第32話 ここに居てほしい
短い夏が過ぎようとしていた。リリーは聖堂に毎日通っている。朝は扉の鍵を開け、中に吊るされた幾つものランタンに火を灯す。日暮れ時にはレイフォードも一緒に灯りを消して施錠する。
夏の始め、雨の中で佇んでいたリリーを見つけた時は心底驚いた。
あれほどに思い詰めていたとは知らなかった。確かに記憶喪失なんて恐ろしいだろう。彼女はしっかりしているように見えたから、気遣いが足りなかったかもしれない。
――いや、違う。
実験台のように扱ってしまった。
彼女の感情に気を払うことなく。
安全と生活の保証さえすればよいとばかりに。
老師の言っていた言葉が蘇る。
――『術に溺れ、人を器と心得るな』
見透かされていたのだ。
ため息をついて、肘をついた手で額を押さえる。なぜ過去の自分は気が付かなかったのだろう。自分の愚かさをまざまざと思い知らされる。
リリーは過去のことを断片的に話すが、これまで「戻りたい」とは言ったことがなかった。あの日、聖堂で彼女は震える声で言った。『ユリに戻ってしまったら、どうしよう』と。
彼女の感じる恐怖に深く同情したし、何とかしてやりたいと思った。リリーが泣く姿を見ると動揺してしまう。彼女が落ち着くと、代わりに心の中を占めていたのはどこか安堵に似た感情だった。
――君は帰りたいのではない。
それと同時に気がついた。
俺が君にここにいてほしいと思っていることに。
あの後、リリーから帳簿付けとスケジュール管理を手伝わせてほしいと申し出があった。自分の過去への不安の他に、ここで世話になる気後れも感じていたらしい。人の世話になることに抵抗感のある彼女らしい。
快諾して聖堂の清掃と鍵や灯りの管理も頼むと、ぱっと表情が明るくなって嬉しそうにしていた。
「私がそこまでさせてもらって、いいんですか?」
「君だから頼みたいんだ」
「……ありがとうございます。一生懸命やります」
気負ってしまうなら、正式な居場所を与えてやればいい。
これで君がここに居てくれるなら。
リリーの言っていたように、もし突然彼女が姿を消してしまったら? そう思うと胸の中に言いようのない不安がざわめく。いないと不自然に感じられるほど彼女の存在はすっかり馴染んでいて、いつの間にか自分の生活に入り込んでいた。永遠にここに居させることなど、できないのに。
「永遠」という自らの極端な発想に苦笑する。
いや、本当にできないのだろうか。永遠は無理でも、ある程度長く……少なくとも彼女が望む間はここを居場所として守ることはできるだろう。
彼女の身を守って安心させてやれることに、どこか誇りに似た充足を感じる。
――守っているようで、満たされているのは自分の方か。
そろそろ夕暮れだ、聖堂に行かなくては。リリーが待っているだろう。
書斎を後にする彼を不思議と温かく心地よい空気が包んでいた。




