第三話 もう、呼ばれても戻りません
「セシリアは、いつまで休むつもりなんだ」
アルベルトは、侍従長が置いた書状を脇へ押しやった。王家の裁可を知らせる正式な文書だったが、内容はすでに聞いていた。
国王からは厳しく叱責された。正妃の約束を一方的に変更しようとしたこと。正式な認可もなく、隣国王女との縁談を本人に既定の方針のように伝えたこと。どちらも軽率だと言われた。
だが、婚約解消だけは、まだ現実味がなかった。
「王女の件が気に入らないなら、そう言えばよかったんだ。なぜ侯爵まで出てくる」
「侯爵令嬢は、ご希望をお伝えになったと伺っております」
「一人の嫁になりたいとか、そういう話だろう。だから話し合おうと言っている」
話し合う必要があるなら、呼べば来ると思っていた。しかし使者は侯爵家の門で取り次ぎを断られ、仕事の依頼にも返答はなかった。送られてきたのは、返却済みの資料目録だけだった。
困っていると伝えれば、放っておけないはずなのに。
「……拗ねるにしても、長すぎる」
侍従長は、何も言わなかった。
*
セシリアが初めて自分のためだけに外出した日は、よく晴れていた。
マリーと本屋を二軒回り、帰りに菓子店へ寄った。菓子職人が仕上げている苺のタルトを見て、思わず足が止まる。つややかな苺と白いクリームの組み合わせが、子供の頃から好きだった。
「こちらを、ひとつお願いします」
注文してから、胸が小さく弾んだ。誰に気に入られるかを考えずに選ぶのは、久しぶりだった。
店を出たところで、名前を呼ばれた。振り向いた瞬間に背筋が伸びたのは、まだ以前の癖が残っているせいだ。
けれど、そこにいたのはアレクシスだった。背後には供の者が二人いる。近くの印刷工房を訪ねた帰りだという。
「お元気ですか、ローレンス嬢」
「はい。お花を、ありがとうございました」
「気に入ってもらえたならよかった」
「毎朝、お水を替えております。昨日は、つぼみがもう一輪開きました」
つい詳しく報告すると、彼は嬉しそうに笑った。忙しい王太子に余計な話をしたかと思ったが、そんな顔ではなかった。
「その箱は?」
「苺のタルトです。とても美味しそうでしたので」
「近くに、茶の美味しい店がある。よければ付き合ってくれないか。菓子の持ち込みもできる」
セシリアは頷きかけて、時計を見た。アレクシスはすぐに気づいた。
「次の予定まで、一時間ある。君に会うために誰かを待たせるわけではないよ」
「……では、喜んで」
誰かの時間を奪うのではないと思うと、素直に嬉しかった。
茶店で箱を開くと、タルトはひとつしかなかった。セシリアは困ってフォークを置いた。
「殿下の分を、買っておりませんでした」
「偶然会ったんだ。当然だろう」
「ですが、わたくしだけいただくのは」
「私は店の菓子を頼む。気を遣わず、食べてほしい」
彼は本当に気にしていなかった。セシリアがひと口食べて顔をほころばせると、満足そうに頷く。
「それほど美味しいなら、次は私も買おう」
「はい。ぜひ。苺が甘くて、でもクリームは軽くて……」
説明するうちに楽しくなった。アレクシスは茶を飲みながら聞いてくれた。急いで結論を出さなくても、途中で別の話に替えられることもない。
やがて仕事の話になった。セシリアが、また外交実務に携わりたいと漏らすと、彼は外務院で顧問を公募する予定があると教えてくれた。
「私の担当する交易局だ。君の実績なら、審査を受ける価値は十分ある」
「わたくしでも?」
「もちろん。ただし、私が今ここで採用を決めることはしない。勤務条件を読み、君自身で選んでほしい」
渡されたのは、俸給と勤務時間、職務の範囲を記した要項だった。セシリアは紙を両手で受け取った。
役に立ちたいと思うことと、仕事として引き受けることが、初めて別々の形になって目の前にあった。
*
審査と面談を経て、セシリアは初夏に交易局の外交顧問へ就任した。報告先は局長。重要な会議には王太子も同席するが、日々の業務を彼一人から請け負うわけではない。
自分の机と名札が用意されていた。隣の席の官吏が挨拶し、昼休みには一緒に食堂へ行った。自分の名前で意見書を提出し、その名で返事をもらった。
不思議に思う暇もなく仕事は楽しく、初めの週に、つい定刻を過ぎて机に残った。
「帰る時間だ、ローレンス顧問」
会議帰りのアレクシスが、開いた扉から声をかけた。セシリアは反射的に立ち上がる。
「あと少しですので」
「その少しは、何頁だ?」
「……八頁ほど」
「明朝、局長に優先順位を確認しよう。今夜中に必要なら、分担する」
叱られたわけではない。それでも、ひとりで抱えていたことが恥ずかしくなった。
「早く完成したものを、お見せしたくて」
「ありがとう。だが、君が無理をしたと知れば、喜べない」
セシリアはそっとペンを置いた。アレクシスが安堵したように微笑む。
「仕事は、よくできている。そこは心配しなくていい」
言ってほしかったことを先に言われて、頬が熱くなった。褒められると嬉しい癖は、まだ直らない。けれど、この人の前では、それを隠さなくてもよい気がした。
*
第二王子府では、別の問題が続いていた。
セシリアの引き継ぎ書は揃っている。定められた手続きも、先方の連絡先も書いてある。それなのにアルベルトが、担当官の判断を待たず、以前の慣行と違う条件を商人に約束してしまった。
彼は、セシリアがいつも先に相手の意向を確かめ、裏で調整していたことを知らなかった。
「従来の輸送枠より、増やしてやればいいだろう」
「その場合、南方との契約に抵触します。添付の注意事項にも……」
「そんな細かいことは、あとで合わせればいい」
合わせる役がいなくなったあとで、矛盾した約束だけが残った。協議は外務院へ差し戻され、第二王子府には決裁手順の監査が入った。
隣国からも返答が来た。王女との婚姻を検討する意向はない。既存の協定は維持するが、私的な会話を正式な外交上の打診として扱わないでほしいというものだった。
国王は激怒した。アルベルトは、セシリアが戻れば説明してくれるはずだと思った。
誰もが自分を責めるときも、彼女だけは味方だった。困っていると言えば、いつだって全力で助けてくれたのだ。
*
アレクシスを交えた会議が終わったあと、セシリアは王太子府の打合せ室に残っていた。遅れて届いた輸送日程を、局長と確認していたのである。
廊下から、よく知る声がした。
「セシリア!」
心臓が大きく鳴った。顔を上げたのが嬉しいからなのか、怖いからなのか、自分でもわからなかった。
アルベルトが入ってきた。止めようとする侍従に、兄上に会いに来たのだと言っている。
「こんなところにいたのか。私がどれだけ困っていると思っている」
セシリアは椅子から立った。彼の眉間には、深い皺が寄っている。以前ならすぐに事情を尋ね、直せるところを探しただろう。
「お仕事のお話でしたら、局長へお申し入れください」
「君に話しているんだ」
「今は、わたくし一人でお受けすることはできません」
自分の声が震えている。机の縁に添えた指にも、力が入った。
「誰にそんな言い方を教わった。兄上か?」
「わたくしが決めました」
「いいから戻ってこい。王女の件はもうなくなった。君も、それならよいだろう」
望んでいた言葉に、似ていた。けれど、似ているだけだった。
「王女様とのお話がなくなったことと、わたくしが戻ることは関係ございませんわ」
「君は私が好きだろう」
好きだった。今も、声を聞けば胸が痛い。それを見抜かれていることが、苦しかった。
「……だから、何でもお引き受けすると思わないでください」
アルベルトが目を見開いた。セシリア自身も驚いた。こんなことを言えるとは、思っていなかった。
「殿下のお幸せは、願っております。ですが、もう婚約者には戻りません」
「セシリア、意地を張るのは――」
「その返答は、もう届いたはずだ」
アレクシスが会議室の奥から歩いてきた。セシリアの腕を取ることはせず、隣に立つ。
「正式な申し入れもなく、職場へ押しかけて答えを変えさせようとするな。彼女は断った」
「兄上は関係ないでしょう」
「ここで働く者を守る責任がある。退出してくれ」
アルベルトは兄とセシリアを見比べた。何かを言いかけたが、侍従長に促され、唇を噛んで背を向けた。
足音が消えてからも、セシリアは動けなかった。アレクシスが椅子を引いてくれた。
「座れるか」
「……はい。申し訳ありません、お仕事中に」
「君が謝ることではない」
彼は局長に事情の記録を頼み、ほかの者と一緒に席を外してもらった。開けた扉の近くに侍女だけが残る。急に静かになった部屋で、セシリアは俯いた。
「まだ、好きなのだと思います」
言わなくてもよいことを、言ってしまった。
「困っていらっしゃると思うと、今でも、助けに行きたくなるのです」
「十年分の習慣だ。一日で変わらなくても、いいだろう」
「でも、戻りたくはなくて」
「なら、戻らなくていい」
簡単に答えてくれる声に、張り詰めていたものが緩んだ。手巾を差し出されると、涙が落ちた。
アレクシスは、泣きやむまで急かさなかった。慰める言葉を並べることも、忘れろと言うこともなかった。
「……わたくし、いつか、平気になるでしょうか」
「今日、断れた。次は少し楽になるかもしれない」
セシリアは頷いた。確かな未来を約束されるより、今の一歩を認めてもらえたことが嬉しかった。
立ち上がろうとすると足に力が入らず、差し出された手を借りた。大きな手だった。握り返す強さを、彼はこちらに合わせてくれた。
もう少しだけ離したくない、と思ったことは、誰にも言わなかった。
*
数日後、アレクシスから届いたのは、小さな紙包みだった。中には、青い花をかたどった砂糖菓子が入っている。
『先日の店で見つけました。休憩のときにどうぞ。仕事のお礼とは別です』
別です、という一文に首を傾げていると、同僚が笑った。
「それでは、何のお礼でしょうね」
セシリアは返事ができなかった。菓子をひとつ口に入れると、ほろりと溶けて、花の香りがした。
礼を言うため、昼休みに王太子府へ顔を出した。侍従に伝言を頼むつもりだったが、ちょうどアレクシスが出てきた。
「お気に召したようで、よかった」
「とても美味しゅうございました。あの、何か、お返しを」
「では、次に店で会ったら、一緒に茶を飲んでほしい」
「そのようなことで、よろしいのですか?」
「そのようなことが、いいんだ」
目が合った。穏やかなのに、冗談には聞こえない声だった。
「偶然を待つのも難しい。来週、誘っても構わないだろうか」
胸の奥が小さく跳ねた。今までのように、仕事の相談があるのだろうとは思えなかった。
「……はい。お待ちしております」
答えると、彼が本当に嬉しそうに笑った。セシリアは足元を見た。自分も笑っているのを、見られるのが恥ずかしかった。
帰り際、アレクシスが名前を呼んだ。振り向くと、今度はすぐに言葉が続いた。
「セシリア。会えて嬉しかった」
頼み事は、なかった。
セシリアは執務机へ戻ってからも、そのことを何度も思い返した。
夕方、帰り支度をしていると、隣の官吏が昼に提出した意見書を持ってきた。提案が採用されたので、明日の検討会で説明してほしいという。
「局長が、よい案だと仰っていました」
「ありがとうございます。準備してまいります」
答えてから、以前なら真っ先にアルベルトへ知らせただろうと思った。自分が役に立ったことより、その報告で笑ってもらえることが楽しみだった。今は少し違う。局の者が読み、意見を足し、自分の案が仕事の形になっていく。それ自体が、こんなに嬉しい。
机の名札をそっと正してから、セシリアは鞄を持った。
廊下の窓の外は、まだ明るい。家に帰っても、寝る前に一冊、本を読めそうだった。今日の出来事を母にも話そう。そう考えたら、帰り道まで楽しみになった。
侯爵家に着くと、母は庭の花を摘んでいた。手伝いながら仕事の話をすると、よかったわね、と笑ってくれた。その顔を見て、長い間、心配をかけていたのだと知った。
「明日は早く帰れたら、一緒にお茶を飲んでくださいませ」
「もちろん。お菓子は何にしましょう」
誰かと約束するのが、また楽しみになっている。セシリアは籠に花を足しながら、そっと笑った。




