第10話 初めての乗馬
翌日、朝食を済ませると母屋から少し離れた厩舎にヒューさんと一緒に向かった。ヒューさんは乗馬ズボンにゆったりとしたシャツを着ていて、それが長身で手足の長い彼によく似合っていた。私はワンピースかスカートしか手持ちの服がなくて、なるべく動きやすくて汚れても差し支えがなさそうなものを選ぶほかなかった。
(馬なんていたんだ)
厩舎に近づくと干し草と獣っぽい匂いと馬の立てる蹄の音がした。
ヒューさんは馬丁のおじさんの名前を呼びながら「元気してた?」と気さくに話しかける。
もう一ヶ月近くこの館にいるのに、通いの馬丁がいることさえ私は知らなかった。たまの滞在者にもかかわらず、使用人の名前や顔を覚えているヒューさんのコミュニケーション能力の高さに感心する。二人の会話からヒューさんは馬丁に小さな子どもがいることまで知っている様子だった。
(私、何も知らないみたい)
「こっちおいで、リリーちゃん」
ヒューさんに手招きされて奥を覗き込むとそこに馬がいた。
ぶつかられたら吹っ飛ばされそうな巨大な体躯、長い顔には血管が浮き上がっていて、黒々とした大きな瞳と白目がギョロリと私を見た。
「フンッ!」と生暖かく湿った鼻息を顔にかけられて、私は目を白黒させた。
(怖っ……)
顔を引きつらせて身を引く私に、ヒューさんは大丈夫だよ、と低く優しい声で話しかけながら慣れた手つきで馬の首を叩いて落ち着かせた。
馬に餌をやりながら彼は簡潔に注意事項を伝えた。
「リリーちゃんはしないだろうけど、大きな声を上げないでね。あと蹴られるといけないから、絶対に後ろを通ったり後ろから近づいたりしないで」
ヒューさんは馬丁から手綱を受け取ると、馬を厩舎の外にある階段状の石段のそばへ連れて行き、「さ、乗ろうか」と私に爽やかな微笑みを向けながらいとも簡単に言った。
(と言われても……)
「ど、どうやって」
「そこに登って、鞍の上に腰掛けて」
とりあえず指示された通り石段に上がり、長身のヒューさんより高い位置から馬の背を見下ろす。ヒューさんは馬の正面に立ち、その空色の瞳で馬の目を見つめながら鼻面をしっかりと押さえて巧みに動きをコントロールしている。
「馬は僕が落ち着かせてるから、鞍に腰掛けて」
「腰掛ける……?」
鞍の中央には、取っ手のようなものがついている。恐る恐るそこを掴んで馬の背にまたがろうと右足を上げたとき、ヒューさんが慌てて私を片手で制止した。
「ちょ、ちょ、ちょい待った。リリーちゃん、どうしたの?」
「どうしたって……馬に乗ろうとしたんですけど」
「横を向いて座るんだよ、またぐんじゃなくて」
「横……座る……?」
「座ってから、鞍の出っ張りに右足を引っ掛けるの」
「……どういうことですか」
ヒューさんが身振り手振りを交えて詳しく説明してくれたのだが、どうやら鞍の上に「お姉さん座り」をしろと言っているらしい。
(無理無理無理、絶対に無理)
「無理です。落ちます」
蒼白な顔で私は訴えた。その様子を見たヒューさんは驚いて何かを言いかけたが、ふと口をつぐむと私にあの陽だまりのような微笑みを向けた。私は一瞬で毒気を抜かれて、思わず黙り込んでしまった。彼は馬丁に馬を抑える役を交代してもらうと私の側にやってきた。
「大丈夫大丈夫。抑えてもらってるから、馬は動けないよ」
安心させるように下から覗き込んで私の瞳をじっと見つめる。
その瞬間、先程の馬の気持ちが理解できた。彼に「大丈夫だよ」とほのかに甘い響きを含んだ声で言われると、ざわつく心が不思議と落ち着く。
改めて近くで見ると、レイフォードさんの迫力のある美貌とは違うが彼が骨格の美しい端正な顔立ちをしていることに気がついた。
ただ黙って彼の瞳を見つめ返す私の腰を両手で支えると、彼は鞍に座るのを慎重に手助けしてくれた。
「右足をここに引っ掛けて」
私の足首を優しくそれでいてしっかりと掴むと、私が最初取っ手だと思った出っ張りに私の足をゆっくりと引っ掛けて反対の足を鐙へと促した。
「ほら、乗れたでしょ? そこ、掴んでいて」
快活に微笑みかける。
「……」
一言も発することができずに、鞍の出っ張りを握りしめて固まる私。ヒューさんは私が横にずり落ちないよう膝に手を添えてくれた。力が込められているわけではないのに、その手はとても心強かった。
ぽくっぽくっと徒歩より遅いくらいの速度で歩く馬。その度にゆらゆらと私の体が揺れる。あんなに背の高いヒューさんの肩が私の膝くらいの位置にある。低い位置で無造作に束ねられた蜂蜜色のくせ毛が犬の尻尾みたいだ。
私はほんの少しだけ硬直状態から抜け出し、独白するかのように呟いた。
「……そういえば、子どものころに観光地でポニー……仔馬に乗ったことがあるような気がします」
「子どものときに仔馬に乗ってるほどお金持ちなのに、馬車に乗ったこともないし乗馬もできないの?」
斜め前にいるので表情は見えないけれど、可笑しそうな声音。
「ちょっと体験しただけですから。”ふれあい牧場”みたいな」
「ふれあい……牧場? ふれあうための牧場ってこと? そんなのあるの?」
ややあって、彼は思いついたように言った。
「ねぇ、もしかしてリリーちゃんって没落した貴族のお嬢様なのかな?」
「いえ、お嬢様なんかじゃなくて普通の家だと思います。だって執事さんや家政婦さんに給仕されるときとか、どうしていいのか分からなくて。オドオドしちゃって怪訝な顔をされることがあります」
「だよね、分かる分かる」
共感してくれるのは嬉しいけれど、意外に感じる。
「そうなんですか? ヒューさんはすごく打ち解けているように見えましたけど」
「打ち解けることはできても、世話してもらうっていうか、かしずかれるみたいなのは僕も慣れないよ。レイと違って、僕は田舎の農家出身だから」
「そうなんですか」
なんだか、ほっとした。私だけじゃないんだ。レイフォードさんはいつも堂々として、私は自分の場違いさに気まずい思いをしていたから。
気がかりだったことをふと思い出す。
「ヒューさん、部屋は大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が?」
「いつもヒューさんが使っている部屋を私が使ってしまっているから、違う部屋になっちゃって」
「ああ、そういうことか。ランクアップしたのかと思ったよ。広くなって快適快適」
どんなことに対しても、落ち着いて優しい反応を返してくれる彼に、私は深い安心感を覚えるのだった。
短い散策を済ませて元の場所に戻ると、ヒューさんは私を見上げ私の腰に両手を添えた。
「おいで」
抱きかかえて降ろしてくれるんだ、と気がついて、ヒューさんに向かって私は両手を広げて身を預けた。
宙に浮いた瞬間、なかば本能的に彼の首に腕を回してしがみついた。彼の蜂蜜色の髪がかすかに私の額を撫でた。力を込めたからだろう、彼の首に浮き出た筋が見える。天日干しされたシャツの心地よい肌触りと、私を支える確かな肩の硬さが伝わってきた。
そのまま地面にそっと降ろしてくれたが、膝の力が抜けてガクンと崩れそうになる。再びヒューさんは抱きとめるように私を支えてくれた。
「大丈夫?」
「ほんとに、ごめんなさい……」
自分の鈍くささと男の人に抱きついてしまったことへの恥ずかしさで、私の顔は真っ赤になりとても顔を上げられなかった。ヒューさんは単純に乗馬を手助けしてくれているだけなのに、あまりに慣れていないことばかりで私の意思を裏切って心臓の鼓動が勝手に速まる。
(落ち着け、落ち着け)
「なんとかなって、ほんとに良かったです」
顔を見られないように乗っていた馬を振り返ると、大きな胴体で視界のほとんどが埋められてしまった。その圧倒的な重量と力強さに改めて身震いする。
「蹴られたら骨折しちゃうかもしれないですよね」
ヒューさんは少し間を置いて、軽く肩をすくめると答えた。
「骨折で済めばラッキーじゃない? 下手すると死ぬから」
(……なんでそんなこと、今になって言うの……)




