第33話 私と故郷を繋ぐ花
ここの夏は蒸し暑くない。木陰に入ると日差しが嘘のようにさわやかで心地よい。庭に屈み込んで雑草をせっせと抜いていたら、影が差して誰かが背後に立っているのに気がついた。すらりとしたこの影はレイフォードさんだ。
私は確信を持って微笑みながら振り向いた。
「雑草がいっぱい生えてしまって」
「あまり根を詰めるな。毎日ではないが通いの庭師がいる」
「私、もっと蒸し暑い所にいたんですよ。こんなの平気です」
彼は庭に沢山咲いている足元のピンクの小さい花を指さした。
「サクラはこういう感じなのか?」
星型の濃いピンクの小さな花がたくさんついた草花。
「え、桜? これが?」
「ああ、春に咲くんだったか」
「いえ、それはそうなんですけど。そうじゃなくて、桜は木ですよ」
彼は意表を突かれた様子だった。
「……木?」
「言ってませんでしたっけ」
「小さなピンク色の花が霞か雲のように沢山咲く、と聞いた」
「あ、そっか。花と聞くと、普通は草花を想像しちゃいますよね」
(なんだろう、桜に似ている木って)
ふと思い出して、彼の袖を引っ張って東屋の近くの木を指差す。
「ここに来た頃に目に留まったんですが、あそこの木にちょっと似てます」
「どれだ?」
二人で見に行く。
「ああ、林檎の木か」
「これ、りんごの木なんですか。あ、ほんとだ。小さな実がなってる。秋になったら食べられますか?」
「食べられないことはないが……収穫用の手入れをしていないから、実が小さくて硬いし大して甘くはない」
「残念」
「それなりに手入れをすれば食べられるようになると思う。今年はもう間に合わないが……庭師に頼んでみるか」
「いいんですか? 嬉しい」
(それは、来年も私がここにいる前提ってことだよね)
りんごそのものより、彼のその言葉に浮足立った私ははしゃいで言った。
「ジャムとかアップルパイもいいですね」
「気が早いな。そう言えば、祖母がジャムやコンポートを作っていた記憶がある」
「私、調べてみます。生では美味しくなくても、それなら今年作れるかも」
「これがサクラに似ているのか」と見上げる彼の顔や服に木の葉の影が映る。
「雰囲気は似ているんですけど、花の色は薄ピンクなんです。それに、この木は確か白い花で葉っぱもついてましたよね。桜は花だけ満開になるんです。葉っぱは散った後に出てくるんです」
「花だけ先に満開になる……そんな木があるのか」
「ここには、ないですか?」
「樹木にはあまり詳しくはないが、記憶にない。……見てみたいものだな、実物のサクラを」
「本当に綺麗ですよ。私もレイフォードさんに見せたいです」
でも将来、私が桜を見ているとしたら、それはユリに戻った時。
その時レイフォードさんは側に居ない。
――私たちは決して一緒に桜を見ることはない。
彼が側にいないくらいなら、もう桜を見られなくてもいいかもしれない、なんて思ってしまう。
複雑な内心を隠すように私は明るく言った。
「ライトアップすると夜も綺麗なんですよ」
「ライトアップ?」
「街灯に照らされているのも綺麗ですし、小さな明かりを沢山吊るしたり。あ、でもこっちの世界では危ないか。火しかないですもんね」
「そういえば、劇場でも言っていたな。シャンデリアを見て『本物の火なのか』って」
からかうように彼は笑った。
「だって、怖くて。今もランタンの火がちゃんと消えているか、何度も確認します」
気恥ずかしくなって言い訳するように私は言った。
*
夏も終わりに近づいた夜。窓辺に座って、開け放した窓から入る柔らかく肌を撫でる風に身を任せていた私は、扉をノックする音に気がついた。
「……はい」
少しだけ扉を開けておずおずと隙間から覗くと、レイフォードさんがいた。
「どうしました?」
今まで夜に訪ねてくることなんてなかったから、扉を開け放して何事かと尋ねる。
私の驚いた様子に少し気まずそうにレイフォードさんは答えた。
「ちょっと見せたいものがあるから、庭に来てくれないか。……上に何か羽織って」
言われて、夜着だったことに気がつく。シンプルな白いワンピースのようなものだが、上品な彼の目には慎みを欠いた姿に映ったかもしれない。
「は、はい」
私は急いで薄手の赤いマントを羽織った。
彼は先に行くことなく、扉の向こうで待ってくれていた。
彼はランタンを手に庭へ出ると、私の手を引いて東屋の方へ連れて行った。街灯もない夜の庭は足元が見えなくて、彼の灯りと手だけが頼りだった。
東屋の端からりんごの木が見えた時、私はその光景に息を呑んだ。
その樹には小さな明かりが沢山灯っていた。
近づいて見ると、沢山のランタンが枝に吊るされているのだった。ほのかに光る明かりは温かなオレンジ色を放ってかすかに揺れている。
――まるで光るコンフェをたくさん集めたみたい。
レイフォードさんのは月の明かりみたいに白いけれど。
幻想的な景色に私はすっかり目を奪われていた。
「……すごく綺麗」
見惚れる私を彼は優しく見つめて言った。
「花は咲いていないが」
そのとき、数日前の会話が脳裏をよぎった。
『夜も綺麗なんですよ。ライトアップすると』
『ライトアップ?』
『街灯に照らされているのも綺麗ですし、小さな明かりを沢山吊るしたり』
あの話を聞いて?
もしかして、私のために?
それだけのために、わざわざ彼が用意してくれたというのだろうか。
「どうして……」
「君の言う光景を再現してみたくて」
知的好奇心? それとも……。
彼の表情にいつもの淡々としたところはなくて、私の視線から少し目を逸らした様子はどこか照れくさそうで。
――私のためにしてくれたんだ。
不器用な彼の思いやりが嬉しくて、私の目が潤んできた。涙がこぼれないように私は再び灯りを見上げた。
「……本当に綺麗です」
泣いたらきっと彼を戸惑わせてしまう。私は努めて笑顔を見せた。
この灯りを心に留めておきたくて、できるだけ目に焼き付けるように見つめていた。
風がそよいでランタンの一つを大きく揺らしたので、危うく落ちそうになった。レイフォードさんがそのランタンに手を伸ばして枝から取り外した。
「それ、本物の火ですよね」
「もちろん」
「じゃあ、やっぱり消さないと」
「そうなんだ。このまま放っておけないから、部屋に戻る前に全部取り外して消さないといけない」
彼は私に微笑みかけた。
「手伝ってくれないか。こんなに暗い中、トッドにやらせるわけにはいかないから」
「もちろんです」
レイフォードさんが梯子に登って吊るした灯りを取り外す。私は梯子を支えて彼が外した灯りを受け取った。
「こんなに、よく集めましたね」
「館と聖堂のランタンをかき集めた」
「みんな、今ごろびっくりしてるかも」
「一応断っておいたが、ここまでとは思っていないだろうな」
いたずらが見つかった少年のような、少しバツの悪そうな表情に私の胸はぎゅっと掴まれた。年上のしっかりした男性なのに、思わず可愛いと感じてしまう。
いくつもの小さなランタンが東屋のテーブルに並ぶ。ランタンの灯りを息を吹きかけて消していく私の横顔を、レイフォードさんは静かに見つめていた。ひとつ、またひとつと光が消えるたび、彼の瞳の色がより深く濃くなっていく。
周囲の暗闇が徐々に私たちを包みこんだ。残ったのは、館へ戻るときに足元を照らすためにお互いが手にしたランタンだけ。
その灯りが彼の端正な輪郭を照らし出し、影を深く落としていた。灯りに照らされたお互いの顔を見つめる。
私は劇場のあのボックス席での彼との視線の交わりを思い出していた。あの時に感じた視線の熱が、今の彼の瞳にも宿っている気がした。どこか切ないような苦しいような、言葉で形容しがたい思いで胸がいっぱいになる。
少しの間の後、彼は私に手を差し伸べた。
「……帰ろう」
私の手を取って館に戻る彼の背を見ながら、「彼と一緒に帰る場所がある」という心がとろけそうに甘い事実を噛み締めていた。
私はふわふわとした気持ちで、まるで夢の中を歩いているようだと思った。




