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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第四章 再び旧都へ

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第63話 私が決めた居場所

――終わった。


 源素庁を出た私は、声もなく泣いていた。一面オレンジ色に塗られた空に細い月がかかっていた。道行くすれ違う人たちが驚いたように私のことを見ていたけど、そんなの構ってられなかった。


――どうか、こんなにも優しくて温かい彼が、これ以上傷つくことがありませんように。


そう東屋で願ったのに。

その自分が彼を更に深く傷つけることになるなんて。


――ごめんなさい、ヒューさん。本当にありがとう。


 まだ帰りたくなくて、涙をレイフォードさんに見られたくなくて、わざとゆっくり歩いた。レイフォードさんの実家の近くに着く頃には辺りは薄暗くなっていて、私の涙も止まっていた。でも、それが乾いた跡は頬に残っていた。


 店舗のガラス越しに、レイフォードさんが落ち着かない様子で何度も外を確認しているのが見えた。彼は私の姿に気がつくと店から出てきた。

私たちは向き合ったまま、表通りに立っていた。


「……歩いて帰ってきたのか?」

私は小さく頷いた。

「道理で帰りが遅いわけだ、迎えに行けばよかった」

無言のまま首を振る。

「……そうか」

彼は何も聞かなかった。

言いたくないし、聞かないでくれてよかった。

レイフォードさんであっても、ヒューさんとの別れについては話したくなかった。


 私は一歩踏み出すと、レイフォードさんにしがみついた。彼の胸に額を擦り付けて、強くつぶった目から涙がこぼれるままにしていた。

私から彼に抱きついた、初めての瞬間だった。

店の中から彼のお母さんや従業員までもが驚いた表情で見ているのも意に介さず、彼は私を強く抱きしめ返した。



 その日の夕食の席で、レイフォードさんのお母さんは躊躇(ためら)いがちに言った。

「リリーが泣いていたとは言え、お店の前でなんて……レイ、噂になるわよ」

「別に構いませんよ。俺がリリーを好きなのは本当なんですから。隠す必要はありません」

彼は平然と言ってのけた。


 彼のお母さんは呆気にとられて、手にしていたフォークを思わず置いた。それまで黙っていた彼のお父さんが静かに言った。

「レイ、そう言うからには、それ相応の覚悟をするように」

「承知しています」

彼のお母さんが私の方を向いて確認した。

「……そうなの? リリー」

黙って頷きそうになる。


――だめだ。逃げない。


私は自分の決定に責任を持たなくちゃ。

堂々と自分の気持ちを表明しなくちゃ。

もう誰も傷つけたくない。


「私、レイフォードさんのことが好きです」

まっすぐ彼女を見つめて、私は言った。

レイフォードさんが身を乗り出して手を伸ばすと、テーブルの上の私の手を握った。


 私は彼を見た。

その藤色の瞳には私が映っていた。

勇気を出したから、彼も応えてくれた。

私ももう目を逸らさなかった。


 彼のお母さんは私と彼を交互に見ると、口元をほころばせて言った。

「そう、そうなの……分かったわ」

彼のお父さんは祝杯を上げるようにワインをわずかに掲げて、それを飲み干した。



 夕食後に部屋へ戻る途中、彼の部屋の前で私は立ち止まって彼に言った。

「私、早く帰りたいんです。ここは思い出がありすぎて……」

「分かった。明日の朝、発とう」

彼は私を抱き寄せると、逃がすまいとするかのように私の背後で指を組んだ。

「本当は今すぐにでも連れ帰りたいが……夜道は危険だから」


 翌朝早く、私たちは旧都を出発した。

見送ってくれたレイフォードさんのお母さんは、私の手をしっかりと握って言った。

「身体に気をつけて。また、いつでもいらっしゃいね」


 また長い馬車の旅。行きの心境を思えば、どんな酷い揺れも何でもなかった。

素導館(そどうかん)に着いたときには、まだ午後の日差しが残っていた。

馬車の窓から久しぶりに庭と聖堂を目にして私は涙が出そうになった。

また戻ってこられるとは思ってなかった。


 彼が馬車を降りる私に手を差し出すと、目を細めて笑った。

「リリー、おかえり。君の家だよ」

私は館を見上げた。


――ここが、私の選んだ居場所。

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