「もう気は済んだかい」
「もう気は済んだかい」夕暮れから目を戻して気持ちを落ち着けてから、僕はそっと黙ったままの彼女に話しかけた。
「もういいわよ」彼女は軽く押し返すように答えた。しばらくしてから彼女は軽く息を吐いて、また大きく吸い込んでからこう言った。
「〝納品先で数々の不可思議な現象を巻き起こした小粋なソファがありえない返品をされてそれを我が家が事故物件的な超割引価格で買うことが出来て今日うちにやって参りました〟何か文句ある?」
「ないね」
「じゃあ、〝私が店頭で一目惚れしたピンクのソファにその一途な気持を路上から送り続ける、そんな奇行を止めることが出来ずにかれこれ早数カ月〟」
「なるほど」
「〝その甲斐あって紆余曲折あったけど、はいめでたくこのリビングルームにピンクの高級ソファが超絶お値引き価格でやって参りました。あらまあ不思議ですこと!〟これは?」
「すごいよ」
「凄いなんてもんじゃないわね、もう。ニューヨーク・タイムズ紙で三段ぶち抜きの見出しにしても足りないくらいよ。私がいまどんな気持ちか分かる?」彼女は憤然として、厨房で大量の揚げ餃子を仕上げたあとの料理人のような勢いでそう言った。
「(これは答えたら絶対に駄目なやつだ、きっと)」僕は眼で彼女に続きを促してみた。
「…ふふっ」
「どうしたの」
「どうしたのって…もうね、気持ちにすら成らないわね、これは」見ると、彼女は極大のにんまりが遥か奥の間に潜んでいるような、抽象的な笑みを浮かべていた。
僕はというと、さらに彼女に圧倒されながら夕日の中で体育座りを続けていた。一体どうしたら良いんだよ?こんなの。なぜだか僕はボイル=シャルルの法則にも見放されそうな悲愴な気持ちの低気圧で胸一杯だった。
「そんなとこに座ってないでこっち来なよ」彼女は少しだけ優しげに言った。
「うん」僕はそろそろと彼女の左隣りに腰を下ろした。
「せっかくお告げ通りにこの部屋にやって来たんだからさ、挨拶はすんだ?」
「ソファに?」
「そう、ソファに」
「何と言うか、神話発祥の地になるね、ここは」
「何の話よ、一体」
「いや、なんでもない」
「さあ、はやく」
「や、やあこんにちは、よろしく」僕はその柔らかな生地の表面を軽くぽんぽんと叩いてみた。気のせいか何かが奥まで浸透して行ったような気配があった(…嗚呼、なんてこった)。
「どんな気分?」
「わるくない」
「どんな風に?」
「とっても」
「とっても?」
「とっても…何かに守られているような悲しくないような気分だ」
「ふうん」彼女はおもむろに腕組みをして僕を見つめた。ギリシャ神話の戦士の化身が居間で鎧を脱がずにくつろいで談笑していたならば、その時の彼女のように見えたかもしれない。
そして実際のところ、それはとっても良かったのだ。ただまだ僕の中に雨上がりの後の水たまりが乾ききっていないような居所の悪さがあったから、ちょっと変な気分と取り違えてしまっただけだった。彼女と一緒にそのソファに座っているのは、これから心地のいい晴れ間が隅々までしっとりと広がっていくような、とても良い気分だった。
「あのね」
「ん」
「はっきり言うけどね」
「なに?」
「ここに一緒に住むよりもっと以前からね、君のことを遠くからずっと見ていたよ」彼女は決して交わらない視線を保ちながらそう言った。
「それは…うん、なるほど」
「その理由は自分でもよく分からないんだけど、何か超自然的なやつだよ」
「そう」
「それは皮算用とは違う、真面目に素敵なやつだよ」
「ふふ」
「なにがおかしい」
「〝皮算用されたときにあなたが取るべき20の対処法〟売れない新書のタイトルみたいだ」
「なにそれつまんない」
「わかったよ。要するにそれは何か高い純度のちょっとだけやばい気持ちだったのね」
「まあそうね、人知れず遠くからだもんね。よく分かってらっしゃる」
「それで?」
「だから私のお気持ちビーム的なやつが君の身にもどばどばと降り注いでいた筈なのよ」
「うん。どうもそうらしいね。健康診断には引っかからなかったけど」言うまでもなく、特急便で彼女の膝蹴りが僕の臀部に届いた。
「嬉しいですか」
「えっ」
「初めて君にはっきりと言ってみたけど、嬉しかった?」
「んん…というか嬉しいも何もね、」
「なにも?」彼女は僕の肩を後方からぐいっと鷲掴んだ。
「そうだな…何と言うか、〝満ちている〟かな」
「私は、嬉しいかどうかを尋ねたんだけど」彼女が後方で睨んでいる息遣いを僕は確かに感じた。
「満ちているは嬉しさの大前提条件でございますよ」僕はなぜか何かに怯みながら、さぞもっともらしい事を喋った。
「あーあ。婉曲表現ここに極まれり、ですか先生。実に雅ですね」微量ながらもはっきりと硬い、諦めの混じった口調だった。彼女とこんな風に視線が合わないときほど怖いものはない。
「言葉にすら成らない気持ち、そは満たされし者から生じるものなり、ですよ、稀有なるほんのり暖かビーム連隊長」僕はもうどうしようもなかった。こんな空っぽな言葉を並べてみて、だから何だと言うんだ。
「意味わかんない」
もう彼女は完全に黙り始めたようだった。でも僕の心の震えと轟きはまだ彼女に届いてはいない様子だった。
それからしばらくの間、その新しいソファの上で鮮やかに青ざめたような沈黙が続いたけれど、それは近くに漂っているその空気をどうにか柔らかく沈静化してくれたようだった。僕の心の中でもコップの縁ぎりぎりまで液体がせり上がっていたけども、おかげで何とかこぼれずに済んだ。




