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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第三章 源素と祭り

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第44話 眠れる彼と触れられない私

 お祭りの翌日の朝食になってもレイフォードさんに会えなかった。マルガレーテさんに聞いてみると、「私は先に帰ってきたから分からないけれど、相当疲れていたからまだ寝ているんだと思うわ」と言っていた。


 お祭りが終わっても会えないなんて。お昼には会えるかな。それに、確か午後に素視(そし)が一件入っていたはず。大丈夫だろうか。レイフォードさんがお昼になっても一階へ降りてこなかったら、ヒルダかトッドのどっちかに起こしてもらおう。


(具合が悪いんじゃないと、いいんだけど)

そんなことを考えながら庭をぶらぶらして書斎の窓を何気なく覗いてみた。

もう起きて書斎で仕事してる、なんてことはないよね。いつもの書き物机と肘掛け椅子に主の姿はなかった。


 よかった。ずっと仕事漬けだったんだもん。しっかり寝て休んでほしい。今日の午後の素視だって、せめてお祭りの翌々日にしたらどうですかって提案したのに、彼は「午後なら大丈夫だろう、一件だけだから」だなんて。本当にだらけることのない人だ。

(まあ、そういう所がすごくかっこいいんだけど)


 彼のことを考える度に、あの夜の腕の感触を意識的に思い出そうとしてしまう。

緩む頬を手で押さえて煩悩を振り払うように頭を振った私の視界に、窓越しに書斎の床に落ちている何かが見えた。

長椅子とテーブルの隙間から、床の上に力なく投げ出された男の人の靴。しかも靴だけじゃなくて、そこから伸びる脚も。


「……うそ」


え、待って。

もしかして、床に倒れてる……? レイフォードさん!?

疲れすぎて倒れたの!?


 私は慌てて、書斎のガラス戸を力任せに開けると中に飛び込んだ。その衝撃で揺れる薄手のカーテンの隙間から見えたのは、長椅子の上に仰向けに横たわっているレイフォードさんだった。


――息してる!?

(お願い、過労死なんてしないで。あんなに無理してたからだ!)

呼吸を確認しようと彼の顔の近くに駆けつけようとした瞬間、床に転がっている何かに思い切りつまづいた。

床に突っ伏しているヒューさんの脚だった。


「わっ! ヒューさんまで!?」

さっき私が庭から見たのは、ヒューさんの脚だったのだ。

(なんで二人とも倒れているの!?)

私はひとまず、レイフォードさんの胸元を確認した。ゆっくり規則的に上下している。顔の上に手のひらをかざすと、かすかな呼気が感じられた。

――よかった、生きてる……。


 床の上のヒューさんも寝ているだけのようだ。床の上で寝られるってすごい。前にレイフォードさんがヒューさんならどんな部屋でも大丈夫と言っていたことを思い出す。私はヒューさんを踏まないようにしながら床に膝をついて、レイフォードさんの寝顔を眺めた。


 疲れ切って眠る彼は、眠れる森の美女みたいだった。

まるで時が止まったみたい。物語では眠っている姫に見知らぬ王子がキスするんだっけ。よくもまあ、そんな大それたことができるな、とその度胸に感心する。私だったら、好きな人にだってそんなことできない。

(勝手に寝顔を見ているだけでも、罪悪感を覚えるくらいなのに)


 開け放されたシャツと男性らしさのある喉仏。

誰にも気が付かれていないのをいいことに、いけないと思いつつ私はじっと見てしまった。こんなところを見られたら、なんて言い訳すればいいの。

その時、彼のシャツの隙間から何か紙のようなものが見えた。


(もしかして、お祭りのカンペ……?)

完璧そうに見える彼もそんなことするんだ。

可愛く思えて思わず口角が上がってしまう。

お祭りの準備、本当に大変だったんだろうな。労ってあげたい。

何か好きなものを用意してあげられたらいいのに。

甘いものとか好きかな? こっそりリサーチしておけばよかった。


 そろそろお昼だ。彼を起こさなきゃ。でもギリギリまで寝かせてあげたい。決してこの綺麗な寝顔をずっと見ていたいという邪な気持ちだけじゃなくて。

(お祭りでの姿が嘘みたい。どっちが彼の本当の姿なの?)


 ふと、長椅子の背もたれに乱雑に掛けられた豪華な祭礼服に気がついた。帯や肩掛けも無造作に引っ掛けられている。それをなるべく皺がつかないように丁寧に畳んだ。胸が正面に来るように畳んだ服を手にして、ちょっと考える。そして、ためらいつつ自分の頬をそっと当ててみた。

――彼の鼓動を感じたあの瞬間を思い出したくて。


 でも上等な張りのある生地はあの時と肌触りが違っていたし、普段着られていないこの服から彼の香りはしなかった。私は畳んだ服や帯をテーブルに静かに置いて、その上に額飾りを乗せた。


(すぐそこに本人が寝ているというのに、何をしているんだろう)

眠っている彼はこんなに近くにいるのに、簡単に触れられない遠い存在に思えた。私は彼から時たま触れてくれるのを待つだけ。

こんなに美しくて気高い彼に自分がふさわしいとは、とても思えなかった。自分から触れる権利があるのだなんて、私はそこまで自惚れられなかった。


 もう本当に彼を起こさなきゃ。間に合わなくなっちゃう。それではきっと彼が困るだろう。再び長椅子で眠る彼の近くに膝をつくと、私は彼に声を掛けた。

「レイフォードさん……レイフォードさん」

旧都へ向かう馬車の膝枕事件を思い出す。

(あのときは起きないでと願ったっけ)


 深い眠りについているのだろう、彼は眉一つ動かさずに寝ている。触れていいのか躊躇する手で、私は優しく彼の肩を揺すった。

「レイフォードさん、そろそろ起きないと。今日の午後に素視が一件入ってますよ」

素視という言葉が彼の耳に入ったのだろう。彼はゆっくりと瞼を開けると、瞬きを何度か繰り返した。こんな綺麗な瞳に私が映っているなんて、なんだか信じられない。


「リリー……?」

「お疲れだと思うんですけど、素視があるから起こしたほうがいいかと思って」

「……ああ、そうか。そうだったな……」

「帰ってきたら、またゆっくり休んでください」

「うん……ありがとう……」


待って、『うん』って言った。無理、可愛すぎる。心臓を鷲掴みにされた気分。寝ぼけてるのかな。お願い、もう一生このままでいて。


 騒ぐ心とは裏腹に、私は落ち着いた声で彼に言った。

「頭がすっきりするように、ハーブティーを持ってきてもらいますね。今日の素視は村へ行くんでしたよね、馬を準備してもらいますね」

「頼む……」

「身支度だけは自分で部屋に行ってもらわないといけないから、頑張ってください」

「……分かった」

彼はゆっくりと身を起こすと、ぼんやりとした表情のまま髪をかきあげて、あくびをした。


 ここまで緩みきった彼の姿は見たことがなくて、私は口元が綻ぶのを止められなかった。こんな姿を見られるなんて家族みたい、そう思って恥ずかしくなる。

「……ヒューはなんで床で寝てるんだ」

「私も分かりません。後で起こしておきますね」

「放っておけば勝手に起きる」


 だんだんと普段の彼の口調に戻っていく。ちょっと残念な気持ちと安心する気持ちが入り混じる。彼は立ち上がると書斎を出て、自分の部屋へ向かった。

私は呼び鈴を鳴らすと、トッドにレイフォードさんの部屋へハーブティーを持っていって、馬丁に馬の準備を伝えるよう頼んだ。彼が床に転がるヒューさんを一瞥した気がしたが、わずかに眉を上げただけだった。


「さて、と。次はヒューさんか」

すやすやと床で眠る彼を、せめて長椅子に引っ張り上げなくては。

まず、うつ伏せの彼をひっくり返して仰向けにしたが、それだけでも結構な力仕事だった。

「っぐ……んぐぐ。ヒューさん、ちょっとは動いてぇ……」


 私は彼の背後から、投げ出された片腕を両腕でしっかりと抱え込んだ。必死に彼の上体を長椅子に引き上げようとしたのだが、突然、その重みがふっと掻き消えた。ヒューさんが自ら上体を起こしたのだった。

バランスを崩した私の肩に彼の腕が回され、思いがけないほどの至近距離で、薄目を開けた彼と目が合った。


 彼は微笑むと、私の耳元に口を寄せて何ごとかを囁いた。

そのまま彼が満足したように長椅子へ倒れ込んだので、肩に腕を回された私もまた彼の上に重なるように倒れた。

「もう……!」

彼の腕を肩から外して息をつく。髪がボサボサになってしまった。立ち上がって手ぐしで乱れた髪を直しながら、再び寝息を立てている彼を見下ろした。

ついさっき、ヒューさんが呟くように言った言葉を思い出そうとする。


――『ここにいたのか……』


 その後、何か女性っぽい名前を呼んでいた。ミケーレ、みたいな。

寝ぼけて私をその人と間違えたのかな?

彼には甘い瞳で囁きかけるミケーレさんという相手がいるんだ。

そりゃそうだよね。こんなにかっこよくて魅力的で優しい人なんだから、逆に彼女がいない方が不思議だ。


 私への優しさはただの親しみだったんだ。なのに、私は勝手に勘違いしそうになって。なんだ、そうなのか。私が彼をかっこいい自慢の兄のように思っているのと同じく、彼もきっと妹みたいに私のことを可愛がってくれてるんだろう。


 私はどこかホッとしたような拍子抜けしたような気分で、心地よさそうに眠る彼を見つめるのだった。

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