第71話 『春の訪れ』と呼ばれる樹
グランヴィル卿は白髪交じりの短髪の男性だった。彼は土の汚れがついた生成りのキャンバス地のエプロンを腰に巻いていた。エプロンのポケットからは園芸用の革手袋が覗いていた。品のいいツイードのジャケットにも小さな葉っぱがついていたが、執事が目にも留まらぬ早さで回収した。
(え、男爵だよね? 貴族なんだよね?)
呆気に取られる私とは対照的に、レイフは緊張した面持ちで丁重に言った。
「閣下、この度はお忙しい中、私どもの訪問をお許しいただき心より感謝申し上げます」
私も慌ててソファから立ってお辞儀をした。
「ああ、こんな田舎までよく来たね」
卿は気さくに言った。
「早速、見に行くかい?」
「差し支えなければ、ぜひとも拝見したく存じます」
「こっちだ。裏庭にあってね」
そう言うやいなや、卿はとんでもない早足で歩き出した。レイフはいいけれど、私はほとんど小走りで追いかけた。
応接間を出て更に廊下を進むと、突き当りに床がタイル張りの空間があった。壁には実用的なコートが掛けられていて、籠が幾つか無造作に積んである。その奥に優雅な造りの木の扉が見えた。主人の行動を読み切っているのか、いつの間にか執事が待機していて無駄のない動きで扉を開けた。
その扉は外に通じていた。突然の眩しい光に私は瞬きした。
石の階段を降りると、足元にクリーム色の可愛い花が沢山咲いていた。珍しい色合いの首をもたげたユリのような花や、白い水仙、細長い形の小さなチューリップ。砂利と踏み石の小道の先には青い釣鐘草が見事に咲き誇っていた。その中を抜けると新緑の匂いに甘さが混ざったような香りがした。
地上の楽園のようだった。作られた人工的な感じがまるでないのに、こんなに美しく様々な種類の植物が自然に生えることはない。考え尽くされて作られているけれど、人に見せるためではなく、植物を愛する者が自分のためだけに作った理想の庭のように思われた。
私が庭に見惚れている内に、卿とレイフは奥の赤レンガの塀の奥に消えていった。私もその後を追って塀のアーチをくぐると更に広い空間が現れた。私が二人の姿を探すと、彼らは大きな木に向かって歩いているところだった。
私の目は、その木に釘付けになった。
――桜だ。
自分の瞳に映るものが信じられなかった。淡いピンク色の霞のような花。見上げるほど大きな立派な樹。その樹の下に立つレイフが私を見つめていた。
私は瞬きを忘れて桜の花から目を離さずに、おぼつかない足取りで近づいていった。
「これだよ……レイフ……これが桜だよ……」
うわ言のように言う私を彼は穏やかな笑顔で迎えた。
樹を見上げて私はゆっくりと瞼を閉じた。
再び目を開けたとき、まだそこに桜があった。レイフが私の肩をそっと抱いた。
私は彼の肩に頭をもたげて、桜の花が風に揺れるのを見ていた。
「私の亡き父が何十年も前に、大変な苦労をして苗木を手に入れてね。海を幾つも渡った遥か遠くの地のものらしい。苦労話をよく聞かされたものだった」と卿が言った。
「私達はこの美しい花を咲かせる樹を『春の訪れ』と呼んでいたんだ。サクラというんだね」
私は頷いた。
「桜は私の世界では別れと出会いの象徴なんです。ちょうど皆が新しい生活を始めるときに咲くから……学校や川沿いに沢山植えられていて、一斉に咲くんです」
「そうなのか、美しいだろうね」
「あと、樹の下で皆で集まってお花見……パーティーをしたりします」
「それはいいね。……では、我々もささやかな会を開くとするか」
卿が執事に手で合図すると、下僕たちが突如現れて机と椅子を運んできた。まもなく桜の木の下のお茶会が始まった。卿は私の話を優しく聞いてくれた。
お茶のカップを置くと、レイフが口を開いた。
「彼女は元いた所には事情があって戻れません。サクラは彼女に故郷を思い出させる数少ない……唯一のものと言っても過言ではないのです」
卿は黙って聞いていた。
「閣下にとっても貴重なものであることは、重々承知しております。無礼をお許しください。どうか、この樹の一枝を私どもに託してはいただけませんでしょうか」
彼はテーブルの下で私の手を握った。
「何十年に渡り、私どもだけでなくその子孫にまで必ず引き継ぎます」
私は真摯な眼差しを向けるレイフの横顔を見ていた。
まさかあなたと一緒に桜を見られるなんて。
将来、私が桜を見ているとしたら、それは元の世界に帰る時。
その時、私の隣にあなたはいない。
――ずっと、そう思っていた。
私は涙をこらえようと眉根を寄せて目を固くつぶった。でも涙はその努力をやすやすと超えて流れ落ちた。
「接ぎ木した苗が温室にある。それを持っていけば、五年……上手く行けば三年で花が咲くだろう」
卿の言葉に私はそちらを見た。
「……どのように感謝の言葉を申し上げればよいか……」
緊張感から解放されて頭を垂れたレイフが絞り出すように言った。
「ありがとうございます……絶対に守ります。一生懸命、育てます」
私は誠意が届くことを願って、卿に誓った。
卿は穏やかに頷いた。




