第53話 私が泣いた夜、そばにいたのは
ヒューさんと一緒にカフェでお茶をしていたとき、突然彼が思い出したように言った。
「リリー、今流行ってる劇のチケットを貰ったんだけど一緒に観に行かない?」
「え? 劇ですか?」
「そう、同僚が行けなくなったんだって。明日の夜だからちょっと急なんだけどさ」
僅かに引っかかったのは「劇」という言葉。
――もしかして、あの劇場かな。
正直、あの場所へもう一度行くのは気が進まなかった。でも彼はいつも私の行きたい所に文句も言わずに付き合ってくれた。私は少しでも彼の優しさに報いたかった。
「楽しそう、行ってみたいです」私は笑顔で答えた。
約束の夜、私はヒューさんに貰ったワンピースを着て、髪を結い上げていた。一回試着してみたけど普段着にはおしゃれすぎて特別な時に着ようと思っていたのだ。
桜色のドレスは絶対に着たくなかった。
だんだん乗り越えられていると思ったけど、あれだけは見るのも駄目だった。あの人をあまりに鮮烈に思い出させる。胸元を鋭い爪で掻きむしられたように、あまりに生々しい傷をつけられるから。
メイクした後、最後の仕上げにお祭りでヒューさんがくれた白い貝殻の花の髪飾りをつけた。今の私は全部ヒューさんからもらったもので構成されていた。それは身につけるものだけでなく私自身もそうだった。
(ヒューさんがいなかったら、私はどうなっていただろう)
再び立ち上がる力と自信をくれたのは彼だ。私はそんな彼にほんの少しでも報えるだろうか。
「君が笑っててくれたら、それでいいよ」
彼はそう言いそうだ。本当に無欲な人。彼に何かしてあげられたらいいのに。
遠回りになるというのに、彼はわざわざ私のことを迎えに来ると言って譲らなかった。ヒューさんは私をドラマのヒロインみたいな気分にさせてくれる。まさに女の子の理想を形にしたみたいな男性だ。
気取った様子もなく自然に魅せる仕草も、何でもない風を装った思いやりのある振る舞いも、私にとっては得がたい宝物のように思える。蜂蜜色の癖のある髪や澄み切った空色の瞳だって柔らかくて温かい声だって全部本当にかっこいいのに、自信ありげな態度と裏腹に彼は自分の真価に気がついてないみたいだ。
でも、この世界では具体的に見た目を褒めたら「異性として好き」という意味になってしまう。
――彼が私を勇気づけてくれたように、私も彼を勇気づけることができたらいいのに。
使用人が扉をノックしヒューさんの到着を告げた。私は襟元に柔らかなファーをあしらった毛織のケープを羽織ると、住居用の出入り口から夜の表通りへと回った。彼はあの人の実家に遠慮してか、いつもお店のショーウィンドウの前で待っているのだった。
街灯の下でショーウィンドウを眺める広い背中と、ひとつに結ばれた犬の尻尾のような髪が見えた。彼だ。私は少し歩みを早めて声をかけた。
「ヒューさん! おまたせしました」
振り返った彼は私の姿をまじまじと見て、ぽつりと言った。
「やば……めちゃくちゃ可愛い」
流れるような褒め言葉ではなくて、思わず本音が漏れたというような様子だった。彼は焦げ茶のコートを着ていた。恵まれた長身と肩幅でコートを綺麗に着こなす姿を見て、私は微笑んだ。
「ヒューさんも、めちゃくちゃかっこいいですよ」
私たちは歩いて劇場に向かった。前回劇場に行ったときは、この世界の短い夏が始まる前だった。もう秋も過ぎて冬に近づいていて、私は時の流れを感じた。ノースリーブでもボックス席は暑いくらいだったのに、今はケープを羽織って夜道を歩いている。
街灯の明かりが揺れる石畳の街はとても綺麗だ。りんごの木が一瞬脳裏に浮かび、私は微かに眉根を寄せた。
(旧都に来てからは思い出さなかったのに)
意識を逸らそうと私はヒューさんに質問した。
「今夜の劇はどんな話なんですか?」
「なんかラブストーリーで感涙必至らしいよ。リリーは涙もろい?」
「うーん、感動して泣くことはあまりないかも。あと、人前だと恥ずかしくて泣けないというか」
「分かる。俺ももうめっきり泣いてないな」
「ヒューさんが泣いたら、よっぽどのことですね」
「そうだね。ねえ、今夜の劇見て泣いた方がメシ奢るのはどう?」
「ふふ、いいですよ」
そんなことを話している内に劇場についた。前回入った正面玄関へ向かおうとした私をヒューさんは腕を引いて止めた。
「入口はこっちだよ。そっちは貴族とかのボックス席専用なんだ」
「あ、入口が分かれてるんですか?」
「貴族と平民が混じれるわけないよ」
あの人は貴族じゃないけど上流階級なのは間違いない。私はこの世界で異分子なだけじゃなく、身の丈に合わない場所に無理をして馴染もうとしていたみたいだ。
建物横の入口から中に入ると、そこはボックス席の下らしく天井の低い通路だった。ヒューさんはその長身を窮屈そうに折り曲げて進むと、舞台に近い一階の席にたどり着いた。飾り気のない簡素なベンチ席に座った沢山の観客が賑やかに話しながら劇が始まるのを待っていた。狭い客席で私たちは寄り添うように腰掛けた。彼は私のケープと自身のコートを膝の上に乗せて預かってくれた。
周りをきょろきょろと見回したとき、前回座っていたボックス席が視界に入ってしまった。
「どうかした?」
「いえ、広い劇場だなと思って」
尋ねるヒューさんに私は微笑んで返した。
――私、上手く笑えてたかな。
劇が始まる。質素だが舞台に距離の近いこの席は、社交目的ではなく本来の劇目当ての観客が多く、皆が熱心に見入っていた。ヒューさんの言う通り、劇はラブストーリーだった。ただし、それは決して報われることのない悲恋の物語だった。
***
光の国の騎士と、闇の国の乙女。二国の間では争いが絶えなかった。
二人はお互いの正体を知らずに出会い、言葉を交わす内に、愛し合うようになる。
しかし、敵対する二国の争いは一層激しさを増し、騎士と乙女は離れ離れになってしまう。
再び出会ったとき、騎士は闇の国に捕らえられていた。乙女は家族や仲間を裏切って彼を助ける。
別れの間際、彼らは二度と会えないことを分かっていながら一度だけ抱き合い、それぞれのいるべき場所へ帰っていく――。
***
ストーリー自体はどこかで見たことのあるような、ありがちなものだった。こともあろうに光と闇だなんて、嫌でもあの二人が思い浮かんでしまう。分かりやすいテーマにするための対極の二つなのだろう。頭では理解できるけど、劇の脚本家が恨めしかった。せめて昼と夜にしてくれたら。
闇の乙女が心の内を歌い上げる。
『あなたがいない世界は、何もかも空虚で意味を持たない。
再びあなたの姿を一目でも見られるなら、この命さえも惜しくはないのに。
たった一度の抱擁を胸に、これから私は生きていく。
私がもはや抜け殻だなんて、誰も気が付かないでしょう。
それでも、私はあなたに巡り合わなければよかったなんて、思えないの』
そんな切ない台詞を言わないで。
自分に向かって言われているかのように心の奥まで突き刺さる。まるで細身の剣があらゆる臓器をすり抜けて一気に心臓を刺し貫いたよう。
――胸が苦しい。傷口をえぐられている気分。
瞬きもしない私の頬に一筋の涙が流れる。
闇の乙女はまだいい、光の騎士の愛を確かに感じているんだから。私にはその愛さえもなかった。一時でも愛情の欠片を見せたのは間違いだったとでもいうかのように、追い払われた。
――劇が悲恋でよかった。
泣いていても、誰にも訝しまれないから。
*
今夜の劇は悲恋だったのか。内心、同僚に毒づく。なにが「感涙間違いなしのラブストーリー」だ。しかも光の騎士だなんて。リリーはレイを連想するかな。俺も”光”なんだけど。
目の端で傍らの彼女の様子を伺う。その頬に涙の跡を見つけて、驚く。
泣くには早い、まだ劇の中盤だ。クライマックスじゃないのに。
そして気がついた。
――そうか、彼女が泣いているのは劇のせいじゃないのか。
あいつを想って泣いているのか。
楽しそうにしているけど、リリーの様子にはどこかそぞろなところがあった。
君を見ている俺に気がついてほしい。
その眼差しを、その想いを、俺に向けてくれたらいいのに。
今まであいつに何も勝てなかった。それでも全く気にならなかった。むしろ友人として誇らしくもあった。でも君に関することでは、負けたくないと思ってしまう。
もし俺のほうが先に君に出会っていたら、どうなっていたかな。
ひょっとしたら恋人同士としてこの席に座っている未来もあったのかもしれない。そんな馬鹿げた考えがよぎる。
――君を見ている俺の存在に、君は気づいているのかな。




