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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第二章 旧都へ

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第21話 酔えない酒


 旧市街から新市街へ向かう途中の通りにある酒場は客で賑わい始めていた。レイフォードとヒューバートは喧騒を避けて壁際の薄暗い席を選んだ。


 先に席に着いたヒューバートが手慣れた様子でエールを二つ注文した。目立たない格好の普段着であっても容姿の整った二人の姿は薄汚れた店の中でそこだけ明かりが灯ったように、異質の雰囲気に包まれていた。しかしエールやジンで酔いの回った客たちの中に、彼らを気に留める者はいなかった。


 店を手伝う主人の娘だけは、エールを運んできたときにわずかに目を見張ってヒューバートとレイフォードを順に見た。

「ありがと」

グラスを受け取ったヒューバートに言われ、娘は我に返った様子でほんの少し顔を赤らめて去っていった。


「はい、『十二源素(げんそ)の加護があらんことを』」

杯を上げてヒューバートは言った。


 レイフォードはグラスに口をつけると、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「源素学の定説を覆す大発見に乾杯、って言いたいところだけど、そんな気分じゃなさそうだね」

「飲めたものじゃないな……奈落の底に落とされた気分だ」

「そりゃ、大変だ」


 不味いエールに対してか、奈落の底という絶望に対してか。

昼間とは違い、ヒューバートは遠慮なく笑い飛ばした。レイフォードにはそれがかえって心地よかった。気を使われるのは余計な精神的疲労が増える。


「老師お気に入りのお前が怒られるなんて、初めて見たかも」

「実際に初めてだ」

「あー、そうなんだ。それはショックだね」


 レイフォードは老師の秘蔵っ子であり、自身でも特に目をかけられている自覚があった。自分が頼めばリリーの素視(そし)をしてくれることもかなりの確信があった。


――何を期待していた?

「よくやった、我が弟子。これぞ十二源素の根幹につながる手がかりだ」

多分、そんなところだ。


 学生の頃でさえ叱られたことがなかった。

他の師が愚かしいと軽んじた疑問も常に侮らずに対等に議論してくれた。『そなたは将来、我より根本に近づくことができるかもしれぬ』そう言ってくれたこともあった。

今日、冷ややかな言葉を浴びせられたときのあの眼差しを思い出すと心臓が凍りつくようだった。


――身の程を知れ。


 テーブルに肘をついた手のひらに額を預け、エールの入ったグラスを見下ろす。


思い上がっているつもりなど、決してない。

常に真摯にそして謙虚に積み上げてきたつもりだった。

何がいけなかった?

答えは出ない。思考は終わらぬ円を描き、結局元の絶望へと巡る。

考え抜きたいのに感情が拒否して頭が働かない。


「……エールじゃ酔えない。ブランデーかポートワインをくれ」

「そんなもんないよ。ここのワインとジンは多分お前が思ってるような代物じゃないし。マシなのはエールかラム……ああ、ウイスキーならあるけど」

「それでいい」

「はいよ。上流階級のお坊ちゃんの口に合うかどうか、保証はできないけどね」


 再びヒューバートが店員に「一番上等のウイスキーを」と注文する。

ほどなく酒と水差しが届けられる。レイフォードはウイスキーの入ったグラスをそのまま一気に煽った。濃度の高いアルコールが喉に流れ込み、食道を通った瞬間に灼けつくような熱とともに揮発していく感覚が走る。

すべての事が夢か現か分からない今、それだけが自分を現実に繋ぎ止める確かな痛みだった。口元を拳で拭うと空になったグラスを机に乱暴に置いた。


 その様子を見てヒューバートは顔を引きつらせた。

「おいおいおい、マジ? 水一滴も足さないのかよ。ぶっ倒れるぞ」

「……酒には強い」

「それは知ってるけどさ。いくらなんでも、まだ何も食ってないのに空きっ腹に効くぞ。あーあ、俺もう知らないからな」


 喉にひりつく痛み。

こんなもの、身の内で暴れる怪物に比べたら大したものじゃない。


 やれやれといった表情でエールを飲み干したヒューバートは遠くの店員と視線を合わせると、空のグラスを指先で示して二杯目のエールとウイスキーを無言で促した。


「老師がどういう意図でああ言ったのか、レイは分かってんのか?」

「分からない」

「まさか……レイの成果に嫉妬したとか?」

「口を慎め、だから『沈黙せよ』と言われるんだ。老師への冒涜だぞ。すでに多数の偉大な発見をされていて名誉も権威も十分すぎるほどだ。そんな狭量な方ではない」

「だよねー。じゃあ源素が視えないなんて受け入れられなかった、とか?」

「いや、至極当然とばかりに受け入れたように見えた」


――むしろその事実を受け入れることができないのは、自分の方だった。


「なんでか分かんないけど、怒られたよな?」

冷水を浴びせられた気分だった。

愚か者、と罵られたわけではない。だが、実質的にはそうされたも同然だった。

老師はいつも導き見守ってくれていた。自分が考え抜いた末に結論にたどり着くと、優しい眼差しで「そうだ、それでよい」というように微笑んでくれた。


――そのはずだった。


老師の言葉をそのまま思い出せ。熟考しなければ。

そこにあの方の真意があるはずだ。

あの方は人を惑わすようなことはしない。

何が間違っていたんだ?

愚かな弟子を憐れむような、あの視線が脳裏にこびりついて離れない。


 自身の思考の底なし沼に落ちたレイフォードを気遣わしげに見つめると、ヒューバートはあえて話を変えた。

「今日、結構可愛かったじゃん。前は野暮ったい服着てたから分からなかったけど」

思考が中断される。

リリーのことを言っているのだと、すぐに気が付かなかった。


「……そんなに野暮ったいか?」

顔を上げ焦点の定まらない瞳でぼんやりと呟くレイフォードに、ヒューバートは呆れたような視線を投げかけて二杯目のエールに口をつけた。

「お前、田舎で感覚が麻痺してんな。年頃の女の子なんだし、ちょっとは気を使ってやれよ」

「こんなに長く保護するつもりはなかった」

「でも、水の月から石の月も過ぎて、もう火の月なんだぞ? もう二月(ふたつき)だ。しかもまだ延びるんだろ。レイ、あの子……リリーちゃんのこと、どうするつもりなんだよ」

「今日、名前と居場所を登録してきた。尋ね人や犯罪に巻き込まれていないか、該当しそうなものは全部確認したが何も出てこなかった。当分は面倒を見るし、保護した以上、無責任に放り出すような真似はしない」


 ヒューバートは水差しから二杯目のウイスキーに水を足し、それをレイフォードに差し出しながら言った。

「当分って、いつまで?」

「ある程度、身の振り方が決まるまでだ」

「リリーちゃんも先が見えないのは不安だと思うよ。できること、できないことは伝えてあげないと。リリーちゃんが言わないからって、何も感じてないってことじゃないんだからさ」

「分かっている」


 それ以上の追及を拒むようなレイフォードの返答にヒューバートはまだ何か言いたげだったが、結局は残ったエールとともにその言葉を喉の奥へ流し込んだ。


 レイフォードは水で薄まった二杯目のウイスキーに口をつけた。

自分が救いようもないほど何も分かっていなかったと思い知らされることになるなど、この時のレイフォードは微塵も思い至らなかった。

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