第51話 少しずつ、前へ
旧都についてすぐヒューさんが私に会いに来てくれた。約束通りどこへでも連れてってあげると、彼は微笑んで言った。私は泣き腫らした目をしていたはずだけど彼は理由を聞かないでいてくれた。
彼はしょっちゅう私のところへ来てくれた。朝から一日中連れ出してくれることもあったし、仕事で抜けられないときは彼の職場の近くのカフェでお昼だけ一緒に食べたり、仕事の終わった夕方から出かけることさえあった。
忙しいはずなのに疲れているでしょうと気遣うと、俺も楽しんでるからと優しく笑った。
彼と色んな場所を巡った。真っ先に行ったのは有名な植物園だった。彼は私の希望を覚えていてくれた。とても広くて、花だけでなくガラス張りの大きな温室には珍しい異国の木もあった。思わず桜を探したけど、やっぱりなかった。大きな博物館や図書館、二人で買い物にも行った。街で話題のお菓子を食べるために一緒に列に並んだり、そんな他愛もないことが新鮮で楽しかった。源素庁の事務の仕事を見学するついでに彼の職場も案内してくれた。
彼のお陰で私の目の腫れはすぐに引いた。夜に独りで泣くこともなくなり、表情に少しずつ明るさが戻っていった。彼は何の好意も匂わせなかったし特別な感情の片鱗さえ示さなかった。私は安心して全てを任せて、ただ彼の優しさを享受していた。
私は空いた時間に図書館で借りた本を読んだり、あの人のお母さんに分けてもらった布とリボンで手芸をしたりして過ごしていた。
まるで傷ついた心のリハビリをしているようだった。無理せず少しずつ慣らして回復していく。あの人のことは思い出さないようにしていた。ここにいるとだいぶ楽だった。目でその姿を追ってしまうこともないし、声が聞こえないかと思わず耳をそばだてることもない。
だって、ここにあの人はいない。あの田舎の素導館にいるのだから。
あの人のお母さんも、私に事情を聞くことはなかった。デザイン画や既存のドレスのイラストを描いて、私は滞在させてもらっている恩に報おうとした。そんなに簡単にヒット作は連発できなかったが、プロのデザイナーだって何百と考えて形になるのは片手で数えるほどなのだからと彼女は励ましてくれた。誰もが優しくて、私を傷つけまいとしてくれているようだった。
ある日、ヒューさんが私に尋ねた。
「リリーって何色好きだっけ? 好きな柄とかある?」
「えーと、藤色……とか薄いピンクとか水色みたいなパステルカラーですかね。柄は、ストライプとかチェックとか、小花柄とか」
「ああ、そうだよね、リリーは花が好きだよね」
「はい。好きです」
あれ、待って。また何か買ってくれる流れ? それはいけない。
私は彼に「物はもう沢山もらっているからプレゼントは禁止です」と両腕でバツを作って、念を押した。
彼はそれには答えず、どこか含みを持たせたいたずらっぽい表情で視線をふいと上へ逃がすのだった。
結局、彼は約束を守らなかった。
ある日何の前触れもなく、映画かドラマで見るような大きなプレゼントの箱を持ったヒューさんが訪れた。長身でかっこいい彼が嫌味なくやってのける主人公級の振る舞いに、私の胸はきゅっと締め付けられた。
彼は無言で微笑みながら、手のひらで箱を示して私に開けるよう促した。
「プレゼントは禁止って言ったのに。こんなに大きな箱に、一体何が入ってるんですか?」
飾りのリボンを解きながら唇を尖らせ、抗議の意を込めて彼を上目遣いに軽く睨んでみせた。でも弾む気持ちは隠しきれなかった。
箱を開けてふんわりとした薄葉紙をかき分けると、スカートに小花を象った薄い生地があしらわれた、水色の可愛らしいワンピースがその姿を現した。背中がサイズを調整できる編み上げのデザインになっていて、あの人のお母さんが形にしてくれた私のアイディアがすでにこの街で流行していることにも驚いた。
「すごく、可愛い……」
彼が選んでくれたワンピースは本当に可愛くて、彼の目に私がこのワンピースにふさわしい娘として映っているのなら素直に嬉しかった。
肩に服を当てスカートについている小花を一つ一つ触っている私を、彼は椅子に腰掛けてテーブルに片肘をついて満足気に眺めていた。
「ヒューさん、本当に……ありがとうございます。でも、高かったんじゃないですか?」
「これでもいっぱしに働いてますから。ご心配には及ばないよ。独身男の給料なんて、使い道に困るくらいだからね」
「私も働き始めたら、ヒューさんに何か買ってあげますね」
「出世払いか。期待してるよ」彼は目元を和ませて柔らかく笑った。
(働き始めたら、か)
あの人のお母さんの店か、ヒューさんのいる源素庁の事務か。デザインや服は好きだし気が楽なのは店の方だけど、あの人との接点を無くすなら源素庁の方がいい。知らない場所だけどヒューさんもいるから心強い。
「そういえば、源素庁って宿舎とかあるんですか? 私が源素庁で働き出したら、宿舎とか入れるのかな?」
私はドレスを丁寧に畳んで箱にしまいながら尋ねた。
「俺は下宿してるけど、宿舎もあるよ。女性寮もあるからリリーはそこがいいんじゃない?」
「慣れるまでは寮の方がいいですよね。ヒューさんは自分で家事してるんですか? 掃除とか洗濯とか」
「一応、簡単なことは。洗濯は洗濯屋がすぐ近くにあるから」
「へえ、便利ですね。私もそうしようかな」
少しずつ新しい暮らしを想像することができるようになってきた。大変かもしれないけど一人暮らしなんて、それはそれで楽しそう。小さな部屋でも構わない。自分の好きなものだけで埋めちゃおう。そこは私だけの安全で安心できる小さな我が家になるだろう。
再び旧都に来た直後は不安でいっぱいだったのに、今の私は近い将来に希望を抱けるようになっていた。それは紛れもなくヒューさんのおかげだった。
「ヒューさん……本当にありがとう」
心の底から湧き上がる感謝を込めて、私は言った。
「気に入ってくれたなら、よかった」
彼は包み込むような穏やかさで私の言葉を受け止めた。
(違うよ。もちろんワンピースもだけど、私を支えてくれたこと)
そう口にしかけたけど、彼はそれも全部分かった上でそう言ってくれたんだろう。
私は訂正する代わりに彼に微笑みかけた。




