第30話 雨の中の鳥
その日は朝からずっと雨が音もなく降り続けていた。この辺りでは、夏の始めに決まって雨が降るらしい。
空は一面薄雲に覆われていて、外の世界はただ白かった。遠くの木々も聖堂も降りしきる小雨に煙り、ぼやけて見えた。
庭に出る気にもなれず、こんな日は考えても答えのない物思いに沈んでしまう。じっとしているのが息苦しくて、救いを求めるように私は雨具代わりに薄手のマントを羽織って聖堂に向かった。
聖堂の周囲に巡らされた鋳物の柵に、見慣れない灰色の鳥が一羽留まっている。木陰で雨を避けることもせず、頭をその身体に突っ込んでただ耐え忍んでいるようだった。
――今の私みたい。
雨の中、天を仰ぐ。
顔を濡らす霧のような雨。
それは次第に集まって雫となり、私の額や頬に幾筋も流れて落ちていく。
――今、もし私が死んだらユリとなって目覚めるのかな。
新しい文字を覚えたら、漢字をいくつか忘れてしまった。書こうとしても、どうしても思い出せなくて愕然とする。私を構成していた欠片がみるみる失われていく。
この世界に馴染もうとして頑張るけれど、私は誰でもない。
リリーでも、ユリでもない。
永遠に誰にもなれないまま。
*
レイフォードは、書斎でこれまでにまとめたリリーの記録を読み返していた。視界の端に、ちらりと赤い色が木々の間を過ぎるのが見える。
(あのマントの色はリリーだ)
母がプレゼントした鮮やかな朱色のマントは、あの劇場の夜に淡い色の生地を選んだ彼女の好みとは違うはずなのに、律儀に使っているらしい。
小降りとはいえ雨なのに聖堂に行くなんて、よほど気に入ったのだろう。あれから彼女は時折、聖堂に現れる。
初めて案内したとき、彼女は何も言わずに見入っていた。そして、聖堂を出てからやっと絞り出すように呟いたのだった。
『人の祈りや願いが……少し分かった気がします。神様を信じてなかったけど、その存在を信じてしまいそうなほど美しくて』
よく「綺麗だ」と口にするから、美しいものに心動かされやすい性質だとは知っていた。それは見た目だけでなく、人の心や振る舞いに対しても同様だった。彼女が口にする言葉は、突然核心を突くことがある。痛みを覚えるほどに俺の心臓を寸分違わずに貫く。
(感動なのか? よく分からない)
感動と言うには重すぎる。
なぜ、こんなにも心を揺さぶられるのだろう。
思考から覚めて、再び過去の文献を調べ直す。かなりの時間が経って何気なく窓の外を見た時、聖堂の門のあたりに小さな赤いものが目に映った。
――リリーのマントだ。
外にいるのか?
雨なのに、まさかさっきからずっと?
レイフォードは弾かれたように椅子から立ち上がり、自身のマントを引っ掴んで聖堂に向かった。




