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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第四章 再び旧都へ

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第62話 これで全部最後

 心と身体はどこかで繋がっているようだ。心ってどこにあるんだろう。胸だとよく言われているけれど。


 身体が病気じゃなくても心がダメージを負いすぎると身体にもそれが影響するのだと、私は身を持って痛感していた。

少し痩せたはずなのに耐えられないくらいに重かった身体は、レイフォードさんと心を通わせることができた今、重力から解き放たれてふわふわと浮遊しているかのようだった。


 たった一つだけ、私を地面に繋ぎ止めるものがあった。その細く長い糸は私が何の気後れも迷いもなく飛んでいくのを引き止めていた。


 夕食の席で私とレイフォードさんが同じ空間にいるのを見た彼のお母さんは少し驚いたようだったが、その空気が険悪ではないことを感じ取ったのか穏やかな笑みを浮かべた。


 食事の間レイフォードさんがあまりにもずっと私を見つめているので、私はその視線で肌が焦がされるようにさえ感じて、あまり直接目で受けないようにしていた。とはいえ、彼の気持ちも理解できたので、たまに視線を向けて優しく微笑み返した。そのたびに彼の藤色の瞳が甘さを増して嬉しそうに口元がほころぶので、彼のお母さんはおろか、いつも空気のように馴染んでいる彼のお父さんだってさすがに気がつくのではないかと思った。


 夕食後、部屋に戻る途中で私はレイフォードさんに言った。

「私、明日ヒューさんの所へ行かなきゃ」

私は少し目を伏せて続けた。

「……伝えることがあるから」

「明日なら、ヒューは源素庁(げんそちょう)の職場にいるだろう」

「お仕事が終わってからの方がいいのかな……」

「そうだろうな。日没頃には終わる。少し遠いから馬車を用意させるよ」

「ありがとう」


これは私がしなければいけないことだ。

私でなければできない。

そして手紙で済ますのは嫌だった。

ヒューさんの反応がどんなものであれ、私は受け入れなくてはならない。

それが、選択した私の責任なのだから。


「馬車は待たせておくんだよ。……そんなに長くはかからないだろう?」

レイフォードさんが気遣わしげな表情で私に言った。

「心配しないで、子どもじゃないんだから」大丈夫だと証明するように私は微笑んだ。

彼は黙って私を見つめ、小さく頷いた。



 翌日の午後、日が傾いて街の建物の壁面を眩しく照らし始めたとき、私は表通りに出た。馬車に乗る前に二階を見上げると、私の様子を窓越しに見守っていたレイフォードさんと目が合った。

彼は口角を少し上げた。心配そうな眉根がどこか無理をしているような微笑みだった。

私には彼の気持ちが手に取るように分かった。

私が傷つくのを恐れているんだ。でも、彼が代わりに引き受けられないことも分かってる。私は微笑を返すと、馬車に乗り込んだ。


 着かないでほしいと心の片端で願う気持ちがあった。これからの私の行動によって、もうヒューさんとはきっと会えなくなる。一生ではないかもしれないけれど、当分の間は。そして、あの特別な優しさは永遠に私に示されることがなくなる。私の心の中できらめく大切な宝物はそのまま時を止める。


 源素庁の建物の前で馬車を降りた私は、御者に先に戻るように伝えた。待たせておくと急かされるような気持ちがした。少しでも心の重荷を減らしたかった。

私は建物を見上げると、ヒューさんの部屋へ向かった。


いてほしい、でも、いないでほしい。

私はこれから、彼を傷つけに行く。どうしようもなく深い傷痕を残すほど。

その傷痕は完全に消えることはないだろう。


 彼の部屋の扉をノックした。

「はーい」

あの柔らかな声。もう聞けなくなると思うと、耳にいつまでも残しておきたいくらいだった。


 私は静かに扉を開けた。

「……リリー」

彼は少し驚いた様子だったけど、すぐに私を迎えると空いている椅子へ座るように手で示した。

「ここに来るなんて、思わなかったよ」

「突然ごめんなさい。お仕事がまだだったら待っているから」

「もうほとんど終わりだよ。これだけ書き終わるまで、ちょっと待ってて」


 私は机に向かう彼の顔を斜め後ろから眺めていた。その表情は凪いだように静かだった。

犬の尻尾みたいに結ばれた髪の毛。広い背中。

もう全部、これが最後。


「お待たせ、終わったよ」

彼は私に向き直ると言った。


――私とあなたの淡い関係も、これで終わりになる。


「今日はヒューさんに伝えたいことがあって、来ました」

彼は小さく頷いた。

私は息を深く吸って、それを吐きながら言った。

「私、レイフォードさんの素導館(そどうかん)に戻ります」


 彼の顔から表情が消えた。

「彼は私を認めて、形作ってくれたんです。

私が一緒にいたいと思うのは……一緒に大事なものや思いを共有したいと思うのは……彼なんです」


――言ってしまった。もう戻れない。


 彼は一度だけ瞬きして、顔を少し逸らすと目を伏せた。

「ヒューさんには甘えっぱなしで……沢山優しくしてくれたのに、何も返せなくてごめんなさい。

ヒューさんは私にとって特別な人です。かっこよくて優しくて、幸せになってほしい……。その気持ちは本物です」

私はつかえながら懸命に言葉を紡いだ。

「私のことを何度も助けてくれました。どれほどあなたが私の支えになってくれたか、言い表せないほどです」

私は涙を堪えて瞬きをせずに言った。

「ありがとう」


――私は泣いてはいけない。自分で決めたんだから。


 彼はずいぶん長い間、黙っていた。

私はただ彼の言葉を待った。

やがて彼は小さく息をつくと、私をどこか眩しそうに目を細めて見つめて言った。


「そっか……君は自分の居るべき場所を見つけたんだね」


 その言葉の切なさと彼の切望が分かるから、私は目を閉じて震える息をついて耐えた。

そして、再び目を開いて言った。

「あなたの希望する形ではないけれど、私もあなたのことを本当に大事に思ってる」

彼の耳には綺麗事に聞こえるかもしれないけど、言わずにはいられなかった。


「これ、前から準備していて……」

私は巾着袋を取り出した。

「心からの贈り物だから、受け取ってほしいの」

クリーム色の艶のある生地で作られた、刺繍入りのコンフェ入れ。


 私が考えた光のモチーフと彼のイニシャルを刺繍したものだった。私の刺繍だから工芸品のように美しくはできなかったけど、デザインだけでなく糸の色も生地も彼のために選んで作っていたものだった。


「これだけは、本当にあなただけを想って作ったから……」

彼は動かなかった。私は彼に歩み寄ると、それをそっと差し出した。

「ありがとう、リリー……」

彼はゆっくりと手を伸ばして受け取ってくれた。微かに私たちの指先が触れた。


「それじゃあ……さよなら」

目の縁に溜まった涙がこぼれ落ちる前に、私は顔を背けて足早に彼の部屋を出た。

これ以上ここにいたら涙が抑えきれなかった。


 コンフェ入れを手渡したときにほんの少し触れた彼の指先の感触が、いつまでも私の指に残っていた。



彼女は去っていった。

やれることはやった。

ああ、しんどいな。


 なぜだろう、彼女との会話が脳裏に浮かんだ。

『俺ももうめっきり泣いてないな』

『ヒューさんが泣いたら、よっぽどのことですね』


 不意に一筋の涙が頬を伝った。


――リリー。俺を泣かせるなんて、君くらいだよ。

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