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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第二章 旧都へ

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第19話 『清らかな知恵』という名

 午後から仕事だというヒューさんと別れ、レイフォードさんと私は市庁舎へ歩いて向かった。私の所在地を登録し尋ね人の情報を当たってみるのだ。


 市庁舎は三階建ての歴史的な造りで立派な建物だった。窓ガラスがステンドグラスになっていて役所という実務的な場とは無縁な美しさだった。

「素敵な建物ですね」

「ああ、古いものだから」たった今、気がついたというようにレイフォードさんは言った。

「教会みたいですね」

「『協会』……?」

「えっと、宗教的な建物みたいってことです。ステンドグラスとか」

「ああ……ステンドグラスなら、うちの聖堂にもあるが」

「そうなんですか? そう言えば、聖堂には入ったことがないです」

 庭から見える小さな塔のある建物。あそこが確か聖堂だ。

素導館(そどうかん)に戻ったら見せてやる」彼は当然のように言った。


――『素導館に戻ったら』

レイフォードさんにとっては帰る場所。

でも、私はそこに戻っていいの?

私にとって帰る場所はどこにあるんだろう。

不安に覆われた本心と裏腹に、私は微笑んで答えた。

「それは楽しみです」


 窓口と呼ぶにはあまりに優美な建物の内部で、レイフォードさんは書類に記入していた。

「名前を登録するんだが……リリアナという名前を勝手に付けたのは、嫌だったか?」

記入する手を止めて手元に視線を向けたまま彼は言った。

「本当はユリと呼ぶべきだったのに」

彼が自分を責めているのは痛いほど伝わってきた。


「いえ、別にもう慣れましたし。なんとなく響きも似てますし。そもそもユリかどうかもあやふやですし。逆に今変えたら皆さんも混乱してしまいそうなので、このまま『リリー』で」

彼が気に病まないように私は明るく振る舞った。

「……そうか」


 そんなことで安堵するような単純な彼ではなかったが、私が彼を気遣うように、彼もまた私を気遣っているのだろう。

「ユリも付け加えておこう。ユリ・リリアナ……家名はどうする?」

「家名なんて全然思いつきません。どうしましょう?」


 彼は少しの間考えていたが、ややあって言った。

「セライフィ、はどうだ? ユリ・リリアナ・セライフィ。あくまで便宜上のものだが」

「セライフィ……ですか。なんだか綺麗な響きですね」

「清らかな知恵、という意味だ」


――清らかな知恵。

それが彼が私に付けてくれた苗字。そういう風に私のことを思ってくれてたのかな。止まっていた心臓が鼓動を思い出したように、じんわり生気が戻る感覚。そんな良い意味の名を付けてくれるのは彼のお詫びの気持ちも入っているのかもしれないけれど、お世辞だとしても嬉しかった。


「素敵だと思います。それでお願いします」

私は照れて彼を直視できないまま、少し視線をずらしてはにかんで笑った。

そんな私に応えるように彼も少し口の端を上げた。


「君の居場所を登録しておく。君を探している人がいたら気がつくように。行方不明者リストに登録して積極的に探すこともできるが」

「いえ……居場所の登録だけでお願いします」


――私を探している人なんて、この世界にいるのだろうか。

元の自分のことが分かるのが怖いような気もする。

”私の知らない私”を知る人、そんな人が存在するのだろうか。


 手続きが終わると、レイフォードさんが「念のため、誰かが君を探して広告を出していないか確認してくる」と言って別の受付へ行った。

まだ複雑な文書を素早く読むことができない私は、その間ぼんやりと椅子に座ってステンドグラスを眺めていた。


 突然、背後でどしゃっと何か落ちたような音がして、そちらを見ると年配の女性が床に座り込んでいた。

「どうしましたか!?」

慌てて私は駆け寄った。

「足が悪くて、段差で転んでしまって……」

 答えた女性の腕を掴んで立たせようとしたのだが、「いたた……」という声に、強く引っ張り上げていいのか分からない。結局、私の力だけで立たせることができず「どうしよう」と呟くしかなかった。


「あそこに主人がいるの、呼んできてくださる?」

女性が指さした先には、遠くの手続きの列に並ぶ年配の男性の姿があった。

「あの、帽子を被った方ですね?」

「ええ、そうなの」

私は座り込んだ女性をそのままにして駆け足で列に向かった。

事情を説明してその男性と転んだ女性の元へ引き返す途中で、女性に気がついて動いた人物がいた。別の受付から戻ってきたレイフォードさんだった。


 彼は「失礼」と言って、造作もなく背面から女性の脇を両手で支えて持ち上げて立たせると、女性の夫へと引き継いだ。

これまでレイフォードさんに『ものすごく綺麗』という印象ばかり抱いていたが、彼もまた一人の若い男性なのだという事実に今更ながら気づいた。

細身に見えるけど当然私より力があるだろう。逞しさを感じるとともに意外な驚きを覚えた。


 お礼を言って去っていく老夫婦の後ろ姿を見つめながら、私は言った。

「私が村で保護してもらったときはみんな親切だったのに、ここでは見て見ぬふりする人達ばかりで……ちょっとがっかりというか、びっくりしました」

近くには沢山の人がいて異変に気付いた人もいたはずだ。なのに転んだ女性に駆け寄る人も、戸惑う私を手助けしてくれる人も、一人としていなかった。


――レイフォードさんを除いては。


「都会だから見知らぬ者同士なんだ。田舎と違うのは致し方ない」レイフォードさんは淡白に答えた。

「そうですね……」

――それでも。

「レイフォードさんが私と同じことをしていて、なんとなく嬉しかったです」


 私は同意を求めるように彼を見上げて微笑んだ。

「助けるのに迷いはないですけど、一人きりだと心細くて。同じ気持ちの人がいるというのはとても心強いものですね」

彼は意表を突かれたように瞬きした後、ほんの少し微笑んで「そうだな」と言ってくれた。


 この人はやはり優しいのだ。誰に対しても。

精神的に打撃を受ける出来事があって自身が落ち込んでいても、無意識に身体が反応してしまうほどに。

恐怖の眼で見られてもこの人を嫌いになれないのは、たぶんそのせい。


――だから、私のことも助けてくれたんだ。

彼の美点だと思う。でも彼にとって私が特別な訳では無いという事実が胸に重くのしかかった。

支え合う老夫婦が心底羨ましい。私はこの世界にたった一人紛れ込んだ異分子なのかもしれない。


――私を探している人なんて、この世界にいるのだろうか。

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