第四話 王太子殿下の、恋人になりました
最初のお誘いは、手紙で届いた。
『来週の休日、私と出かけてください。視察ではなく、あなたをお誘いしています』
念を押すような後半の一文を、セシリアは何度も読んだ。どういう意味かは、さすがにわかった。わかったからこそ、すぐには返事が書けなかった。
「わたくし、まだ、お返しできるものがなくて」
マリーに相談すると、鏡の前に座らされた。
「まずは、お出かけしたいかどうかをお考えください」
「したいわ」
自分でも驚くほど早く答えが出た。
彼と会えば楽しい。もっと話したい。笑ってもらえると、その日のことを何度も思い出してしまう。
「でも、まだ少し怖いの」
「何がでございますか」
「好きになって、また、待つだけになったら」
口にすると、鏡の中の自分が少し心細そうな顔をした。マリーは髪を梳かす手を止め、肩にそっと触れた。
「そのお気持ちも、お伝えになればよろしいのでは」
返事には、喜んでご一緒したいと書いた。怖さの話は、会ったときにする。便箋を封じてからも胸は落ち着かなかったが、後悔はしなかった。
*
休日の朝、アレクシスは約束の時刻ぴったりに侯爵家を訪ねた。
セシリアは薄桃色のドレスを選んだ。青以外の色で彼と出かけるのは、初めてだった。玄関で顔を合わせると、アレクシスの足が止まった。
「……とても、よく似合っている」
「ありがとうございます」
「花の色に合わせてくれたのか?」
以前贈られた籠の薔薇と、同じ色だった。気づいてもらえたことが嬉しくて、セシリアは小さく頷いた。
「好きな色だと思い出しましたので」
「なら、次も覚えておこう」
馬車に乗り込むために手を取られた。彼はいつも、指を預けるのを待ってくれる。その短い間が、セシリアには心地よかった。
行き先は、王立植物園だった。初夏の温室には珍しい花が咲き、来園者の少ない小道には、柔らかな木漏れ日が落ちている。護衛は姿の見える距離に控え、マリーと侍従も少し後ろを歩いていた。
「今日は、仕事の説明をしてはいけない日ですか?」
薬草の植え込みを前にして、セシリアが尋ねた。アレクシスは笑った。
「君が話したいなら聞く。義務でなければ、何でも」
「では、この葉のお話を少しだけ」
薬草の輸出について話し始め、気づけば新しい乾燥法の話にまで及んでいた。セシリアは慌てて口を閉じた。
「少しだけと申しましたのに」
「途中でやめられると、乾燥させた葉がどうなるのか気になる」
真顔で言われ、吹き出してしまった。続けて説明すると、彼は的確な質問を返してきた。ただ聞き流していたのではないとわかり、ますます嬉しくなった。
温室の出口で、子供にぶつかられそうになった。アレクシスが肩を支えてくれる。近くなった顔に、セシリアは息を詰めた。
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
手はすぐに離れた。けれど、肩にはまだ、温かさが残っている気がした。
彼が少しだけ手を差し出した。
「歩きにくければ、こちらを使ってくれ」
セシリアは、今度は迷わず、その腕に手を添えた。歩きにくかったわけではないと見抜かれないか、ひどく心配だった。
*
昼食のあと、二人は本屋へ寄った。セシリアが探していた旅行記を見つけると、アレクシスは自分の買う本と一緒に会計へ持っていこうとした。
「殿下、それは、わたくしが」
「贈らせてほしい」
「ですが、もう昼食もご馳走になりました」
「では、これは私の我儘だ。君が読むところを想像すると、買いたくなった」
それでもためらっていると、彼は本を彼女の手へ戻した。
「負担なら、遠慮なく断ってくれ。受け取らせるために誘ったのではない」
急に、自分の気持ちがはっきりした。困っているのは、贈り物が嫌だからではない。嬉しいと思うことを、そのまま受け取ってよいのかわからなかったのだ。
「……いただきたいです」
小さな声で答えた。アレクシスは笑わず、嬉しそうに頷いた。
「ありがとう」
お礼を言われるとは思わず、セシリアは目を丸くした。
本には薄い紙が掛けられ、紐で結ばれた。それを抱えて店を出ると、隣の飾り窓に銀細工が並んでいた。花びらのような小さな真珠の髪飾りに、つい目が留まる。
「それも似合いそうだ」
「いけません。本だけで、十分です」
「では、次の機会に」
「次も……あるのですか」
アレクシスが、まっすぐに彼女を見た。
「私は、また会いたい。君は?」
逃げ道を塞ぐ声ではなかった。けれど曖昧にもしてくれない。セシリアは本の包みを握りしめた。
「わたくしも、お会いしたいです」
「よかった」
彼の表情が緩む。それを見て、セシリアは初めて、誘う側も返事を待っているのだと気づいた。
*
夕方、侯爵家へ戻る前に、二人は植物園の展望台へ立ち寄った。人の少ない屋根付きの休憩所から、街の向こうに川が見える。
セシリアは膝に本を置き、言わなくてはと思っていたことを切り出した。
「殿下。わたくし、まだ、とても怖いのです」
アレクシスは隣で姿勢を正した。
「殿下とお会いするのは、楽しみです。今日も、朝からずっと嬉しくて……けれど、その分、怖くなります」
「また、傷つくのが?」
セシリアは頷いた。
「お優しいから、甘えてしまいそうで。いつか、ご迷惑になるほど、何でも望んでしまったらと」
「今日、君が望んだのは、もう一度会いたいということだけだろう」
「それだけでも、わたくしには、大きなことなのです」
アレクシスは少し考えた。それから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私は、いつでもすべてを叶えられるとは約束できない。急な公務もある。君を残念がらせる日も、あると思う」
胸が、少し縮んだ。しかし彼は続けた。
「そのときは説明する。別の日を一緒に決める。君が寂しいと言ったことを、我儘だと思わない。その約束ならできる」
セシリアは彼を見た。夢のようなことを言われたわけではない。だからこそ、これから先を思い浮かべることができた。
「……寂しいと、言ってもよろしいのですか」
「言ってほしい。察しのよい男だと、思いすぎないでくれ」
少し困ったような笑いに、セシリアも笑った。
「君と付き合いたい。弟の元婚約者だからでも、仕事ができるからだけでもない。よく笑って、好きなものの話をすると止まらなくなる、君が好きだ」
胸が熱くなった。俯こうとすると、彼の指が視界の端に見えた。触れるのではなく、隣の長椅子の上で待っている手だった。
セシリアは、そこへ自分の手を重ねた。
「……今日の帰り道が、少し寂しいと思っておりました」
アレクシスの手が、ゆっくり彼女の指を包む。
「それは、嬉しい」
「わたくしも、殿下のことが、好きなのだと思います。まだ上手に言えませんけれど……もっと、ご一緒したいです」
「十分、伝わった」
彼の声が、いつもより少し低かった。
「恋人として、誘ってもいいか」
「はい」
答えたあとで、急に恥ずかしくなった。恋人。自分のことなのに、聞いたことのない言葉のようだった。
アレクシスは握った手を持ち上げた。
「ここに、口づけても?」
小さく頷く。指先に唇が触れ、すぐに離れた。手袋越しなのに、熱が頬まで上ってくる。
「嫌ではなかった?」
「……嬉しかったです」
答えると、彼のほうも耳が赤くなっていた。完璧な王太子でも、同じように恥ずかしくなるのだと知って、セシリアはますます好きになった。
*
父には、アレクシスが自分から交際を申し入れた。職場での評価に影響させないこと、結婚を見据えた真剣な求愛であることを明言したうえで、セシリアの意思を改めて確かめた。
セシリアは、父の前で初めて自分の恋について語った。父は少し寂しそうな顔をしたが、最後には頷いてくれた。
それからの日々には、楽しみな約束が増えた。金曜の昼は一緒に食事をする。次の休日には芝居を観る。読んだ本の続きを手紙で話す。
髪飾りが届いたのは、二度目の外出の前日だった。以前、飾り窓で見たものだった。
『明日、似合っていると伝えるのを楽しみにしています』
セシリアは鏡の前で三度つけ直した。どの角度なら一番よく見えるかを気にしているうちに、マリーに笑われた。
約束の朝、髪飾りに気づいたアレクシスは、言葉のとおり褒めてくれた。
「想像したより、ずっと可愛い」
セシリアは返事の代わりに俯いた。こんなふうに褒められると、元気よく『はい』とは答えられなかった。
劇場へ入る前、セシリアは売店で二本のリボンを見つけた。芝居の題材にちなんだ紺と白の細い飾りで、観客たちは鞄や手首につけている。ひとつ買おうとすると、アレクシスが隣から覗き込んだ。
「私の分も選んでくれる?」
「殿下も、おつけになりますか」
「君と揃いなら」
セシリアは紺を彼に、白を自分に選んだ。上着の釦に結ぼうとすると、指先がうまく動かない。顔が近いせいだった。アレクシスは黙って待ち、ようやく結べた小さな蝶を見下ろした。
「これも、君からの贈り物だな」
「売店のリボンですのに」
「私のために選んでくれた」
同じ言葉を、彼は本のときにも口にした。自分が選ばれたことが、あんなに嬉しかった。その気持ちを今、少しだけ返せたのかもしれない。
観劇の間、二人の肘がときどき触れた。最後に恋人たちが再会する場面で、セシリアは膝の上の手をそっと動かした。隣からも指が伸び、暗がりで静かに繋がった。
終幕の拍手が始まるまで、そのままでいた。
その日は、観た芝居の恋人たちについて、帰りの馬車で話が弾んだ。主人公が相手の手紙を勘違いする場面で、セシリアはつい口を挟んだ。
「ひとこと、尋ねてみればよろしかったのに」
「では、私たちはそうしよう」
「……はい」
約束が増えた。派手なものではない。その小ささが、毎日に馴染んでいくのが嬉しかった。
*
夏の終わり、一緒に食事をするはずだった日に、隣国の河川氾濫の知らせが入った。
アレクシスからの使者は、約束の時刻より前に来た。会議が長引くため今日は会えないこと、代わりに翌々日の夕方はどうかということが、本人の短い手紙に書かれていた。
セシリアは、紙を持ったまま固まった。事情はわかる。自分も交易局で緊急の輸送路を調べている。それでも、胸の古い傷がひりついた。
いつものように『お気になさらず』と書きかけ、手を止めた。
『ご事情、承知いたしました。お役目を果たしていらしてください。ただ、今日はお会いできるのを楽しみにしておりましたので、少し寂しいです。翌々日を、楽しみにしております』
封をするまで、何度も読み返した。重い言葉ではないだろうか。困らせないだろうか。
その夜、彼から一枚だけ便箋が届いた。
『私も、会えずに残念だった。伝えてくれてありがとう。明後日は、君の話を聞かせてほしい』
セシリアは便箋を胸に押し当てた。
翌々日、彼は約束を守った。侯爵家の庭で、遅い茶を飲んだ。救援輸送の目途が立ったことを話したあと、セシリアが庭で見つけた鳥の話を聞いた。
帰り際、彼女は勇気を出して言った。
「もう少しだけ、いていただけますか」
アレクシスは時計を確かめた。
「十五分なら」
小さな砂時計を卓上に置き、椅子へ戻ってくれる。セシリアは嬉しくて、その十五分に何を話すか、かえってわからなくなった。
「……手を、繋いでいてもよろしいですか」
「それは、ぜひ」
少し笑いながら、彼が手を差し出した。夕暮れの庭で、二人はしばらく、言葉もなく座っていた。
砂が落ちきる前に、セシリアは名前を呼んだ。
「アレクシス様」
初めてだった。彼は目を見開き、握る手に少し力を込めた。
「……もう一度」
「アレクシス様」
返事の代わりに、彼が額を寄せてきた。触れてよいかと目で尋ねられ、セシリアは頷いた。
額に、柔らかい口づけが落ちた。瞼を閉じると、次は頬に触れた。
「甘やかしすぎでは、ございませんか」
囁くと、彼がすぐそばで笑った。
「ずっと、そうしたかった」
セシリアは手を離さず、砂時計をちらりと見た。まだ、ほんの少し残っている。
「では、もう少しだけ」
自分から寄り添うと、今度はアレクシスが、困ったように赤くなった。




