第60話 レイフォードからの手紙
その夜、私はなかなか寝つけなかった。ずっとヒューさんに言われたことを考えていた。いや、考えずにはいられなかった。
ヒューさんの真剣な願いにきちんと答えを出さないといけない。中途半端に延ばしたら、それは彼の心を弄ぶことだ。
”二人とも好きなの”
そんな都合のいい話はもう通らない。私はどちらかを選ばなくちゃいけない。
一緒にいてくれる人ではなくて、これからずっと一緒にいたい人を。
この世界で私を助けてくれた二人の素導師。
一人は自らの傷を優しさで隠していた。その優しさは私を温かく包みこんで、穏やかに癒やしてくれた。
もう一人は、時に私をどうしようもなく惹きつけ、傷つけた。だが、この世界で私を新たに形作ってくれた。
ヒューさんが東屋で見せてくれた『オオカミとウサギの旅』の物語。
彼の孤独が癒やされますように、と願った。
でも、私は彼のウサギになりたいと思ったのだろうか。
――”私はなれないけど”、あなたにそんな存在が見つかりますように。
どこかで、そう思っていた。
彼がくれた沢山のもの、なぜか申し訳なさが先立った。単純に喜べなかったのは、その気持ちと同じものを返せないと分かっていたから。
――ヒューさんを、あの人の代わりにしたくない。
たとえ、彼がそれを受け入れたとしても。
私は何度も浅い眠りに落ちては、おぼろげに目覚めるのを繰り返していた。
夜更けか明け方か、その間だったのか。まどろむ私の耳に廊下を歩く微かな足音と、扉の下あたりで何かが床を撫でるような小さな物音がした。なんだろうと思ったけど、夢現の私はまた眠りに落ちた。
翌朝遅く私は目が覚めた。長時間横になっていたのに何度も寝て起きてを繰り返して、頭がすっきりしなかった。使用人には呼ばない限り部屋に入らないように頼んであったので誰も起こしに来なかった。カーテンを開けると、もう高く昇った太陽の日差しが入ってきた。
ベッドを降りて顔を洗う。鏡の中の私はちょっと大人びて憂いを帯びた表情をしていた。この世界に来たばかりのときはただ何も分からなくて幼さを感じさせていたのに。
着替えた後、お茶を頼もうと思ってベルを鳴らした。少しして扉がノックされたのでそちらに顔を向けた時、床の上に白い四角いものが落ちていることに初めて気がついた。
「……リリアナ様? お呼びでしょうか」
用がなければ入らないようにという指示を守って扉の向こうで待つ使用人に向けて、私は上の空で返事をした。
「あの、お茶を……持ってきてほしくて」
「かしこまりました」
私の目はその四角い封筒に吸い寄せられていた。私はゆっくりと立ち上がり、躊躇しながら床の上の封筒を拾った。
『リリーへ』
――あの人の字だ。
私は目を閉じて上を仰いだ。かつてあれほど欲しかった手紙をこんな形で受け取るなんて。私は速くなる鼓動を抑えようと胸に手を当てた。手のひらと胸の間に挟まれた手紙は、意図せず私に抱きしめられる形になった。
ノックの音がしたので私はとっさに手紙を鏡台の上に置いて、それを隠すように鏡に背を向けて立った。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、入って」
使用人は扉を開け、小さな机にお茶のセットを置くと部屋を出ていった。
私は深く息を吐くとゆっくりと振り返って、封筒を見た。
見間違うはずがない。やはり彼の字だ。
封筒は少し厚みがあって、何が書かれているのか興味を引かれると同時に中身を確認するのが恐ろしくもあった。私は深呼吸を幾度かすると、覚悟を決めて封を開けた。緊張でかすかに震える指で便箋を広げる。
***
リリー
上手く言えそうにないから、手紙を書くことにした。
君に言われたことを何度も考えてみた。
まず、マルゴについて説明したいんだ。
『ここは君が帰る場所だ』『困ったら手紙を』というのは、俺がマルゴに言った言葉だと思う。
君だから言うけれど、彼女は闇の源素を持っていることで両親にさえ疎まれて、祖父母のいる素導館へわずか五歳のときに送られた。そんな強い偏見を持つ者は少ないけれど、いることは確かだ。
俺はそんな彼女の境遇に深く同情したし、本来受けられるはずだった家族の愛情を幾ばくかでも代わりに与えたかった。
祖父の素導館を引き継ぐことにより、俺は結果的に彼女を追い出してしまった。マルゴは思い出の場所に祖父母の不在を感じながら居続けるのは辛いからだ、と言っていたが、俺に遠慮したのもあると思う。旧都の俺の実家と祖母の故郷に近い聖導院の内、彼女は聖導院を選んだ。
そういった罪悪感もあって、確かにマルゴを優先してきた。だがマルゴは俺にとって妹だし、妹にしか思えない。それは、はっきりと君の前でも言ってきたつもりだった。
なぜ気まぐれに優しくしたのか、と君は言った。
気まぐれじゃない。
君のことが好きで、俺のそばにいてほしいと思ったからだ。
君の挙げた行動の数々は、俺にとっては必死でやったことだった。
どんな反応を返されるのか分からないまま自分の気持ちを示すのは、ひどく勇気のいることだった。
言葉には出せなかった。
この世界で身寄りがなく俺に頼るしかない君にそれを伝えたら、君は応えようとしてしまうかもしれない。本当の恋も知らぬままに。
ヒューと一緒にいると君は明るくて楽しそうで、なにより幸せそうに見えた。俺が与えられないものをヒューは持っている。
ヒューも君に好意を持っているのは明らかだった。
君は俺の好意もヒューの好意も同じように扱っていて、はっきりしない態度をとっているように見えた。
それが俺にはひどく堪えた。
ヒューのことをしっかりと知る機会も与えずに、君に選ばせるのは卑怯だと思った。
全ての選択肢を嘘偽りなく提示した上で、選んでもらおうと思った。
葛藤があったから、それを表すまいとして硬い表情になったかもしれない。
追い出されたと感じていたなんて、君が気持ちを吐露するまで気がついていなかった。
君は至極冷静に受け入れているように見えたから。
あのときは、君のために正しいことをしているのだと思っていた。
今は分からない。
君のことを思ってしたことだったのに、ただ傷つけただけだったのかもしれないなんて。
もっときちんと君に話せばよかった。
あの劇場の夜、雨の聖堂、林檎の木にランタンを灯した晩、手紙を貰ったとき、俺は君と共鳴するような感覚を覚えた。それは君も同じだったと今も信じている。
俺は、あの夜の劇の台詞のような「君がいないと生きていけない」なんて大げさなことは言えない。
君がいなくても、生物学的には生きていけるかもしれない。
でも、心は失ったままだ。
俺が本当に「生きている」と感じるのは、君と過ごす日々なんだ。
そして、君もそうであってほしいと、俺はどうしようもなく願ってしまう。
これが俺にとっての恋なんだ。
よく考えたし、心でも感じて、そう決めたんだ。
君が言った「好きになったりしなかった」という言葉。
あれはもう戻らない過去なのだろうか?
わずかでも、その気持ちは残っていないのだろうか?
その名残にかすかな希望を託して、俺は今これを書いている。
レイフォード
***
信じられない思いだった。何度も読み返して、私の身体に少しずつ沁み込むように彼の言葉が入り込んだ。マルガレーテさんへの彼の気持ちに納得する一方で、手紙に綴られた他の言葉たちが洪水のようになって私の心をかき乱していた。
――彼が、必死? 勇気を出す?
あんなに綺麗で堂々とした人がそんな気持ちになるのだろうか。でも、この手紙には彼の本心が表れているように思えた。
桜色のドレスを着て自分を表現したとき。
聖堂で苦しい胸の内を打ち明けたとき。
レイフォードさんに桜を見せたい、と話したとき。
手紙に私の気持ちを託したとき。
私が素直になって心を打ち明けたとき、そのたびに彼は勇気を出して応えてくれていた。
私の方こそ、自信がなかった。
どこか自分を卑下する気持ちがあって、あんなに綺麗で強い彼が私を選ぶはずがないって期待しないようにしていた。
――それが彼には、曖昧な態度に見えたのだろうか。
もし彼が気持ちを言葉にしてくれてたら。あのときに見送ってくれていたら。
私は旧都に来ることもなく彼を選んだかもしれない。
だから彼は冷たくしたのかもしれない。でも心の傷はあまりに深くて、必要だったのだと言われても感情はついていけなかった。
動揺する気持ちを置き去りにして、頭の中のもう一人の自分が指摘する。
私は自分だけ傷つかない安全な場所から、ただ愛情が一方的に与えられるのを期待して待っていたのではないか?
それが彼を傷つけることに繋がるかもしれないなんて、想像すらできずに。
愛おしげに向けられた微笑み。
私を切なげに見つめる眼差し。
切実に求められた抱擁。
私はただ戸惑って恥ずかしがって、ちゃんと応えなかった。
そして、その理由を深く考えもしなかった。
確かに彼は言葉にしなかった。でも、私も伝えていなかった。
ちゃんと彼に伝えなきゃいけない。
――今度は、私が勇気を出さなきゃ。




