第一話 大好きな殿下の、一番になりたかった
セシリア・ローレンスには、どうしても直せない癖がある。婚約者に名前を呼ばれると、それだけで嬉しくなってしまうのだ。
「セシリア」
「はいっ!」
勢いよく顔を上げると、執務机の向こうでアルベルトが笑った。金色の髪に青い瞳。十九歳になった第二王子は、出会った頃よりずっと背が高い。
「まだ何も頼んでいないぞ」
「申し訳ありません。殿下がお呼びくださったので、つい」
「北方交易路の件だ。明日の会議までに、対応案をまとめてくれないか」
「お任せくださいませ」
分厚い書類を受け取る。胸に抱えると、紙の角が少し腕に食い込んだ。それさえ、頼りにされている証のようで嬉しかった。
今日は二十歳の誕生日だった。十歳で婚約してから、ちょうど十年。鞄の中には、半年かけて職人に作ってもらった銀の懐中時計が入っている。自分の誕生日に贈り物をするのも変かもしれない。けれど、十年間のお礼を伝えたかった。
「あの、殿下。夕方は、お時間がございますか」
「夕方?」
「少しだけ、ご一緒にお茶を……」
「今日はリリアの見舞いに行く。昨夜から熱があるそうだ」
セシリアは鞄に伸ばしかけた手を止めた。幼馴染のリリア・ベルモント子爵令嬢は、幼い頃から身体が弱い。つらいときに心細くなる気持ちは、セシリアにもわかった。
「そうでしたか。どうか、お大事になさってとお伝えください」
「君は物分かりがよくて助かる」
その一言で、落ちかけた肩が元に戻る。よかった。困らせずに済んだ。
それでも、時計だけなら渡せるかもしれない。セシリアは小箱を取り出した。
「でしたら、こちらを。殿下にお渡ししたいものが……」
扉を叩く音がして、侍従が入ってきた。子爵家の使者が、玄関で待っているという。
「もう来たのか。すぐに出る」
「殿下、あの」
「すまない、セシリア。君のことは後で」
アルベルトは上着を取った。忙しそうな背中を呼び止める勇気はなかった。
「はい。お気をつけて」
扉が閉じたあと、セシリアは小箱を開けた。裏蓋に刻んだ文字を、指先でそっとなぞる。
『あなたの時間が、幸せで満ちますように』
職人に見せたときは、恋文みたいだとからかわれた。恥ずかしかったけれど、直さなかった。ほかの言葉は、思いつかなかったから。
「……また今度ね」
時計をしまい、書類を開く。今日の会議に間に合うよう、まずは相手国の要求を整理しなくては。セシリアは窓の明かりに机を寄せた。
*
最初に好きになったのは、王子様だったからではない。
十年前の春、顔合わせに向かう薔薇園で、庭師見習いの少年が道具を落とした。叱られると思ったのか、少年は真っ青になった。すると九歳のアルベルトが、自分の手を汚して道具を拾ったのである。
『君たちが世話をしてくれるから、こんなに綺麗なんだな。ありがとう』
その言葉を、セシリアはずっと覚えていた。
お茶の席で『私を支えてくれるか』と尋ねられたとき、精いっぱい頑張りますと答えたのも、あの人の役に立ちたかったからだ。彼は少し驚いて笑い、彼女の頭を撫でた。
帰宅してから、セシリアは撫でられたところばかり気にしていた。母に髪を梳かされると、そこはそっとお願いします、と頼んだ。母は笑ったが、セシリアは真剣だった。嬉しかった気持ちまで、梳かしてしまいたくなかった。
約束の始まりは、ごく小さなものだった。算術が得意なセシリアは、王子の課題に付き合った。彼が外国語を習い始めると、同じ教本を買ってもらった。ひとつ先に覚えておけば、尋ねられたときに答えられる。
十三歳で宮廷書庫の資料整理を手伝い、十六歳からは指導官のもとで外交文書の下調べを担当した。正式な決裁権はない。けれど、各国の関税や穀物の相場を比べる仕事は面白かった。
覚えることが増えるほど、アルベルトの隣でできることも増えた。
『セシリアがいて助かった』
その一言を聞きたくて、次の本を開いた。
けれど、いつからだろう。お礼を言われる回数が減り、書類を手渡すだけの面会が増えた。楽しみにしていた芝居の日にも、湖へ出かけるはずだった日にも、別の用事が入った。
約束がなくなるわけではない。後になるだけなのだと思った。そのうちに、二人で笑って話せるはずだった。あの頃は本当に忙しかったな、と。
*
誕生日の夜は、家族が食卓を囲んでくれた。母が好きな花を飾り、父が新しい筆記具を贈ってくれた。蝋燭の明かりの下で、セシリアは何度もお礼を言った。
食後、父が王宮の書類を見つけた。
「今夜も仕事か」
「明朝までですので。でも、もう半分できています」
「残りを明日に回すことはできないのか」
「殿下がお困りになります」
父は、しばらく娘を見ていた。いつものように叱られるかと思ったが、何も言われなかった。ただ、少し冷めた紅茶を、新しいものに替えてくれた。
セシリアは夜更けまで机に向かった。相手国は関税収入の減少を恐れている。しかし、北部では薬草が不足しているという大使の話を思い出した。輸出の優先枠を設ければ、関税とは別の利点を示せる。
提案を書きながら、思わず笑みがこぼれた。いい案になりそうだ。殿下にお見せするのが楽しみだった。
翌朝、資料は本人に説明してから事務官へ渡した。今日は小箱を持ってこなかった。贈り物には、もう少し落ち着いた日を選ぼうと思ったのである。
説明を終えると、アルベルトは要点の紙だけを抜き取った。
「やはり君は優秀だな。これならいけそうだ」
「はい。薬草の輸出については、薬師組合にも確認を取ってございます」
「助かる。会議にも同席してくれ」
胸が弾んだ。誕生日は終わってしまったが、それでもよかった。今日も隣にいられる。
会議では、セシリアの案が交渉の基礎として採用された。国王の前で説明したのはアルベルトだったが、詳しい質問には指導官の許可を受けてセシリアが答えた。向かいの席で、第一王子アレクシスが静かに聞いていた。
黒髪に深い青の瞳。二十二歳の王太子は、弟とは違って容易に笑わない。けれど、セシリアが薬草の収穫量を説明し終えると、小さく頷いた。
「輸送中の損耗まで調べてあるのか。よく気がついたな」
「恐れ入ります」
セシリアは姿勢を正した。褒められるのは嬉しい。だが、その直後にアルベルトが満足そうに笑ったことのほうが、もっと嬉しかった。
*
北方との交渉は、一月かけてまとまった。
セシリアは大使館へ通い、薬師組合の代表と輸送条件を詰めた。対立する意見を聞くのも苦ではない。言葉の奥にある心配がわかれば、折り合えるところを探せるからだ。
ただ、婚礼の話は進まなかった。十八歳を過ぎてから二度延期されていた式は、今度の功績を正式に認められるまで待ちたいという、アルベルト本人の希望で再び先送りになった。
「お前に断ってから願い出たのか」
父の問いに、セシリアは首を振った。
「でも、お気持ちはわかります。殿下はお兄様と比較されることを気になさっていて……」
「その気持ちを、お前が何年も待つ理由にしてよいわけではない」
父は、延期を無期限では認めないと答申したという。夏までに日程を定めること。それが侯爵家の条件だった。
父が怒っている理由はわかった。それでも、急かしてアルベルトに嫌われたらと考えると怖かった。
「お父様。殿下は、初めから冷たい方だったのではありません」
「知っている」
「お優しいのです。本当に」
「ならば、その優しさをお前に向けるよう、求めてもよいはずだ」
セシリアは返事ができなかった。好きだと言うのは、難しくなかった。役に立ちたいと言うのも。しかし、自分にも優しくしてほしいと頼むことが、こんなに怖いとは知らなかった。
*
協定成立を祝う夜会で、アルベルトは国王から労いを受けた。王子として交渉団を率いた責任と成果を認められたのである。
セシリアは離れたところから、懸命に拍手を送った。やがて彼が振り返り、名前を呼んだ。
「セシリア。君のおかげだ」
「殿下……!」
嬉しくて、頬が緩んだ。アルベルトが久しぶりに頭を撫でる。幼い頃と同じ仕草に、胸がいっぱいになった。
「よく頑張ったな」
「はい。殿下がお喜びくださるのが、一番嬉しいです」
今なら聞ける気がした。結婚式のお日取りはどうなりますか、と。父に言われたからではなく、自分が聞きたいこととして。
けれど、口を開くより先に、リリアが近づいてきた。人の多い広間で気分が悪くなったらしい。顔色が悪く、扇を握る指が震えている。
「アルベルト様、少しだけ、そばにいていただけませんか」
「休憩室へ行こう。セシリア、話は後で聞く」
セシリアは反射的に頷いた。
病人を引き止めたいわけではない。代わりに付き添う侍女だっているのに、と考えてしまった自分が嫌だった。二人の背中が見えなくなるまで、笑顔でいることだけに集中した。
「手が冷えている」
横から声がして、驚いて振り向く。アレクシスが、給仕から温かな茶を受け取って差し出していた。
「殿下。申し訳ありません、気がつかず」
「謝ることではない。座らないか」
窓際の椅子へ促された。彼は立ったまま話しかけるのではなく、隣の椅子に腰を下ろした。
「今日の立役者が、ずっと端にいるのが気になった」
「わたくしは、十分楽しんでおります」
「そうか。それならいい。だが、もし踊りたければ付き合ってくれないか。私も一曲くらい楽しみたい」
セシリアは、つい広間の入り口を見た。戻ってくるかもしれない人を探す癖だった。
「一曲の間に弟が戻ったら、私から説明する」
「……では、喜んで」
差し出された手に指を重ねる。曲が始まると、懐かしい楽しさが足元から戻ってきた。踊るのは好きだった。相手の歩調を追うのではなく、音楽に二人で乗っていく感覚が、こんなに心地よかったなんて。
「笑ったな」
「え?」
「いや。誘ってよかったと思って」
見上げると、彼も笑っていた。少し照れたような笑顔だった。
曲の終わりに、アレクシスは北方の交渉についてもう一度礼を述べた。報奨の申請に、彼女の名前が正しく記載されていることも教えてくれた。
「何か、ほかに望みはあるか」
セシリアはうっかり、本当のことを言った。
「殿下と、一日お出かけできたら」
アレクシスの指が、ほんの少し止まる。セシリアは慌てて付け足した。
「アルベルト殿下と、です。お忙しいので、難しいとは存じますけれど」
「……そうか」
「わたくし、殿下が大好きなのです」
こんなことを兄君に話すのは恥ずかしい。けれど、聞かれたからには、きちんと答えたかった。
アレクシスは手を離し、礼をした。
「君の望みが、叶うといいな」
静かな言葉だった。セシリアは嬉しくなって、深く頷いた。
*
夜会のあと、アレクシスは弟を執務室に呼んだ。
彼は北方協定の資料を机に置き、婚礼の延期について尋ねた。アルベルトは困ったように笑った。
「兄上まで、その話ですか。セシリアは納得していますよ」
「本人に確かめたのか」
「言わなくてもわかります。私を応援してくれているんですから」
「応援していることと、寂しくないことは別だ」
弟は、少し面倒そうに息をついた。
「今は、次の功績を考えたいのです。兄上にはわからないでしょう。何もしなくても王太子なのですから」
アレクシスは言い返さなかった。代わりに、彼女が用意した資料の最後を開いた。
『会議では輸出枠の数字を先にお伝えください。そのほうが、殿下のご説明が伝わりやすいと存じます』
小さな添え書きだった。彼女自身の名前を売り込む言葉は、ひとつもない。
アレクシスが彼女を意識するようになったのは、三年前のことだった。商人に強く出られても一歩も引かず、かといって相手に恥をかかせることもなく、粘り強く話し合う少女の姿を見たのだ。そのあと弟に褒められ、隠しようもなく嬉しそうに笑った顔まで、今も覚えている。
心から愛おしい相手にだけ向ける、花がほころぶような美しい笑顔だった。
同じような光景を目にするたび、それが自分に向けられた笑顔ではないことに、アレクシスの胸は小さく疼くような痛みを覚えるようになった。
もちろん、彼女は弟の婚約者なのだから、求めたことは一度もない。自分の縁談も、一昨年までは隣国の王女との間で進んでいた。だが先方の継承事情で白紙となり、それ以降は新たな候補について審議が続いている。
自分がいつまでも選ばずにいられる立場ではないことも、承知していた。
それでも、今夜彼女が望んだものが、たった一日の逢瀬だったことが心に残った。
「アルベルト。彼女は、望みがないから待っているのではない」
「わかっていますよ。そのうち、ちゃんとします」
弟は、そう答えた。
そのうち。
アレクシスはため息をつき、閉じた書類に手を置いた。待つ人にしかわからない長さを、弟はまだ、知らずにいた。




