第37話 寓話『オオカミとウサギの旅』
ダイニングは久々に帰宅したマルガレーテさんを囲んで賑やかだった。私はその輪に入ることなく、そっと自室から本を持ち出すと庭に出た。東屋にある鋳物と木でできたベンチに腰掛けて、ヒューさんにもらった絵本を開く。
りんごの木の影がページに映り、心地よい風が時折、私の髪を揺らした。
子ども向けの動物たちを主人公にした短い寓話集の中には私が全く知らないものもあれば、なんとなく聞いた覚えがあるような話もあった。子どもへの教訓だったり、オチのないとりとめもない話だったり。
現実からかけ離れた絵本の世界は、私の心を傷つけない安心できる場所だった。
東屋の石の床を鳴らす靴音がして、はっと顔を上げる。
「ここにいたんだ」
穏やかな秋の午後の日差しを受けてヒューさんが立っていた。
春の日差しのような彼は落ち着いた秋の空気感も似合っていた。
「ヒューさん……」
透明人間の私を見つけることのできる人が、まだいたみたいだ。
「それ、読んでるの?」
彼は私の隣に腰掛けた。
「俺が好きな話載ってるかな。ちょっと見せて」
私が絵本を手渡すと、彼はページを繰って探しはじめた。耳にかけていた蜂蜜色の髪がうつむき加減の彼の頬にぱらりとかかった。
「ああ、これだ」
そう言って彼が差し出した物語は、こうだった。
***
『オオカミとウサギの旅』
オオカミとウサギが一緒に旅をしていた。
ウサギは身体が小さくて、歩みが遅れていた。
そこで、オオカミはウサギの荷物を持ってやった。
しばらくすると、疲れきったウサギの足が止まった。
オオカミは二人分の荷物をすでに運んでいたにもかかわらず、ウサギをおぶってやった。
ウサギが申し訳なさそうに言う。
「ありがとう。そうだ、あなたの荷物をわたしが持つよ。そしたら、少しは楽になるでしょう?」
おぶわれているウサギが荷物を持ったところで、オオカミの負担は変わるはずもない。
それにもかかわらず、オオカミはウサギに荷を持たせるとほほえんで言った。
「ありがとう。おかげでずいぶん楽になったよ」
***
リリアナが本から目を上げると、ヒューバートは独り言のように言った。
「なんでか分かんないけど、この話好きなんだよね」
「実際、オオカミが背負う重さは何ひとつ変わっていない。意味のないことだよね……でも、オオカミは嬉しかったと思う。一人で旅をするより、きっと遠くまで行けたはずなんだ」
オオカミが自分一人分の荷物を持って一人で旅をしたら、体力的にはずっと負担が少ない。
だが、オオカミはウサギのために頑張れたのだろう。
「人のために頑張れることってあるよね。自分一人で頑張り続けるのって、凄く……難しいから」
床の一点を見つめたまま、ぽつりと吐き出された低い声。春の日差しに急に雲がかかって影が差したかのよう。
――学生時代の苦労が蘇る。
俺の源素が光だと分かったときから、村ではまるで『神の子』扱いだった。
子どもの時からの期待。頑張ればできる、そう信じて。
十二の年に家を出た。村の皆が期待してる。
家族も誰もが俺の成功を疑っていなかった。
ずっと努力してきた。それでも辛くて。
想像を超える困難。こんな壁、超えられるのだろうか。
恐怖と疲労。
頑張るのに疲れた。
どこまで頑張ればいいんだ。
もう頑張れない。
――これは俺の望みだったのか?
帰ることのできる場所なんてない。
俺には逃げる場所なんてないのに。
期待されてとはいえ、自分で決めたんだから。何としてもやり遂げなければ。
田舎では天才ともてはやされた能力も、源素大学校では通用しない。
俺は共に支え合う誰かを求めていたのかもしれない。
俺だけの誰か。
――俺だけの「ウサギ」を。
「君は違う世界の人なんだろ」
ヒューバートがおもむろに言った。
リリアナは目を見開いて彼を見つめた。彼の空色の瞳には疑いも恐怖もなかった。それは質問ではなく、答えを確かめるかのようだった。目を伏せて彼女は答えた。
「……たぶん。でも、はっきりとは分からないんです」
「そっか」
何でもないかのように彼は受け入れた。
「君と俺は似てるかも。……俺も、帰る場所がないんだよね」
その言葉の空虚な響きに気づいて、リリアナは隣に座るヒューバートの横顔を見つめた。
「田舎じゃ、光の源素を持ってるだけで『神の子』扱いだからさ。十二で旧都に来て……もう田舎にも馴染めないんだよね。人生の半分とまではいかないけど、もうそのくらいになっちゃって」
肘を膝につき組んだ指先に視線を落とす。
「離れてた期間が長すぎて家族とは話も感覚も合わないし。かといって、旧都が故郷って感じでもない。俺の居場所はどこにもない、って感じることがあってさ」
リリアナはただ、じっと彼を見つめて話を聞いていた。
「君のほうが大変だと思うんだけど。帰る場所がないっていうか、どこにも属してない感じ……それが似てるかなって」
ヒューバートはリリアナに悪戯っぽく目を細めて笑った。
「だから、君のことが気になるのかもね」
リリアナの目がわずかに揺れた。
「……なんてね。お互い、自分の落ち着ける場所が見つかるといいよね」
リリアナは指を組んだ彼の両手に自身の片手を添えると、確かな力を込めて握った。
ヒューバートをまっすぐに見つめる、その目は真剣な光を帯びていた。
彼は身じろぎもせず、その瞳を見つめ返すのだった。
*
彼が選んだ話は、彼のいつもの陽気さとは対照的で、最初は意外に思った。でも大人の男性がそんな単純な陽気さだけで構成されているわけがない。彼の心の痛みや苦労は、私に話した内容よりもっと救いのない歳月が積み重ねられているのだろう。計り知れない彼の孤独に触れ、祈りに似た強い想いが私の胸の内に込み上げた。
――独りで重荷を背負ってきたのね。
彼の優しさは孤独の裏返しだった。
もう人のために頑張らなくていいの、と伝えてあげたい。
その手を握って力づけてあげたい。
そう思ったとき、意識するより先に手が動いていた。
何を言っても空虚になりそうで、私は口をつぐんでいた。
言葉を重ねる代わりに、それが確かに届くことを願って、瞳にすべてを託して彼を見つめた。
――どうか、こんなにも優しくて温かい彼がこれ以上傷つくことがありませんように。
*
「レイ?」
マルガレーテは突然窓の外を見つめ静止したレイフォードに声をかけた。
二人は書斎で、四日後の祭りで執り行われる儀式について打ち合わせをしていた。
レイフォードがマルガレーテに儀式の段取りを説明していたのだが、急に彼の話が途切れたので彼女は不思議に思って声をかけたのだった。
彼は庭にある東屋の方を見ていた。
「どうしたの?」
マルガレーテの座っている位置から東屋は見えなかった。レイフォードは瞬きを一つすると、何事もなかったかのように視線を戻した。
「何でもない」
そして、先ほどまでと変わらぬ口調で説明を続けるのだった。




