第2話 繰り返される儀式
彼は手元に視線を移すと、もう一度目を閉じて呪文を詠唱した。
長い睫毛の影が彼の頬に落ちる。困惑した私が彼のことを見ていることを除いたら、さっきと全く同じことの繰り返しだった。
彼はゆっくりと、藤色の瞳を開いた。その切れ長で美しい曲線を描く目は、どこか高貴な猫を彷彿とさせた。沈黙する彼と私を、村長が困ったような様子で交互に見る。
彼の瞳からもう恐怖の色は消えていた。何かを決意したかのように立ち上がると、透明な塊を懐へ収めた。
「じきに日が暮れる。馬車を待たせているから急がなくては」
そして村長に向かって言った。
「この者の身は私が預かる。……確かに珍しい性質をもっているようだ。調査の後、私から然るべき場所へ引き渡そう」
村長の表情がぱっと明るくなった。
「それはありがたい! どうかお願いいたします」
彼に深く頭を下げてから、私に笑顔を向けた。
「お嬢さん、あなたの安全はこの方が守ってくださるから」
悪い人ではないのだろう。しかし、私を厄介払いできることへの安堵を隠しきれていなかった。これ以上、面倒をかけるのは居心地が悪い。それでも、あからさまに安堵されるのは、気分のいいものではなかった。苦い気持ちが水に落としたインクのようにじんわりと胸に広がっていった。
(私はこれから、どうなるの……?)
彼は踵を返すと、足早に馬車へ向かった。慌ててその後を村長が追い、私も村人に促されて後に続いた。村長が彼に布袋に入った何かを手渡そうとした。ジャラリという音から、中身は硬貨だと思われた。
「素導師様、わずかではありますが、これを……」
彼はしなやかでありながら、はっきりとした態度で手を挙げ、相手の話を遮った。
「そういったものは必要ない」
「ですが……」
躊躇する村長の顔を一瞥し、彼は硬質な響きの声で言い放った。
「貴殿の誠意は源素の御心もご存じであろう」
反論を許さない迫力で、一気に議論を終わらせたのだった。
近くで見ると、馬車の踏み台は思いがけず高かった。どのように乗り込めばよいのか、私には見当もつかなかった。
(これに乗るの?)
踏み台の近くに立った彼は、目を合わせることもなく無言で私に肘を差し出した。突き出された彼の肘をどうして良いのか分からず、助けを求めるように彼の顔を見上げる。だが、返ってきた反応は、怪訝そうに片眉をわずかに上げられただけだった。
戸惑って動けずにいる私を見て、彼は針のように鋭いため息をついた。そして、優雅な動作でマントと上着の裾を捌くと、軽々と馬車の中に乗り込んだ。あっけにとられてその様子を眺めていると、車内の暗がりから彼の手が迷いなく伸びてきて、素早く私の手首を掴んだ。
「……っ」
私はそのまま半ば引っ張り上げられるようにして、中に転がり込んだ。幻のような繊細な外見と裏腹に、私の手首をつかむ力は確かな現実味を帯びていた。彼は自ら扉を閉じ、見送る村長に向けて窓越しに一度だけ軽く頷いた。天井を叩いて彼が合図すると、馬車が走り出した。
車内は狭くて、互いの膝が触れてしまいそうだった。私はなるべく身を小さくして、座席に収まっていた。
「手を」
彼のひどく真剣な眼差しに何も言えず、反射的に両手を差し出す。
再び手にあの塊を持たされ、詠唱、光、消失。
(何度繰り返すのだろう)
当惑していると、突然、顔を覗き込まれた。彼のふわりと空気をはらんだ柔らかな髪が私の額に触れそうになって、どきりとしたのも束の間、今度は額に透明な塊を押し付けられた。それまで、されるがままだった私だったが、あまりに一方的な振る舞いにふつふつと怒りの感情が湧き上がった。
(なんなの? さっきから私をモノのように扱って)
「……ちょっと、痛いんですけど」
勇気を振り絞って小さな声で文句を言うと、彼は弾かれたように、ぱっと私から離れた。言葉を発した私を見て、これまで向き合っていたのが人間だと思い出したかのようだった。
「失敬」
彼は目を合わせることもなく、少し気まずそうにポツリと言うと、そのまま押し黙った。
夕日のなごりを留めたオレンジの空に、夜の闇が覆いかぶさろうとしていた。家路を急ぐ馬車は猛スピードで走り、ギイギイと規則正しく軋む音と地面の振動が絶え間なく伝わってくる。
ここがどこなのかも、これからどうなるのかも、分からない。
——私は、この人にどうされるの?
膝掛けは村長の家に置いてきていた。寒気がして身をかすかに丸めた私に気がついたのか、彼は周りに目を走らせた。
「しまった、荷物の中か……」
独り言のように呟くと、彼はマントについている繊細な銀細工の留め具を流れるような仕草で外した。狭い車内で器用にマントを脱いで、私に無言で差し出す。
「結構です」私は意地になって言った。
「寒いのだろう」
彼は半ば無理やり私の膝にマントを広げた。マントに残った彼のぬくもりが伝わってきた。彼は窓の外を流れる景色に目をやった。
首元を覆う高い襟に、汚れ一つない純白の礼装。正面にずらりと並んだ銀のボタンや袖口や裾に施された刺繍は、薄暗い車内でもその価値が分かるほど手の込んだものだった。
馬車が速度を落として目的地に着いたとき、外はすっかり暗くなっていた。
切り整えられたクリーム色の石壁、アーチを描くガラス窓、規則正しく並んだ石の屋根。豪華さはないが、上品な館が暗闇に浮かび上がっていた。
馬車が止まるやいなや、彼はせっかちに扉を開けると、しなやかに飛び降りて御者に声をかけた。
「道中ご苦労だった。夜明けまで休んでくれ」
出迎えた初老の男性が、彼に問いかける。
「遅いお帰りでしたね。何かトラブルでも?」
「予定外に寄る所ができたんだ。急で悪いが客人だ。食事と身の回りの世話を頼む」
彼は答えながら、馬車の中の私を視線で指し示した。
そのまま、矢継ぎ早に指示を続ける。
「御者と馬には無理をさせたから、今夜はよく休ませてやってくれ。俺の食事は明日の朝でいい」
「かしこまりました。ヒルデがレイフォード様のために温かいスープを作っておりますよ。それだけでも召し上がりませんか?」
「そうか、後で書斎に持ってきてくれ。彼らの世話が終わってからでいい」
そう言い残すと、彼は一度も振り返ることなく、光の漏れる館の中へ消えていった。




