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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第四章 再び旧都へ

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第55話 なかったはずの選択肢

 目まぐるしい感情の波にのまれて私は疲れ切っていた。

深い溜息をついて、店舗の脇の細道を通って住居用入口へ向かったその時。

この世界のすべての時が止まったように感じた。


 いるはずのない人影が、そこにあった。


 階段の中ほどに立っていたのは、素導館(そどうかん)にいるはずのあの人だった。

「……っ、どうして……?」

彼はこちらに向き直ると、狼狽える私の質問を無視して尋ねた。

「その服はどうしたんだ?」

淡々と質問されただけ。だけど、その声には隠しきれない苦々しさが混じっていた。


 私の質問は無視されたのだから無視し返せばいいのに。私はいつも彼に抵抗できない。

彼から目を逸らした私は小さな声で答えた。

「ヒューさんが……」

「ヒューか、そうだろうと思った」

言いようのない感情が混じり合った顔をした彼が階段をゆっくりと降りてきた。彼が一歩近づくごとに私の心臓が少しずつ締め上げられていくようだった。


――なぜなの?


ヒューさんが私に服を贈ることが。

私が感謝してそれを受け取ることが。

なぜ、まるでいけないことのように、あなたに問われなくてはならないの。


 彼はもう私の眼の前にまで来ていた。

「君はそれがどういう意味か分かっているのか?」

子どもを優しく諭すかのように彼は少し微笑みながら言った。その口元に反して、私を見つめる彼の瞳は強い光を帯びていた。まるで冷たい炎のようだ、と私は思った。

なぜ彼がそんな表情を浮かべているのか分からなくて私は胸騒ぎを感じた。


「ヒューは男として君を見ているんだよ。態度を見れば明らかだろう? 君は気づかないふりをしているけれど」


――君は気づかないふりをしているけれど。


 思わず息が止まる。

その言葉は私がずっと直視しないようにしてきた自身の狡猾さを、冷酷なほど生々しく突きつけるものだった。


あなたこそいつも澄ましているくせに。

高みの位置から『色恋沙汰なんて興味ない、自分には関係ない』って顔をして。

人を好きになるのが、どういうことかも分かってないのに。

何を見てもその人を思い出して焦がれる気持ちや、身を切られるような痛みに似た感覚を私に与えておいて。


「何を……言っているんですか」

私はやっとの思いで、喉の奥から声を絞り出した。

「勝手に決めつけないで……」



 彼女のかぼそい声は闇に溶けて消えていった。

「違わないさ。俺だって、あいつと同じだ」

追い詰めるような言葉とは不釣り合いな柔らかい声音で、俺は彼女の耳に囁いた。


分かっている。

止めなくてはいけないことも。こんな事を口にしてはならないことも。

それにも関わらず、俺の制止を振り切って自らの口は感情のまま雄弁に語り続ける。

無視されたくないんだ。もう蔑ろにされたくない。

たとえ君に応えてもらえないとしても、この感情を存在しなかったことにされたくない。


「あいつに何を言われた? 好きだとか、愛してるとか?」

「……っ、違います……!」


醜い嫉妬だ。反吐が出る。ヒューのほうがよっぽど誠実だ。

俺が彼女に伝えられずにいる胸の内も、あいつなら心を込めて優しく語るだろう。

彼女の心を動かすのはきっと、そういう素直な愛情なんだろう。


 リリーが今にも泣き出しそうな悲痛な顔をしている。

「やめてください……そんなふうに言わないで」


――駄目だ。もうこれ以上言ってはいけない。



 やめて。


 そう言いたいのに、口にしたら涙と一緒にすべてが崩れてしまいそう。

私とヒューさんの関係も、私とレイフォードさんの関係も、ヒューさんとレイフォードさんの友情さえも。

握りしめた手のひらに爪が深く食い込んだ。


「……私にだって、分かります。レイフォードさんが何を言いたいのかくらい」

溢れ出そうになる感情を必死に抑えて、私は唇を噛み締めた。

「でもヒューさんの願いを、私の思いを……そんな言葉で片付けないで」


 ヒューさんの気持ちは恋と呼ぶにはあまりに優しすぎて、相手を思いやる心で全てを包み込む。その思いに、私は切なさのあまり押しつぶされてしまいそうなのに。

単純な欲なんかじゃない。それは、ひたむきに請われた真摯な願い。


分かったような口ぶりで嘲笑わないで。

私の狡さを正論で指摘しないで。

自分はどうなの?

彼より、私より、ずっと酷いじゃないの。

人の心を気まぐれに傷つけて。


 喉元に込み上げた思いが私の目から涙となってこぼれ落ちた。

頬を伝う涙を拭おうともしない私を見て彼は動揺したようだった。

「すまない……本当に。俺は、君になんてことを……」

吐き出した言葉を取り返したがっているかのように、彼は口元を手で押さえた。


――なぜあなたが、癒えない生傷を耐えているみたいな顔をするの。


 声もたてずに泣く私の背に彼がためらいながら手を添えた。

「君は、ヒューのことが……好き、なのか?」

かすれた声で呟かれたその問いに私は直接答えなかった。


「レイフォードさんにとって、マルガレーテさんやお祖父様への想いは何ですか?」

何かを悟ったように彼の表情がこわばる。

「……それは……」

「同じです。私のヒューさんへの想いも、それと同じなんです」

「……っ……」


 彼は見ているこちらが切なくなる表情で、背中に回していた手に力を込めて私を抱き寄せた。

張り詰めた緊張がほどけたように細く長い吐息が私の耳をくすぐった。

「ああ、そうだったのか……」

先ほどまでの皮肉めいた響きは跡形もなく消え失せていた。


「それでも俺は……」

言葉を探るような沈黙の後、彼は絞り出すように言った。

「君に、俺を選んでほしいんだ」


 それは、まるで懇願するような響きだった。

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