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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第四章 再び旧都へ

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第50話 見送られない別れ

 彼とまともに顔を合わせることもなく出発のときを迎えた。

何度も、彼が取り消さないかと思った。やっぱり行かないでほしい、そんな風に言い出しはしないかと。

彼はいよいよ私が馬車に乗って出発するという時になっても見送りに出てこなかった。その事実は私の心を完膚なきまでに叩きのめした。マルガレーテさんのことは丁重に最後まで見送っていたのに。


――駄目、比較しちゃ。私は私。

比較したら惨めになるだけ。

 

 私は胸に手を当てて深く息を吸った。大丈夫。私を認めてくれる人や好いてくれる人もいる。私の価値がすべて失われたわけじゃない。

彼がいなくても私は生きていける。いや、生きていかなくちゃ。


これは私の矜持だ。

傷ついたそぶりなんて絶対に見せない。

私は自分の足で立つって決めたんだから。

あなたがそのつもりなら、私は気が付かないふりをして平気な顔をして付き合ってあげる。


もう、あなたに振り回されたりなんてしない。

私はここに帰ってこられないのかも。

違う。帰ってこられない、なんて考えは駄目。

帰ってこないつもりでいよう。

私は、もう、ここには帰ってこない。

これは、私の意思なんだ。


――それでも、せめて最後くらい見送って欲しかった。


 私は睨みつけるように庭を見ていた。思い直した彼が出てくるんじゃないかなんて、そんな馬鹿げた期待をして未練がましく玄関の扉を見たりするもんか。

あの庭がお気に入りの場所だったから、少し惜しいだけ。

あの美しい聖堂のステンドグラスが見られなくなるのが、残念なだけ。

彼なんて関係ない。


 彼はいつも通り書斎にいるのだろう。もしかしたら、のっぴきならない急用ができて私を見送りたかったけど来られないだけかも。気持ちはあるのに事情があって来られないのかも。


 馬車が通り過ぎる時、つい書斎の窓を見てしまった。窓のカーテン越しに人影が見えた。途端に零れそうになる涙を私は上を向いてこらえた。


――確認しなければよかった。


彼はいる。けれど、来ない。

自分で確定事項にしてしまうなんて。

分からないままにしておけば、こんなに傷つくことはなかったのに。

なのに、そうせずにはいられなかった。


 私はもう涙を堪えられなかった。ただ、それが頬を伝って流れ落ちるままにしていた。


――なぜなの。


 彼の気持ちが分からない。

今一体どんな気持ちでいるの。なぜこんな冷たい仕打ちができるの。


りんごの木にランタンを沢山灯したり、

夜更けに息もできないくらい強く抱きしめたり。

観劇の夜に私を本当に綺麗だって言ったり、

聖堂で私に生きる勇気をくれたり。

なんであんなことしたの。

いっそ、そんなことしないでくれたらよかったのに。

そうしたら、今こんなにも苦しい思いをしないで済んだのに。


 彼は誠実な人だ。真っ直ぐな人だ。そのことは一片たりとも疑っていない。

なのに分からない。私にだけ、なぜこんなに酷いことができるのか。何かの間違いとしか思えなかった。



 リリーが発つ。行ってしまう。

意識しないようにしても時計を見てしまう。


 旧都へ行くことを話したとき、リリーは多少ショックを受けたようだった。選択肢を提示しているのだと説明したら落ち着いて受け止めていた。


 彼女は大丈夫だろう。しっかりしているし、旧都には母もヒューもいる。

淋しく思う暇もないくらい連れ出してやってくれと、ヒューに手紙で頼んでおいた。

あいつなら上手くやるだろう。上手くやりすぎるかもしれない。

彼女は素導館(ここ)のことなど、懐かしく思い出すことさえないかもしれない。


 馬車の轍の音がした。庭の方へ近づいて、そして遠ざかっていく。荒れ狂う自らの感情を抱えきれずに、頭を垂れた。瞼を強く閉じる。


――絶対に見ては駄目だ。耳も閉じられたら良いのに。


 わずかでも見てしまったら、血を吐く思いでこれまで耐えてきたことが一瞬にして無に帰するのは分かりきってる。

自ら言い出したことだ。なのに、口にしたら全てなかったことにしたくて仕方がなかった。リリーに選ばせなくては。自分に有利なように囲い込んで、何も知らせずに閉じ込めるのは彼女の不安につけ込むことだ。


ああ、もう、それでもよかったのに。永遠にそうできたら。

しかし、それではいつか彼女は気づくだろう。

ずっとこの世界で過ごしていたら聡い彼女のことだ、遅かれ早かれ他の選択肢があることに気づいてしまう。


 彼女はいずれ選ばなくてはならない。俺か、ヒューか、まだ現れぬ第三の男か。

ならばせめて、いつ決めるかだけは俺にも関与させてくれ。ずっと待つなんて耐えられない。君が俺を選ばないかもしれない恐怖を抱えてその日がいつ来るか分からないまま、抱きしめることもできずにただ側に居続けるなんて。

それならばと、突きつけられた短刀にいっそ早くひと思いに刺してくれと思った。


なのに、これほどまでに苦しいなんて。

苦痛から逃れようと、終わりを早めたつもりでいたのに。

逃れようとすればするほど、さらに深く暗い奈落へ引きずり込まれるなんて。


 何度も後悔した。何度も撤回しようと思った。謝って、本当の気持ちを伝えて抱きしめたら、リリーは残ってくれたかもしれない。しかし、それは結果を延ばすだけだ。これは必要な過程なんだ。彼女は外の世界を見る必要がある。そうしなければ、選べないのだから。

選択肢を提示するだけでこんなに心も頭も乱されてどうする。はたして俺は、彼女が答えを出すまでもつだろうか。彼女が他の答えを出したら、俺は俺でいられるだろうか。


崩壊するかもしれないな。

もういっそ、気が触れてしまえば楽なのに。

もはや精神的な拷問だ。

自ら仕向けたというのに。


 きっと、遅かれ早かれこうなったんだ。どうやっても避けられない。

ただ切実に願うのは、彼女が選んでくれること。


――どうか、俺を選んでほしい。

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