第48話 『私の守るべきもの』
マルガレーテさんが帰っても、レイフォードさんと私の関係は元に戻らなかった。いや、これが本来の関係だったのかもしれない。
マルガレーテさんはここに住んでいたし、周囲は彼らが結婚することを期待していた。彼女もそのつもりだった。彼がどう考えているのかは分からない。
ただ、彼女の言った『彼は愛だけで選ばない』という言葉だけは妙に納得できた。
久しぶりに二人きりの夕食。ずっと待ちわびていたくらいなのにレイフォードさんはほとんど無反応で、私の淡い期待はあっけなく打ち砕かれた。少しでも明るい雰囲気にしようと思った私はヒューさんのことを話題にした。
「この間、レイフォードさんとヒューさんが書斎で寝ていたとき、ヒューさんってば私のことをミケーレさんと間違えたみたいで」
「ミケーレ?」彼が顔を上げて、この日初めてまともに私を見た。
やっと反応してもらえた喜びで私は微笑みながら言った。
「皆の前でからかったら恥ずかしいかなと思って、言わなかったんですけど。あ、ミカーラ、だったかも」
そこまで言って、突然レイフォードさんの表情が固まったことに気がついた。
――私、変なこと言った?
浮かれたとは言え、勝手にヒューさんの恋人かもしれない人の名前を勝手に出してしまった。デリカシーなさすぎた。真面目なレイフォードさんには、親友のプライバシーに土足で踏み込んだように聞こえて腹立たしかったのかもしれない。失言したんだ、と私は確信した。
「『ミ・カーレ』だ」
彼は食事の手を止め、低い声で言った。
「ミカーレさん?」
「『ミ・カーレ』は特定の個人の名前じゃない。古語で『私の守るべきもの』という意味で、恋人や配偶者を呼ぶときの呼称だ」
――恋人や配偶者……まるで「ハニー」という甘い呼びかけ。
私はなんてひどい勘違いをしていたのだろうか。
「そうなんですか……あ、やっぱり寝ぼけて、私を誰かと間違えたんでしょうね」
「……間違いだとは思わないが」
「いや、そ、そうですよ」
ぎこちなく答える私にレイフォードさんは冷たい視線を向けていた。
本当に知らなかったのに。わざと言ったみたいになってしまった。ただヒューさんに彼女がいると思って安堵しただけだったのに。ちょっと冷やかすような、ついそんな悪ノリをしたからバチが当たったんだ。
私の浅はかな発言以来、彼が向ける私への視線は冷え切っていた。それに気が付いて私が一生懸命になるほど事態は悪化していった。まるで、もがけばもがくほど絡まる網にかかって身動きが取れなくなっていくようだった。
ある日、レイフォードさんが私の土のモチーフの髪飾りに気がついて尋ねた。
「それは祭りで買ったのか?」
「はい。レイフォードさんのお母さんから貰ったお金で、初めて買い物しました」
「そうか。ヒューに買ってもらったのかと思った」
「……いえ、これは、本当に自分で買いました」
冷めた目が、返しの付いた矢のように心に刺さって抜けない。
何を言っても、レイフォードさんは私をヒューさんを弄ぶ悪者として見ているみたいだった。
そんなつもりはなかったのに。私は思わせぶりなことなんてしてない。変な雰囲気にならないように気をつけていたつもりだった。
でも肝心なのは相手がそれをどう思うか、だ。
レイフォードさんのお母さんが言っていた。
『あなたがそう思っていても、相手方がどう思うか、なのよ』と。
全く違う場面で違う意図で言われた言葉だけど、不意にそれが思い出されては私の心を掻き乱した。
彼は私から聖堂の管理を取り上げることはなかったけれど、夕刻に一緒にランタンを消すことはなくなった。夜に彼が館を出る気配と聖堂に小さな明かりが灯る様子から察するに、私と鉢合わせないように時間をずらして戸締まりやランタンの確認をしているようだった。
そこまで露骨に避けられると、さすがに私もなけなしのプライドが傷つけられた。
彼は信じてくれない。私のこれまでの様子を見ていたら分かってくれてもいいはずなのに。弄ぶなんて、私はそんな器用なタイプじゃない。
しかし、不用意な一言が人を傷つけることも確かだった。そして悪意がなければ罪が消えるわけではないことも。その罪がどのくらいで許されるのか、私には見当もつかなかった。
髪飾りだって自分で初めて稼いだお金で買ったもので、私にとって記念すべきことなのに彼はその点には全く気を払っていないみたいだった。土の源素を選んで一歳年を重ねたことにも大して興味を持っているようには見えなかった。
ヒューさんはおめでとうと言ってくれた。プレゼントまでくれたのに。
ヒューさんには、気持ちも物も与えてもらってばかりだ。
レイフォードさんは私から奪うばかり。
思わず追ってしまう視線も、振り回される気持ちも、頭の中の思考まで。
でも彼が奪ってるわけじゃない。私が勝手に奪われてるだけ。
信じられないほど浮き足立つような思いも、ふさぎ込んでしまうような絶望も、彼からしか味わえなかった。なんでこんなに極端なんだろう。振り回されすぎて、もう疲れちゃった。私の気持ちは彼次第。
『レイの望みが私の望みよ』
そう言ったマルガレーテさんのことを責められない。私の方がよっぽど彼の一挙手一投足に囚われてる。
以前示してくれた私への好意らしきものは、ちょっとした気まぐれだったのだろうか。急に甘いくらい優しくなったり、冷ややかに観察するような目になったり。
彼のマルガレーテさんへの想いは……慈愛と優しさ。熱情は見えたことがないけれど、2人きりのときは違うのかもしれない。私のときにそうだったように。
抗いがたいほどの甘さを伴う彼の優しさは、誰も知らないし見ていない。言ったって、誰も信じやしないだろう。そのときは、私だけに見せてくれる姿なんだと嬉しく思ってた。今は、誰も証人になってくれないのが虚しかった。
何もかも私の独りよがりだったみたい。
切ないほどのあの思い。彼も同じように感じていると思ったのに。
何度も彼と心が共鳴するような瞬間が、確かにあったはずなのに。
――今は確かなものなど、どこにもないように思えた。
*
秋も深まり、だんだんと日が短くなっていた。レイフォードは書斎で手紙を書いていた。
最近、リリーは表情が硬くなっている。以前は自分を見ると嬉しそうに微笑んでいたのに。もう今はそんな姿は跡形もなくなっていた。自分が頑ななのかもしれない。
俺が肌身離さず持っていた手紙は、ヒューにも手渡されていた。
『ミ・カーレ』と呼んだヒューのことを笑顔で話すリリーの姿は、もし俺が同じ事をしたら同様に一笑に付されるのだろうと思うと堪らなかった。彼女は恐らくその呼称を知らなかったのだし、他の者がしたことだったら気にも留めないだろう。あたかも心が踏みにじられたように感じるのは、それがリリーだからだ。
手紙を貰って抱きしめた時、彼女は言っていた。
『こんなことで良ければいつでも』
彼女にとっては、「こんなこと」だったのか? 隠そうとしても溢れてしまうほどの、俺の切実な想いは彼女にとってそんなに軽いものなのか?
俺やヒューのことを彼女がどう思っているのか測りかねていた。彼女にとってはどちらも同じなのか?
――そんなこと、耐えられない。
あまりの辛さに距離を取ったが、生き地獄は変わらなかった。彼女は何一つ決定的なことを言わない。思わせぶりな態度だけだ。恐らく他意はないのだろう。しかし無意識というのは、かえってたちが悪いものだ。
――もう限界だ。はっきりさせよう。
ここ最近ずっと考えていたことを行動に移す時がきたようだ。
手紙を書き終えるとレイフォードは天井を仰いで目を閉じた。




