第31話 『私のことが怖いんじゃないの』
ずっと微動だにしなかった鳥が、その頭をすいと持ち上げると向こうの木々の方へ飛んでいった。
濡れた地面の上を走る足音が近づいてくる。
「何をしているんだ、こんな雨の中!」
リリアナが振り向いた先にはレイフォードがいた。
「何って、なにも」
虚ろな目で見つめ返す。
いつもの彼女と違う雰囲気。
初めて見る、生気のない曇った瞳。
――まさか、ユリの記憶が?
「……何か思い出したのか?」
掠れる声で問いかける。
彼女は苦々しげな皮肉めいた笑いを浮かべた。
「違います。ユリのときの記憶なんて、薄れていく一方です」
強烈な違和感を覚えながら、レイフォードはリリアナの腕を掴むと雨をしのげる聖堂の中へ無理やり引っ張っていった。濡れたマントを脱がせ、手近にあった机の覆い布をひったくると頭から被せる。
濡れた髪を拭いてやりながら彼女の顔を苛立たしげに覗き込んだ。
「こんなに長い間外に突っ立っているなんて、何を考えているんだ?」
されるがままのリリアナはレイフォードの問いに答えなかった。視線を床に向けたまま、何の感情も込めずに淡々と言う。
「私って生きてるんですかね? もしかしたら悪霊なのかも」
「何を言っているんだ」
彼女は瞬きもせずに、ただ続けた。
「だって、私、どこから来たのかも誰なのかも分からないんですから。過去に何をしていたか分かったもんじゃないですよ。盗みとか、人を傷つけたりとか……もしかしたら人殺しだってしてるかも」
その瞬間、カッと頭に血が上る。何をさっきから訳の分からないことを。
「馬鹿を言うな。こんな細腕で一体誰を殺せるって言うんだ」
実際にその腕を掴んで、荒々しい口調で吐き捨てるように言った。
「あなただって、私のことが怖いんじゃないんですか? 私は得体のしれない、”異世界の生き物”でしょう?」
その言葉は、静まり返った聖堂に響き渡った。
力の抜けたレイフォードの手からリリアナの腕がだらりと落ちた。
言葉を失った彼に彼女は、ふっと笑う。
「気が付かないとでも?」
嘲り突き放すような表情に、レイフォードは一言も返すことができず彼女を凝視するばかりだった。
「たぶん、夢だったんです」
目を逸らして、ぽつりとリリアナは呟いた。
「最初、私はこの世界に、ユリが夢を見ている間だけ存在していた気がします。それがだんだん夢の時間が増えていって、ある日、夢の世界の方が本当になったんです」
レイフォードは黙って聞いていた。
「私はもうユリにも戻れないし、ここでリリーとして生きていく勇気もない。仮にユリに戻っても、もうユリの記憶を失いつつあるのに。また振り出しからやり直しです」
突然それまでの無表情が崩れ、彼女は見えない苦痛に耐えるように目をつぶって、その身を掻き抱いた。か細い震える声で言う。
「ユリに戻っちゃったら、どうしよう。もう自分を失うのは嫌。
頑張っても頑張っても、私は誰にもなれない。
私が何者なのか、証明できる人は誰もいないんです」
その言葉はレイフォードの胸に深く突き刺さった。そこから血が染み出るように、リリアナの苦痛が自身の胸の内に広がる。息もつけぬほどの痛みに唇を噛んで耐えた。
「……そんなに自分が何者か証がほしいなら、俺が定義してやるよ」
彼女の頬を両手で挟んで持ち上げると、自分の方を向かせて言い聞かせるように言った。
「お前は転んだ老婦人を迷わず助け、俺の二日酔いに適切な治療をする、善良で賢い女性だ。
案外ズケズケと物を言い、猛獣の巣食う社交界で立派に振る舞うほど度胸が据わっている。
居眠りして人の膝を枕にするくせに、目が覚めるなり『私が膝枕します』なんて言い出す変な奴だ」
リリアナの瞳にじわりと涙が潤んでくる。
「……聖堂を綺麗だと言って、人の祈りを大切にしてくれる。
不意に核心を突くような深いことを言う。
そんな君が、悪いことなんてしてるはずがないだろ」
「どこにいたって、愛されて大切にされるに決まってるだろ」
堪えきれないようにリリアナは顔を覆って泣き出した。
声にならない思いが嗚咽となって溢れる。
泣きじゃくる彼女の姿に、レイフォードはなおも言葉を重ねた。
「盗みや殺しをしているかも? していたとしても、俺が利子をつけて払ってやる。どんな過去も受け入れるよ。俺が何とかしてやる」
ひとしきり泣いた後、リリアナは真っ赤に泣き腫らした目をして、しゃくりあげながら話し始めた。
「……私、頑張ります。レイフォードさんにそんな風に言ってもらえて……その言葉に相応しい人間になれるように、頑張ります」
そして、レイフォードの瞳をまっすぐに見返した。
「これからどんな辛いことがあっても、私、この世界であなたに恥じないように生きていきます」
それは、彼女の必死な決意だった。
彼女の頭を自分の胸に引き寄せ、レイフォードは言った。
「もう十分、頑張ってるよ。記憶も何もかも失くしてゼロからなのに、皆と違うなんて言われて、平気でいられる奴なんていない。……俺だって、素導師という立場も知り合いも家族もなかったら、自分が何者なのかなんてきっと分からない」
胸に縋り付くようにレイフォードの服を掴んでリリアナは言った。
「レイフォードさんは……賢くて強くて、優しい人です。揺るぎない強さで導いてくれる。見返りも求めずに、人に優しくできる人です」
「買いかぶってる気がするけれど、誰でもない君の褒め言葉だから……素直に受け取っておくよ」と彼は少し微笑んで言った。
外ではただ、静かな雨が降り続いていた。
聖堂を出ると、レイフォードが自身の大きなマントを広げ、リリアナを招き入れるように見つめた。リリアナは一瞬だけ躊躇したあと、そのマントの下へ滑り込んだ。雨をしのぎながら館へ向かって歩いていると、彼が口を開いた。
「……君を怖がっているわけではないんだ」
リリアナは彼の顔を見上げた。
彼の視線は正面に向けられたままだった。
「分からないことへの『恐怖』かもしれない。確かめようとするほど掴めなくなることへの戸惑い、とでもいうのかもしれない」
彼は足を止め、リリアナに向かい合った。
「君を傷つけてしまって、申し訳なかった」
真摯な思いのこもった眼差し。
彼は私にとって、絶望の中の希望の光だ。
何もない私に、この世界で歩んでいく勇気を与えてくれた。
――彼が私を救ってくれたように……いつか彼が困難にぶつかったときに、私が少しでも助けられたらどんなにいいだろう。




