第56話 信じられない
いつもの彼らしくない、弱さをさらけ出すような姿は私に強烈な印象を与えた。
だけど。
――私が、彼を選ぶ……?
私に与えられた選択肢は二つだけだったはず。
源素庁の事務の仕事か、彼のお母さんの店で働くか。
「彼」は選択肢に入っていたの?
書斎で私に冷たく旧都へ行くよう言ったとき、彼はそんなことを口にしていなかった。思い出したくないほどなのに、彼に言われた言葉が何度も頭の中で勝手にリピートされて、私はそれから逃れられなかったのだから。
彼は再び気まぐれを起こしたのだろうか?
今だって、彼に強く抱きしめられてまともに考えることができない。
何もかも混乱している。
待って、どういうことなの?
私は彼の胸を両手で突っ張るように押し返して、ゆっくりと彼から身を引き離した。
それはひどく精神的な苦痛を伴うことだった。あんなにひどい形で放り出されたというのに、今でもこのまま身を委ねられたらと思ってしまう。
「あなたは、選択肢になかったはずです……」自分でも意外に感じるほど、心中と裏腹に私の声は落ち着いていた。
彼は離すまいと縋るかのように私の腕を掴んでいた。彼の手がこわばるのが分かった。
「あなたの気まぐれに振り回されるのは、もううんざりです。私のことをあんな風に追い出したのに……選んでくれって、どういうこと? 私には源素庁かここのお店か、その二つしかなかったじゃないですか」
まるでいわれのない批判を受けたとでもいうかのように、戸惑った様子で彼が弁明した。
「言うまでもないからだ。”他の選択肢”と言っただろう? 素導館の俺の所か、他か……」
私には詭弁にしか聞こえなかった。
「あんなに絶望させておいて、今度はそんなことを言って……一体何がしたいの!?」
激しい口調で責められて彼が口を開きかけたけど、私は言わせなかった。言い訳なんて聞きたくなかった。
「あなたは……! 私に、ここが君の帰る場所だ、なんて言ってくれなかった……。困ったときは手紙を書いて、とも言わなかった……」
ずっと押さえつけられていた私の感情は一旦解き放たれたら闇雲に走り出して、私自身でも止められなかった。
「まるで私がどうなってもいいみたいに……早く出て行けって……」
たまりかねたように彼が声を荒げて言った。いつも冷静な彼から初めて聞く、焦りを含んだ声音だった。
「出て行け、なんて言ってない! 選択肢を与えたかったんだ……!」
――選択肢、選択肢って、もううんざり。私は最初から選んでたのに!
私は彼の腕を振り払って強く言葉を投げつけた。あんなに酷く私を傷つけた彼に、あのときの苦痛のほんの欠片だけでも味わわせたかった。
「そんなの信じられません! もう、あなたの言うことは信じられない!」
私は涙で濡れる瞳で彼を見据えた。
「私が知りたいのは一つだけ。
……なぜ、私に優しくしたの?
綺麗だ、なんて褒めたり、りんごの樹を灯してみせたり。手紙を渡したときに……抱きしめたり。
なんで、あんなことを……。
あれさえなければ、私は好きになったりしなかったのに」
私の言葉に、彼の瞳が焦点を見失ったように揺らいだ。
「あなたは私がいなくても生きていけるでしょう? 私も一人で生きてみせます、この世界で」
そこまで言い切ると、私は目を伏せて震える息を吐いた。
「それでも……その勇気をくれたのは、あなただから……。
名前をくれたのも、あなただったから。それだけはありがとう……」
私はうなだれて掻き消えるような小さな声で言った。頬を伝った涙が地面に落ちて、小さな灰色の染みを作った。
彼は圧倒されて何も言えないようだった。
認めざるを得ないのだろう。全部、本当のことだもの。
もういいんだ。すべて彼に分かってしまっても。
私が彼の気まぐれを真に受けていたことも。
こんなにも彼のことが好きだったことも。
――全て、どうでもいい。
「もう私のことは放っておいて……」
私はそう言うと彼の横をすり抜けて二階への階段を駆け上がった。
*
リリーが去ったあと、俺はしばらくその場から動けなかった。やっと捕まえたと思った彼女は俺の手をすり抜けていった。
彼女からは近況を知らせる便りも選択肢についての相談も何もなかった。ヒューに手紙で聞いても返事はなかった。
限界など、とっくに超えていた。
俺は騎馬で旧都に向かった。旧都に着いたときにはすっかり暗くなっていた。走り続けた馬は全身から湯気を立ち登らせ、目的地に着いた瞬間、耐えかねたように膝を折って地面に倒れ込んだ。驚く母や使用人にリリーの居場所を尋ねると、ヒューと劇場に行ったと伝えられた。
とにかく一刻も早く、彼女に会わなければ。
彼女に会って正直に話したら、きっと事態は良い方向に進むはずだ。
そう思っていたのに。
ついさっきの出来事は悪夢のようだった。
彼女に言われた言葉が信じられない。
頭の中に言葉の断片だけが駆け巡っている。
それでも、俺は忘れられていた訳ではなかった。
まだ俺に彼女の心を乱す力があるのだと感じるのは、胸の内にかすかな希望を呼び起こした。
――『あれさえなければ、私は好きになったりしなかったのに』
初めて伝えられた『好き』という言葉。
ずっと聞きたかった言葉は、耳にした時には過去形だった。
久しぶりに彼女の姿を見た途端、甘い毒が俺の身体に回った。思考が麻痺する。もう理性的になんて考えられない。彼女の誤解を解く方法を考えるべきなのに頭が上手く働かない。接触を拒否された今、一体どうすればいいのか。
ひたすら許しを請うのか?
彼女の選択を待つのか?
――どちらも正解とは思えなかった。




