第26話 触れたら壊れそうな距離
ボックス席に入ると、そこは階下の席の大勢の人々の熱気を受けて籠もったような蒸し暑さだった。
あまりの暑さに、椅子に座るなり私は扇を取り出してパタパタとあおいで顔に風を送った。その扇の端をレイフォードさんが指先ですっと上品に押さえて囁く。
「レディ、もう少し小さく扇がれたほうがあなたの美しさに見合うかと」
いつもの呆れたような態度とは違って甘ささえ感じさせる雰囲気に、私は何も言い返せずに赤面して目を逸らした。
気恥ずかしさを取り繕うように、彼が手渡してくれたレモネードに口をつける。瑞々しい甘酸っぱさとひんやりとした感触が心地よい。一方の彼はシャンパンの入ったグラスの細い脚を優雅に傾け、その縁に唇を寄せた。彼の指先と喉仏の動きに私は魅入られたように見惚れていた。
私の視線に気づいた彼が問いかけるような表情をしたので、私は慌てて取り繕って手元のプログラムを熱心に読んでいる振りをした。
読み始めて早々に難解な文章に困惑する。
「これ、なんて読むんですか?」
彼は身を乗り出して私の持つプログラムをのぞき込んだ。お互いの肩が触れそうになる。二人の影が重なった。
「ああ、それは古い文体なんだ。今夜の劇は古典で表現に独特なところがあるから……」
プログラムの文字を指さしながら解説してくれるけど、息がかかりそうなほど顔が近くて全く耳に入ってこない。
彼の首筋から品のある香りがふわりと漂う。
体温に溶け込むような、やわらかな甘さ。
――頭がくらくらする。
やっぱり睫毛が長い。いつも髪で隠れている額のすっきりとした生え際が見える。前々から思っていたけれど、本当に彫刻のように綺麗なひと。
さっきから距離が近すぎて、それにいつもと雰囲気が違いすぎて、心臓の鼓動が自分でも聞こえるくらい大きくなっている。これ以上、心臓が持ちそうにない。
――なんでこんなに、いつもより優しく、熱を持ったように甘いの。
私の記念になるように、という一夜限りの思い出作りなのかな。それとも周囲の目があるから? 完璧なエスコート役を演じているだけなのかも。
私が返事をしないので沈黙に気づいたレイフォードさんが反応をうかがうように、ふと顔を上げた。ボックス席の暗がりが、彼の瞳の光彩をいっそう深く謎めいたものに変えていた。
私たちのどちらもひどく真剣な表情をしていた。
――目を逸らせない。
この優しさがあなたの思いやりだというなら、やめて。
いっそ辛辣な言葉を投げつけられるほうが耐えられる。
そのとき舞台の幕が上がりオーケストラの演奏が始まった。彼がわずかに首を動かし、視線を舞台へと移した。重なっていた視線の糸が、ぷつりと切れる。
「始まる」
彼が静かに呟いた。
私は跳ねる心臓をなだめて、彼から逃れるように舞台の方へ座り直した。
(舞台に集中しなきゃ)
――今は余計なことを考えないようにしなくちゃ。




