第二話 十年間待った花嫁
水色の手帳の最後には、まだ叶っていない約束が並んでいた。
『殿下と湖へ行く』
『一緒にお芝居を見る』
『お誕生日に、二人でお茶を飲む』
十歳の頃に書いた大きな文字と、最近の細い文字が入り交じっている。叶った願いには、小さな花を描くことにしていた。初めの数ページには、歪な花がたくさん咲いている。後ろへ進むにつれて、余白が増えていた。
セシリアは新しい頁を開いた。北方協定の祝賀会で、頭を撫でてもらったことを書く。嬉しかったことまで、なかったことにはしたくなかった。
ペンを置いたところへ、マリーが手紙を持ってきた。アルベルトからだった。
『今後の婚姻について、話がある』
短い一文を三度読んでから、セシリアは椅子を倒しかけた。
「マリー。どうしましょう」
「まず、お座りくださいませ」
「お座りしている場合ではないわ。ドレスを選ばなくては」
紺色は堅すぎるかもしれない。水色なら、顔が明るく見えるだろうか。鏡の前で布を当てては戻し、真珠の耳飾りをつけたり外したりした。
マリーは笑いながら付き合ってくれた。いつもなら小言のひとつも言うのに、その日は一度も言わなかった。
「お嬢様が、ずっと楽しみにしていらしたことですものね」
「……ええ」
セシリアは、首元に触れた。初めて名前を呼ばれたときと同じくらい、胸が弾んでいる。
「わたくし、変なことを言ってしまうかもしれないわ」
「嬉しいとお伝えになればよいのですよ」
「泣いてしまったら?」
「嬉し涙なら、よろしいではありませんか」
そう言われると、今から涙が出そうになった。十年分の夢が、ようやく明日の形になる。セシリアは手帳を開き、新しい行に小さく書いた。
『明日、お式の日が決まるかもしれない』
*
小応接室にいたのは、アルベルトだけではなかった。隣にリリアが座っている。相談事の証人役だろうかと思い、セシリアは二人に挨拶した。
アルベルトは上機嫌だった。
「北方協定で、私も少しは兄上に近づけた。次は、もっと国に貢献したい」
「はい」
「隣国との同盟を、婚姻によって強めるんだ」
セシリアは頷きかけた。けれど、誰と誰の婚姻なのかが、すぐにはわからなかった。
「隣国の第三王女は十七歳だ。私と年齢も釣り合う。向こうの大使も、よい組み合わせだと言っていた」
膝の上の指が、冷たくなった。
「……殿下と、王女殿下が?」
「まだ打診の段階だがな。そこで、君に頼みがある」
頼み。その言葉を聞くと、身体のほうが先に反応した。セシリアは背を伸ばし、微笑んでしまった。
「はい。何でしょう」
「王女の好みと、向こうの宮廷儀礼をまとめてくれ。嫁いできてから不自由をさせたくない」
「……承知いたしました」
王女のお好きな花を調べなくては。侍女は何人お連れになるだろう。信仰や食事の習慣も確かめなくてはならない。
頭の中に仕事が並んで、それからようやく、自分がどこにいるのかを見失った。
「あの。わたくしたちの婚礼は、どうなるのでしょう」
「心配するな。君には側妃になってもらう」
聞き間違いではなかった。アルベルトは笑っていた。何も奪っていないという顔だった。
「王女には王女の役目がある。君には、これまでどおり私を支えてほしい。君ほど仕事のできる女性を手放すつもりはないよ」
隣でリリアが、安堵したように息をついた。
「よかったですわ。セシリア様なら、アルベルト様のお考えをわかってくださると申しましたの」
「……リリア様も、ご存じだったのですね」
「ええ。わたくしなど、おそばにいるお許しだけでも十分ですのに。セシリア様はお立場までいただけるのですもの」
声を荒らげる人は、誰もいなかった。温かな茶が出され、窓の外では庭師が枝を剪定している。こんなに普通の午後に、長く思い描いた未来は変わってしまうのか。
「わたくしは……殿下の、たった一人のお嫁さんになりたかったのです」
言ってしまった。困らせる言葉を、とうとう。
アルベルトは眉を寄せた。
「王族の婚姻に、そんなことを言うのか」
「ですが、わたくしとの婚約には、ほかのお妃を迎えるお約束は……」
「だから、今話しているんだろう。君なら、国のためだと理解してくれると思っていた」
国のため。そう言われると、自分の望みだけが、ひどく小さく見えた。セシリアは唇を結んだ。泣いてはいけない。王女は何も悪くない。彼の将来を、邪魔してはいけない。
「……おめでとう、ございます」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると思った」
アルベルトは安心したように茶を飲んだ。
「君との式は、王女がこちらに慣れてからだな。数年は必要だろうが」
「数年……」
「君のことは後で。今は、先に片づけることがある」
セシリアは彼を見た。
あとで。十歳の自分なら、頷けた。十五歳の自分も、十八歳の自分も頷いた。そのたび、先に待っているものがあるのだと信じていた。
でも、目の前の人はもう、いつになるかさえ約束しない。
「……わかりました」
返事をしたのに、笑顔にはならなかった。アルベルトはそれに気づかず、王女のための資料について話を続けた。
*
馬車に乗ると、マリーがそっと顔を覗き込んだ。
「お日取りは、お決まりに?」
セシリアは首を振った。
「殿下は、王女様とご結婚なさりたいそうよ」
マリーの顔から、笑みが消えた。
事情を最後まで説明したあとで、セシリアは鞄を開いた。いつものように手帳を取り出す。王女のことを、忘れないうちに書いておこうとしたのだ。
開いた頁に、昨日の自分の文字があった。
『明日、お式の日が決まるかもしれない』
ペン先が、紙の上で止まった。
「……わたくしね。最初に、お花を調べなくてはと思ったの」
「お嬢様」
「自分の結婚式の話をしに来たのに、王女様のために、何ができるか考えてしまった」
そのあとで思い出したのだ。白いドレスを着たいのは、自分でもあったのだと。
「わたくしが待っていたのは、何だったのかしら」
声にした途端、涙が落ちた。慌てて手帳を閉じたが、もう一滴、表紙に丸い染みができた。
「大好きなのよ。今でも、殿下が」
「はい」
「だから、お祝いしなくてはと思ったのに。どうしても、嬉しくないの」
マリーは否定しなかった。泣いてもよいとも、忘れなさいとも言わず、ただ手を握ってくれた。セシリアはその手にしがみついた。
誰かの前で、きちんとできない自分を見せるのは久しぶりだった。けれどマリーは、手を離さなかった。
*
その夜、セシリアは父の執務室を訪ねた。父は娘の顔を見た瞬間に書類を伏せ、母を呼んだ。三人で長い時間をかけて話した。
王家の定める婚約では、正妃として迎えることが確認されていた。本人に相談もなく、その条件を下げることはできない。王女との話も、国王や外務院を通した正式な縁談ではなかった。
父は淡々と説明した。怒りを抑えているのが、その声でわかった。
「取り消させることはできる。お前が望むなら、約束を守らせよう」
セシリアは長いこと黙っていた。あれは間違いだったと言ってほしい気持ちはあった。いつものように名前を呼ばれれば、喜んでしまう自分も、まだいる。
けれど、父の力で椅子を取り戻しても、彼が隣に座りたいと思うかどうかは、変えられない。
「……わたくし、殿下に命じられて、お嫁さんになりたかったのではないのです」
母が静かに頷いた。
「一緒にいたいと、思っていただきたかった」
「ええ」
「だから、もう……終わりにしたいです」
口にすると、胸が潰れそうだった。それでも、言い直さなかった。
父は机を回って娘の前に来た。
「わかった。手続きは私がする。お前は、休みなさい」
「でも、引き継ぎが」
「それも明日だ。今夜は眠りなさい」
セシリアは頷いた。けれど部屋へ戻ると、すぐには眠れなかった。引き出しの中の小箱を出し、懐中時計の蓋を開く。
彼のために選んだ青い針が、休まず進んでいた。
「あなたの時間が、幸せで満ちますように」
声にして読んでみた。今でも、そう願っている。苦しんでほしいわけではない。だが、そのために自分が苦しみ続けなくてもよいのではないか。
セシリアは時計をしまい、便箋を取り出した。
『アルベルト殿下。十年間、殿下のおそばで過ごした時間は、わたくしにとって大切なものでした』
書き出すと、泣きたくなることばかり思い出した。初めて手紙をもらった日。風邪のとき、花を届けてくれたこと。十年前の薔薇園のこと。
それでも、続けた。
『ですが、わたくしは正妃としてお迎えいただくお約束を、側妃という形に変えることを望みません。どうか、婚約を解消してくださいませ』
十年が間違いだったと書くことはできなかった。けれど、これから先を差し出すとも書かなかった。
父に託す正式な書状とは別に、本人へ渡す手紙を封じた。封蝋に印を押す手が震えて、一度失敗した。二度目は、綺麗にできた。
*
翌週、ローレンス侯爵家から国王へ、婚約解消の請願が提出された。
父は、アルベルトが新たな縁談と側妃への変更を申し渡した経緯を記し、娘の意思を明確にした。王家からは審議中の公務免除が認められ、セシリアは王宮へ通わなくなった。
それでも朝になると、早く支度をしなくてはと思う。届くはずのない仕事の指示を待って、窓を見てしまう。
代わりに、引き継ぎ資料を作った。仕事を途中で投げ出したくはなかった。担当官が困らないように、進捗と未解決の事項、連絡先をまとめ、機密書類は王宮の書記官立会いで返却した。
返却に来た書記官は、最後に一礼した。
「北方の交渉では、私の不手際まで助けていただきました。あのときのお礼を、まだ申し上げておりませんでした」
セシリアは驚いて顔を上げた。若い書記官が、大使館へ送る書類の部数を間違えたことは覚えている。だが、王宮の印刷係へ追加を頼んだだけで、礼を言われるようなことではないと思っていた。
「困ったときは、お互いさまですもの」
「それでも、助かりました。次の担当官にも、きちんとお伝えします」
彼が帰ってから、セシリアはしばらく扉を見ていた。アルベルトのためにしていたと思ったことが、ほかの誰かの役にも立っていた。その人が覚えていてくれたことが、思いがけず嬉しかった。十年を全部、空っぽだったと思わずに済む気がした。
自分の私物だけが残ると、机は驚くほど広くなった。
「こんなに、大きかったかしら。この机」
「小さく見えていたのではございませんか。いつも山のようでしたから」
セシリアは少し笑った。笑えるとは思っていなかったので、自分で驚いた。
その日の午後、花が届いた。大きな花束ではない。淡い桃色の薔薇を、白い小花で囲んだ、机に置けるほどの籠だった。
差出人はアレクシスだった。
『返事は不要です。今は、よく休んでください。北方の後続協議は外務院が引き受けました。あなたが案じる必要はありません』
花を眺めるより先に、最後の二行を何度も読んだ。誰かが代わってくれた。自分が動かなくても、仕事は続いていく。
ほっとした途端、申し訳なさがこみ上げた。役に立てなくなった自分に、どうして花を贈ってくださるのだろう。
小さな礼状を書きかけ、返事は不要という文字を見てやめた。今日は、休んでみよう。セシリアは籠を窓辺に置いた。
*
父に呼ばれたのは、それから十日ほど経った夕方だった。国王の裁可が下りたのである。
婚約は、王子側から当初の条件を変更しようとしたことを理由に解消される。ローレンス家とセシリアに責はない。今後の接触は、本人の同意を得た正式な申し入れによるものとする。
書状を読み終えて、セシリアは頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
「後悔しているか」
すぐには答えられなかった。寂しいのと後悔しているのとは、同じなのだろうか。会いたい気持ちと、戻りたくない気持ちは、両方あってもよいのだろうか。
「……悲しいです」
「そうだろうな」
「でも、取り消してほしいとは、思いません」
父は、娘の頭をそっと撫でた。セシリアは俯いたまま、その手を受け止めた。
部屋に戻り、水色の手帳を開いた。約束の欄に花は描かなかった。代わりに、細い線を引こうとして、手を止める。
湖も、お芝居も、好きなままでいい。それまで嫌いにならなくてもいい。
セシリアは『殿下と』の文字だけを、そっと囲んだ。その横に、少し迷ってから、新しく書いた。
『いつか、自分で出かける』
インクが乾くのを待つ間、窓辺の薔薇を眺めた。届いた日より、ひとまわり大きく花びらが開いていた。




