を開けて庭を見下ろすと、月明かりの下にゼインが立っていた。
こんな時間に、いったい何の用だろう。
両親に気づかれぬよう、静かに家を抜け出した。
外に出ると、ゼインの様子がいつもと違うことに気づいた。
自信に満ち、時に傲岸不遜とさえ言われる彼が、今はどこか疲れた顔をしている。
どうしたのだろうとアリステアは思ったが、口を開かなかった。
こういう時は、いつもゼインの方から話し始めると知っていたからだ。
しばしの沈黙のあと、ゼインが口を開いた。
「アリステア、俺はナホトカを出る」
アリステアは「どうして」とは聞かなかった。
ゼインがいつも結果から話すことも、まだ話が終わっていないことも分かっていたからだ。
「さっき、アルクの親父が領主の兵に捕らえられた。
詳しい事情はわからない。
だが、俺もこのままナホトカにいれば、同じように捕まるだろう。
俺は、こんなところで終わる人間じゃねぇ。
とにかく、ここじゃないどこかへ逃げるつもりだ」
アリステアは静かにうなずき、それから尋ねた。
「確かにゼインは、ナホトカで終わるような人間じゃないと思う。
でも、逃げる場所はあるの?」
ゼインは短く息をつき、苦笑した。
「この街で育って十六年、海には出たが、この街の外に出たことなんて一度もねぇ。
あるわけがないさ。
だから、俺のことを誰も知らない場所に行くつもりだ」
「どうやって、この街を出るつもりなの?」
「明日一番で出航する商船に乗せてもらう。
海に出てしまえば、もう後戻りはできないだろう」
そこまで聞いて、アリステアにもゼインの考えがわかった。
あとは、船が港を離れるまで兵士たちから逃げ切れるかどうかだった。
「わかった。一緒に行こう。
準備してくるから、先に埠頭に行って乗せてもらえる船を見つけておいて」
ゼインが誘うまでもなく、アリステアは自分から家を出てついていくと言った。
ゼインも、本当はアリステアに来てほしかった。
しかし、これからナホトカを遠く離れ、どこへ行くのかさえ決まっていない。
家族を残して自分について来ることになると思うと、言葉が出なかった。
ゼインの迷いを見抜いたアリステアは、励ますように言った。
「ゼインとは、もう何年も一緒にいるんだ。
ゼインが何をしてほしいか、わからないと思う?
大丈夫。
これからどうなるかは分からなくても、俺はゼインと一緒に行くよ」
「アリステア」
ゼインがその名を呼んだ時、アリステアは次の言葉を待たずに続けた。
「家族にゼインの事情を詳しく話すつもりはないけど、急にいなくなれば心配するだろうから、手紙を書いてくる。
すぐに合流しよう」
時間が惜しかった。
詳しい話は、船の上で聞けばいい。
ゼインと別れたアリステアは、部屋に戻ると机に向かい、家族宛ての手紙を書いた。
手紙を書き終えると筆を置き、ひとり呟いた。
「これが、家出ってやつかな」
家族に対して、不満など一つもなかった。
両親は優しく、兄弟仲も良かった。
ただ一つ、両親はゼインと付き合うことにいい顔をしなかった。
学校にも行かず、同年代の少年たちを引き連れて街を闊歩するゼインは、どう見ても真っ当な少年には見えなかったからだ。
アリステアは、両親からゼインと関わるのはやめなさいと言われたことがある。
だが、反発はしなかった。
代わりに、静かに尋ねた。
「では、どうすればゼインと遊んでもいいのでしょうか」
柔らかい口調だったが、その瞳は真剣だった。
父親は、赤毛の息子の成長を感じた。
その言葉が、単なるわがままから出たものではないことも分かった。
だから父親は、その時初めて、アリステアを子どもではなく、一人の男として見て話をした。
「お前がゼインに憧れるのはわかるつもりだ。
彼はナホトカの街でも有名で、同年代の少年たちが夢中になっているように、お前も夢中になっている。
だが、ゼインは危険だ。
少し離れたところから見ている私たちには、非常に危うく見える。
ゼインには、周りの人間を引きつけ、動かす力がある。
だが、その力はゼインが正しい時だけ働くものではない。
間違った道を選んだとしても、人々は彼についていくだろう。
では、ゼインが間違った時、誰がそれを正すのか。
彼の周りにいる大人たちは、皆ゼインを好いている。
だからこそ、ゼインが望めば手を貸してしまうだろう。
彼らが善良な人間かと問われれば、必ずしもそうではない。
それでも皆、ゼインに対しては善良であろうとしている。
それもまた、彼の持つ魅力なのだろう。
だが、ゼインを知らない人間にとって、彼が間違った時、それはどう映るだろうか。
私は、不幸しか生まないと思っている。
ゼインと一緒にいるというのは、そういうことなのだ。
アリステア。
お前は常に、自分の言葉と行動に誇りを持てるか。
まだ成長の途中にある者が責任を取ると言っても、取れる責任には限りがある。
だから私は、あえて責任ではなく『誇り』と言っている。
お前がその誇りを失わずにゼインと共にいるのなら、私は止めはしない」
アリステアは、父親がいつもより言葉数が多いことに驚いた。
そして、自分の友人であるゼインについて、父がそれほど深く考えていたことも意外だった。
父の問いに対して、「わかった。誇りを持ってゼインと付き合うことにする」と答えるのは簡単だった。
だが、真剣な話を聞いたあとで、上辺だけ分かったふりをするのは違うと思った。
父の言う「誇り」とは、いったい何を指しているのか。
尋ねれば、きっと答えてくれるだろう。
けれど、大人として扱ってもらったのに「意味が分からない」と言えば、失望されるかもしれない。
だからアリステアは、その意味を自分で考えることにした。
「父上の言葉はわかりました。
今すぐすべてを理解できたとは言えませんが、その意味を考えながら、これからもゼインと付き合っていきます」
父はしばらくアリステアの顔を見つめていた。
「そうだな。今すぐに理解できなくてもいい。
だが、常に考えながら行動してほしい」
その日を境に、アリステアの両親は、内心ではゼインを良く思っていなくても、二人が一緒にいることに口を出さなくなった。
もしあの時、両親の言う通りにゼインとの付き合いをやめていれば、今こうして家出をすることもなかったのかもしれない。
だが、ゼインのいない時間にそれほどの価値があるだろうか。
そう考えると、ゼインと過ごしてきた日々も、今の決断も、すべて納得できた。
アリステアは、家族が寝静まった頃合いを見計らって屋敷を出た。
不思議と、家族と離れる不安よりも、ゼインと共に過ごすこれからの日々への期待の方が大きかった。
それは、まるで冒険に出るような心地だった。
この屋敷を見るのは、これが最後かもしれない。
そう思うと、胸の奥にわずかな感傷が広がった。
落ち着いたら手紙を書こう。
両親はきっと心配するだろうが、後ろめたい理由で家を出るわけではない。
いつか胸を張って、この屋敷に戻ってこられるようになろう。
幼い頃、ゼインの後ろを無言でついて回っていた子どもの姿は、もうそこにはなかった。
月明かりの下に立つアリステアは、これから冒険に出る者の顔をしていた。
【外伝】ナホトカのゼイン・アグリウスは、全十一話となります。
本日中に全話投稿予定です。
順次投稿していきますので、ブックマークをしてお楽しみいただければ幸いです。




