第70話 田舎への小旅行
少しずつ寒さが和らいで、日差しがぬくもりをはらんできた。あと一月ほどすると、私がこの世界に来てから丸一年になる。あのとき初めて会った”白銀の素導師様”が、こんなに大切な人になるなんて、思いもしなかった。
たった一年足らずで私は恋をして、この館は私の帰る家になった。
書き物机で手紙や書類の確認をしていたレイフが言った。
「リリー、素視の予定だが、数日間空けられないか?」
私は書類綴じを開いて予定表を彼に見せると、指差しながら説明した。
「七日後のここなら、予約が入ってないから三、四日空けられるよ」
「丁度いい。小旅行に出るからそのつもりでいてくれ」
「旅行? どこに? レイフだけ行くの?」
「君も一緒だよ」
どこに行くのか聞いても、彼は「秘密」と言って教えてくれなかった。
七日後、私達は馬車に乗って出発した。
「ねえ、どのあたりに行くのかくらいは教えて」
「少し離れた田舎にある、グランヴィル男爵の邸宅だ」
「邸宅? 観光なの?」
「悪いが、観光するような所はあまりないんだ」
「え、じゃあ何をしに行くの?」
レイフは目を優しく細めて口元に控えめな笑みを浮かべるだけだった。その表情は「さて、どうかな」と言っているようだった。
「どのくらいで着くの? お尻の覚悟がいるから」
「そんなにはかからないよ。二刻……少々かな」
「わかった」
「……膝枕してあげてもいいが」
「それはとても魅力的だけど、今は顔を見て話してる方がいいな」
「どちらでも、レディのお望みのままに」彼は軽く会釈してみせた。
私たちは笑いあった。
人気のない野原に紫やピンクや黄色の花がまばらに咲いていた。春が気まぐれに大地を跳ねて、その訪れを人々に知らせているかのようだった。やがて、ぽつりぽつりと農場が姿を現して、少しずつ風景はのどかな田園へと移り変わっていった。
私たちが到着したのは田舎風のとても美しい館だった。赤レンガと木材が組み合わされた壁、粘土でできた深いオレンジの小さな瓦が緻密に敷かれた屋根。非常に手間のかけられた造りだった。
邸宅の正面玄関へ先に着いたレイフは、館を見上げる私を柔らかな眼差しで見つめていた。彼が呼び鈴をならす前に、玄関の扉が静かに開くと初老の執事が姿を現した。
「グランヴィル卿とお約束しております、レイフォード・カエリムです」
そう名乗ると、レイフは名刺を執事の持つ銀の盆に載せた。
(名刺なんて持ってたんだ)
執事は表情を変えずに言った。
「仰せつかっております。どうぞこちらへ」
私たちは鈍い艶を放つ木と真っ白な壁の重厚な玄関ホールを抜け、応接間に案内された。
天井には石膏細工が施され、木製のパネルが張られた壁には精緻に描かれた植物の標本画がいくつも掛かっていた。私が天井の美しい細工を見上げていると、執事が「主人に取次いでまいります」と言って去った。
落ちついた青緑のダマスク織りのソファは歴史と品を感じさせた。
「……すごいね……」
部屋には私たちしかいないのに、囁くような小声で言いながら私は恐る恐るソファに浅く腰掛けた。
彼は私に小さく頷くと、そのままソファの近くに立っていた。
座らないの? と聞こうとした途端、彼が背筋を伸ばして扉を見た。
この館の主が姿を現したのだった。




