第72話 君と、いつか咲く桜
卿がその日は館に泊まるよう勧めてくれた。レイフは街道沿いで宿を取るからと遠慮したが、管理方法を教えるにはその方が楽だと言われ、好意に甘えることになった。
夕食の席で私たちは卿の植物談義を聞きながら、桜の苗の育て方や注意事項を必死でメモに取った。
「しかし、突然、君から手紙が来たときは驚いたよ」
卿にそう言われたレイフは答えた。
「……よく訪問を受け入れてくださいましたね」
「ほとんど知られていないはずの我が家の『春の訪れ』をかなり具体的に言い当てていたからね。林檎の木に似ていて薄紅色の花の咲く木、しかも花が先に満開になって散った後に葉が出てくる」
そして私の方を見た。
「婚約者の故郷の花だと言われたら、興味があってね。……それに、随分とロマンチックな話だし」
私がレイフを見ると、彼は照れたように目を伏せた。
私に用意された部屋は二階で、レイフは一階だった。
食事の後、階段の前で彼は私の手を取って甲にそっと口に寄せた。
「本当は抱きしめたい所だけど……」
私もだった。むしろキスもしたいとさえ思ってたけど。彼の生真面目さが愛おしかった。
「明日帰ったら、ね?」
彼がぐっと口元を引き締めた。ぐらついた心が透けて見えるようだった。
(ごめんね、そんなつもりじゃなかったんだけど)
「おやすみなさい」
最後まで彼の手に触れていた指先がゆっくりと離れた。彼の顔を見つめながら、手すりに手を滑らせて私は階段を昇った。胸が痛みに似た感覚を覚えた。館でもいつも寝る場所は別々なのに、なぜか今夜はそれがまるで耐えられないことのように辛かった。
一人で見知らぬ部屋で横になっていると孤独を感じた。
彼は今、どうしてるかな。
私を思い出しているといいんだけど。
彼の鼓動を感じながら眠りに落ちることができたら、どんなにいいだろう。
きっと温かくて落ち着く。
そんなことを考えながら、いつの間にか私の意識はゆっくりと落ちていった。
翌日、私は苗木を大切に抱えて馬車に乗った。私たちは卿に丁重にお礼を言い、地上の楽園を後にした。帰るのは私たちの家。
館に戻った私たちは桜の苗木を東屋に移した。植えるのは秋だと教わったので、雨風をしのげる所で当面育てることにしたのだ。すぐにも植えられると思ったのに、色々と辛抱がいるようだ。私とレイフの関係も少しずつ進んでいくのかもしれない。
レイフが後ろから私を抱きしめた。
「リリー、君を元の世界に返すことなど俺にはできそうにもない……でも君のためなら、この世界で不可能も可能にしてみせる」
私だって、もはや彼から離れることなどできない。
この世界へ来たのは私の選択ではなかった。様々な可能性をはらんだ偶然が重なりあったけれど、私は全てを偶然に委ねたのではなかった。確かに自分で選んだものがここにあった。
私たちは得ることもあるけれど、どれほど切に願って最善を尽くしても失ってしまう。だからこそ、欠けた心を補えないと知りながら僅かばかりであろうとも満たそうとする彼の想いそのものが、私には存在が困難な美しい宝物のように思えた。
そう、この異世界に咲いた桜のように。
私は彼の腕の中で彼に向き直った。彼は私の瞳をまっすぐに見つめて言った。
「ミ・カーレ……意味が分からないなんて、言わせないよ」
「恋も知らない素導師様だったのに、こんなに甘いことを言うようになるなんてね」
「ああ、でも今は違う。途方もない難題だったよ。俺の答えは……君だ」
「私の答えは、レイフだよ」
東屋の桜の苗木が春の日差しを浴びて、風に揺れていた。
全72話、完結です。
初作で自分の書いているものが小説なのか確信が持てぬまま、1ヶ月半ほど寝る間を惜しんで書き上げました。どうしたらより良くなるのかと考えることはあっても、苦ではなかったように思います。
誰かの心に何か届けばいい、何か残れば。その思いだけに突き動かされて、私の脳内だけの物語が形になりました。お付き合いいただき、ありがとうございました。
もし心に残るものがありましたら、レビューや星評価などでお聞かせいただけると嬉しいです。
7月末頃に別の主人公(レイフォードの長兄ヴィリバルト)の物語を公開予定です。こちらも、よろしければ覗いてみて下さい。




