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恋を知らない素導師様は  〜君という難問に抗えない〜  作者: 井ノ上 杏
第二章 旧都へ

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第17話 老師との面会

 しばらく進んだ後、ヒューさんが通路の途中で立ち止まった。奥に見える扉の先が老師の部屋だと言う。部屋まで距離があるというのに彼は声をひそめて話した。

「レイが先に行って。俺とリリーちゃんは後ろからついていくから」

レイフォードさんはヒューさんを一瞥すると無言で歩みを進めた。


 重厚な木の扉についた鈍く光る金属のノッカーを掴んで鳴らす。

「老師、カエリムとシュミットです」

レイフォードさんの硬く澄んだ声が静まり返った廊下に響いた。

厚い扉越しに小さな声が返ってきた。

「入れ」

「失礼いたします」

そう言うとレイフォードさんは扉を開けた。


 扉の向こうには年配の男性がいた。

壁面の本棚だけでなく、あらゆる机や棚の上にも本や書類の束が積み上げられている。その中に埋もれるようにして老師は肘掛け椅子に深く腰掛けていた。彼は座る向きを変えて私たちの姿を確認する。

真ん中できっちりと分けられた灰色の髪は肩の位置で切り揃えられていた。髪と同じ色の長い口ひげが口元を覆っている。薄い灰色に白の縁取りがされた素導師の正装といい、彼のすべてが落ち着いた薄灰色で構成されていた。


 レイフォードさんとヒューさんがタイミングを合わせたように素早く拝礼をした。深く頭を垂れ両肘を真横に張って、額の辺りで両手を前後に重ねている。先程の礼より深い敬意を表す動作なのは明らかだった。

私は慌ててペコリとお辞儀をした。作法は分からないが二人に合わせて失礼のないようにしたいと思ってのことだった。


「久方ぶりだな」かすれた低い声。

「一年前の学術集会のとき以来かと存じます」

「そうか。もうよい、直れ」


 老師の声で二人は姿勢を正して面を上げた。私もそれにならった。部屋を満たす緊張感に私は息の詰まる思いだった。レイフォードさんがこんなにも人に敬意を示すのは見たことがなかった。いつも傍若無人で人をくったような態度なのに。ヒューさんも普段の朗らかな雰囲気が一変し、神妙な面持ちをしている。


「用件は」

「水の月の最終週に、国境の山に近い村でこの娘を保護したのですが、過去の記憶がほぼなく、私にもシュミットにも源素(げんそ)が確認できません。言葉は話せますが読み書きはできませんでした。すべての記憶を失っているわけではなく、時折彼女の国のことを話します」

「して、我に何を望む」

「恐れながら、老師の素視(そし)を賜りたく存じます」

源素庁(げんそちょう)には」

「まだ何も報告しておりません」


 針一本落ちても響きそうなほど静まり返った室内。かなりの沈黙の後、老師が言った。


「手を」


 私に向かって言われた言葉だと咄嗟に気が付かず、ヒューさんに優しく手で促されて私はおずおずと前に進んだ。レイフォードさんが脇に身を引く。目で勇気づけるかのようにじっと私の顔を見つめていた。

老師は私の瞳を射るような鋭さで見た。その目は近くで見ると白濁した青灰色だった。気圧された私は、震えを押し殺して両手をそっと老師に差し出した。


 ひんやりとしたコンフェの感触。それはレイフォードさんのものともヒューさんのものとも異なった、ほとんど角の感じられない滑らかな手触りだった。

そして乗せられた冷たい手。低い声の詠唱が始まりコンフェが青白く光るのが、顔を伏せた私の視界の端に映った。


 手のひらが軽くなり、私は素視が終わったのだと分かった。恐る恐るゆっくりと顔を上げる。

老師は肘掛け椅子の正面の窓の方を向いて外の景色を眺めているようだった。レイフォードさんとヒューさんにぴんと張りつめた空気が走る。二人は老師が何と言うか固唾を飲んで見守っていた。


「視えぬ」


 ただ一言、驚きの一片も見せず穏やかに老師は言った。その言葉にレイフォードさんが言った。

「老師。そのご高察の一端を私共に示していただけないでしょうか」

老師は低い声で答えた。

「源素はこの世の(いしずえ)なれど、我々はその深淵を(ふち)より眺めるのみ」


 必死とも言える顔つきでレイフォードさんが続けて質問した。

「この娘には源素がないのでしょうか? 我々に視えない何かがあるのでしょうか?」

「”なきこと”を(あか)すは、人の手に余る」


 レイフォードさんが堰を切ったように強い口調で言った。

「私には……彼女が別の(ことわり)の世界から、私たちの世界に迷い込んだとしか思えないのです!」


今、彼はなんて言ったの?

別の理の世界? 迷い込んだ? 私が?

『私たち』の世界に、って……それじゃまるで……。


――私は含まれないみたいだ。


 あまりに真剣な語気に吸い寄せられるように彼の方を見ると、その瞬間二ヶ月前に時が巻き戻った気がした。

――あの瞳だ。

初めて会ったとき、私に見せた『恐怖の色』。

それをまたレイフォードさんの目の中に見るなんて、思いもしなかった。だって彼は私に優しく接するようになっていたから。彼と同じ”人”として扱ってくれているように思っていたから。


 混乱する思考から急に引き戻されるような感触がして、我に返って振り返った。いつの間にか老師が立ち上がり節くれだった手で私の肩を静かに捉えていた。

彼は私の顔をまっすぐに見つめて問うた。


「名は」

「リリー……リリアナです。元はユリ、だった気がします」


 老師は私の目の奥を覗き込むと諭すようにゆっくりと言った。

「〝ユリ〟異郷の空より、迷いたる者よ。囚われるな。ただそなたのままに、そこに居ればよい」


 その眼は思いがけずまるで慈しむかのように優しかった。向けられた眼差しが、実感はおろか理由さえ掴めずにいる私の心に何かを投げかけたように引っかかった。


 「カエリム」


 名を呼ばれて再び機敏に拝礼したレイフォードさんに、老師は私に向けた慈愛とは対照的な氷のように冷ややかな声で言い放った。


「身の程を知れ」


 レイフォードさんの身体がこわばるのが、私にもはっきりと分かった。

声と同じくらい冷たい表情で老師はなおも言い続ける。


(じゅつ)に溺れ、人を器と心得るな。(おのれ)がなせる(ごう)と報いを、心して見極めよ」


 レイフォードさんの滑らかな首にはっきりと筋が浮き上がる。

「シュミット、沈黙を以て(おのれ)を律せよ」

ヒューさんもレイフォードさん同様に素早く拝礼してそれに応えた。


 老師は肘掛け椅子に再び深く腰掛けゆっくりと元の向きに直った。彼はもう私たちが部屋にいないかのように、じっと窓の外を眺めている。


部屋を静寂な空気が包み込む。

それは、老師と私たちの面会の終わりを告げているのだった。

ゆっくりと上げられたレイフォードさんの顔は白く色を失っていた。

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