第五話 わたくしの時間も、幸せで満ちますように
秋、第二王子府の監査結果が国王へ提出された。
決裁を省いた約束、担当官への不当な差し戻し、そしてベルモント家への療養援助金。最後の項目については、療養に必要な薬代や滞在費とは別に、宝石の購入や子爵の借財返済に使われた金が見つかった。
リリアの病が嘘だったわけではない。病名を口実に、認められた用途を超えて金銭を引き出していたのである。子爵は二重の領収書を作り、リリアもその一部が衣装代に充てられていることを承知していた。
アルベルトは、彼女のためになるならと支出を認め、明細を確かめなかった。会計官の指摘にも、病人を疑うのかと取り合わなかった。
「私は、騙されただけです」
謁見室でそう主張すると、国王は提出された警告書を示した。
「疑問を持った者の言葉を、お前自身が退けている」
「ですが、私一人の責任では」
「そのとおりだ。だから、ほかの関与者も調べた。お前だけを免じる理由はない」
ベルモント子爵は不正受給分の返還を命じられ、宮廷での職を失った。抵当に入っていた土地も手放すことになった。リリアが支出を承知していた装飾品は売却され、返還金に充てられる。療養費の公的援助は、以後、医師と会計官が直接管理することになった。
アルベルトは第二王子府の運営権を失った。監督責任として自分の私財からも損失を補い、王都を離れ、地方行政の監督官のもとで働くことを命じられた。重要な外交交渉からは外され、独自の予算を動かすこともできなくなった。
兄を追い越すための舞台だと思っていたものが、ひとつずつなくなっていく。セシリアが残した引き継ぎ書を開いたのは、執務室の片づけを命じられた夜だった。
資料は整っていた。問題があるところには付箋までつけてある。自分が読まずに置いた注意書きも、そこにあった。
彼女が仕事を隠したから、困ったのではない。読めば済んだものを読まず、尋ねれば済んだことを命令だけで進めようとした。そう認めるしかなかった。
最後の箱には、以前の会議予定表が入っていた。取り消し線の引かれた余白に、小さな文字が残っている。
『午後、湖畔へのお出かけ。殿下のご都合により延期』
その横に、別の日付。同じ文字で、また延期。
アルベルトは指を止めた。仕事の時間は、彼女が守っていた。二人の時間は、自分がいくらでも消してよいものとして扱っていた。
*
セシリアに最後の面会の申し入れが届いたのは、その数日後だった。
父もアレクシスも、断って構わないと言った。セシリアは一晩考え、王宮の庭で短く会うことを選んだ。見える距離にマリーと侍従が控える。それが条件だった。
アルベルトは以前より痩せていた。彼はセシリアを見ると、すぐに頭を下げた。
「すまなかった」
セシリアは黙って聞いた。
「君の言葉を、まともに聞いていなかった。君が私を好きなら、何を頼んでもよいのだと思っていた」
謝ってほしかったのだと、今になってわかった。腹を立てられるばかりで、自分の悲しさは一度も届かなかったから。
だが、続いた言葉に、セシリアはゆっくり息を吐いた。
「やり直したい。今度こそ、君を一人の妻として迎える。地方へ来てくれないか」
彼は真剣だった。少なくとも、この瞬間は。
十年前の薔薇園を思い出した。まだ幼い手で道具を拾っていた、優しい男の子。あの人を好きになった気持ちまで、嘘にしたいとは思わなかった。
「お詫びのお言葉は、受け取りました」
セシリアは背を伸ばした。
「ですが、お戻りすることはできません」
「兄上がいるからか」
「今、わたくしが好きなのはアレクシス様です。けれど、あの方がいなくても、殿下のおそばへは戻りません」
アルベルトは唇を開き、閉じた。
「十年も、一緒にいたんだぞ」
「はい。十年間、大好きでした」
過去形を、はっきり口にした。胸は痛んだが、言い直したくはなかった。
「でも、わたくしが待っていた時間を、殿下と一緒に過ごした時間だとは、もう思えません」
彼が俯いた。セシリアは、もう彼を慰めようとはしなかった。
「君には、もう二度と、あんなふうに笑ってもらえないんだな」
返事はできなかった。できないことを約束しては、また待たせることになる。
セシリアは深く礼をした。
「どうか、お健やかで。これで、失礼いたします」
歩き出すと、名前を呼ばれた。足が止まりかけたが、振り向かなかった。小道の先にマリーがいる。その隣で、アレクシスが静かに待っていた。
彼の前に着くと、セシリアは自分から手を伸ばした。
「お待たせいたしました」
「おかえり」
握り返されて、ようやく肩の力が抜けた。少し涙が出たが、戻りたいとは思わなかった。
「今日は、難しいお話をしたので」
「ああ」
「帰りに、甘いものを食べたいです」
アレクシスが、柔らかく笑った。
「私も、ご一緒していいだろうか」
「もちろんです。お隣に、座ってくださいね」
その笑顔を、アルベルトは遠くから見ていた。取り戻すための言葉が、もう自分にはないことを、初めて受け入れた。
*
冬が来る前に、セシリアはアレクシスを誘った。
水色の手帳に残っていた湖へ、自分で行きたいと決めたのである。馬車の手配を侯爵家に頼み、湖畔の宿で昼食を取れることも調べた。仕事の計画書ほど細かくはしなかった。彼とゆっくり歩く時間だけは、多めに空けた。
「私を連れていってくれるのか」
「はい。ご一緒に見たい景色がございます」
アレクシスは、少しだけ驚いてから、たいそう嬉しそうに承諾した。
当日、湖面には淡い秋の光が落ちていた。対岸の森は金色に色づき、小さな波が石の岸を洗っている。
セシリアは手すりの前で足を止めた。思っていたよりも、ずっと広い。
「来てよかった」
口にすると、胸の奥がほどけた。誰かが連れてきてくれる日を待っていた場所へ、自分で来た。そして隣には、一緒に見たい人がいた。
「君が誘ってくれて、嬉しかった」
アレクシスが手を重ねた。風が冷たくなり、彼は持ってきた肩掛けを広げてくれる。
セシリアは裾を引き、彼の肩にも少しかけた。
「わたくしだけでは、申し訳ありません」
「これは、近くにいろという意味に取っても?」
頬が熱くなった。けれど、そのとおりなので頷いた。彼がすぐ隣に腰を下ろすと、肩が触れた。二人には少し小さい肩掛けの下で、指を絡める。
「お寒くないですか」
「いまは、全然」
目が合って、二人で笑った。
セシリアは鞄から細長い箱を取り出した。中に入っているのは、深い青の石を留めた銀の栞だった。
「いつもいただいてばかりですので。お返しではなく、わたくしも、贈りたくなりました」
アレクシスは、箱を両手で受け取った。栞を取り上げる指が、驚くほど丁寧だった。
「ありがとう。大切にする」
「お使いくださいませ。大切にしまっておくだけでは、寂しいです」
「では、毎晩使う。読んでいる間も、君を思い出すな」
そんなつもりでは、と言いかけて、やめた。少しは、そんなつもりもあった。セシリアは照れたまま、彼の肩に頬を寄せた。
しばらくして、アレクシスが内ポケットから小箱を出した。
「私も、渡したいものがあった」
中には、小さな青い石の指輪が入っていた。儀式のための大きな宝石ではない。毎日つけられる、細い輪だった。
セシリアは顔を上げた。彼の表情は、少し緊張していた。
「王太子妃としての務めは軽くない。私も、よい夫になるために覚えることが多いと思う。それでも、君となら、話し合って暮らしていけると思っている」
声が近い。握っている手が、温かい。
「セシリア。私と結婚してください」
十年間、待ち焦がれた言葉だった。しかし、いま嬉しいのは、昔の願いが叶うからではなかった。この人と明日も会いたい。来年の同じ季節にも、こんなふうに隣にいたい。その願いに、名前をもらったからだった。
「はい。わたくしも、アレクシス様と、暮らしていきたいです」
指輪が薬指に通された。彼はその手を見つめ、安堵したように笑った。
セシリアは、もう片方の手で彼の袖を引いた。
「……今日は、指先だけですか」
アレクシスが動きを止めた。
「口づけのことだと思っても、いい?」
頷くのが精いっぱいだった。彼が頬に触れる。近づく前に一度目が合い、セシリアは瞼を閉じた。
唇が、そっと重なった。
一瞬のことだったのに、離れたあとも息をするのを忘れた。目を開けると、彼も同じような顔をしていた。
「……もう一度は、欲張りだろうか」
尋ねられて、セシリアは首を振った。今度は少しだけ、自分から近づいた。
*
正式な婚約の裁可は、年が明ける前に下りた。
国王は、息子の私情だけで王太子妃を決めたわけではない。侯爵家との合意、セシリアの実務と宮廷教育の実績、関係各所の審議を経て、二人の婚姻を認めた。
一昨年白紙になった王女との縁談以降、王太子の婚姻相手は未定だったが、その期間をさらに延ばす理由もなくなった。婚礼は翌春に定められた。
第二王子の元婚約者という噂はあった。だが、婚約解消の責任がどちらにあったかは公表されている。北方協定の報奨をセシリア自身が受けたことで、その働きも改めて知られた。
何より、婚礼の準備を人任せにしない王太子の姿が、人々の口に上った。
「花の色を決めるだけで、なぜ殿下がこちらへ?」
侍従に驚かれると、アレクシスは当然のように答えた。
「私も結婚するのだから」
セシリアは隣で、笑いをこらえた。父はその話を聞いて、ようやく安心したような顔をした。
銀の懐中時計は、式の前に職人へ返した。事情を話すと、装飾を残して文字を消すこともできると言われた。セシリアは少し考え、買い取ってもらうことにした。
その代金で、旅行用の小さな時計を買った。刻む文字は頼まなかった。これからの予定を、自分で確かめるためのものだった。
*
春の婚礼の日、セシリアは控室の鏡の前にいた。
白い絹のドレスには、母が選んだレースが縫い込まれている。髪には、恋人になって初めてもらった真珠の飾りを添えた。
扉が叩かれ、アレクシスの声がした。
「セシリア。入っても?」
許しを得て入ってきた彼は、すぐには何も言わなかった。いつもより長く見つめられて、セシリアは落ち着かなくなった。
「あの……何か、変でしょうか」
「綺麗すぎて、言葉を考えていた」
マリーがそっと顔を背けた。肩が少し揺れている。セシリアは耳まで赤くなった。
アレクシスは近づき、手を取った。
「来てくれて、ありがとう」
「わたくしの結婚式ですもの」
「そうだな」
二人で笑うと、緊張がほどけた。父が迎えに来るまでの短い間、彼は隣にいてくれた。何度も心待ちにした花嫁の朝は、待つ時間まで優しかった。
式が終わり、夜になってようやく二人になった。セシリアは窓辺で、指輪を見つめていた。
アレクシスが背後から名を呼ぶ。振り向くと、長椅子の隣を示していた。近づくと抱き寄せられ、頬に口づけが落ちた。
「今日は、何度見ても足りなかった」
「一日中、ご一緒でしたのに」
「皆が見ていたからな。やっと、私だけの時間だ」
甘い声に、セシリアは肩へ額を預けた。彼の上着を握り、そっと囁く。
「わたくしも、こうしたかったです」
抱く腕に力がこもった。顔を上げると、唇が触れた。湖での口づけより長く、けれど急かすところのない優しさだった。
離れたあと、セシリアは彼の頬にも口づけた。驚いた顔が嬉しくて、今度は自分から笑えた。
「これからは、わたくしも甘やかしますから」
「それは、覚悟しておこう」
彼が笑い、もう一度、手を取った。
*
結婚して最初の誕生日、セシリアは夫から小さな手帳を贈られた。
水色の表紙に、銀の花飾り。古い手帳を捨てるようにとは言われなかった。ただ、新しい頁も必要だろう、と。
最初の頁には、アレクシスの文字で予定がひとつ書かれていた。
『来月の休日。セシリアと湖へ。雨なら、二人で次の日を決める』
セシリアは笑った。雨の予定まであるのが、彼らしかった。
その下に、自分の文字を書き足す。
『途中の本屋にも寄る。帰りは、好きなお菓子を選ぶ』
「ずいぶん欲張りになったな」
背後から覗き込んだ夫に言われ、セシリアは頷いた。
「まだ、ございます」
「何だろう」
「今、口づけてください」
彼が嬉しそうに笑った。手帳を閉じる間に、腰へ腕が回る。
「喜んで」
セシリアは顔を上げた。
彼の幸せだけを願って書いた言葉を、もう誰かに捧げ直す必要はなかった。二人で相談して、二人の時間を幸せにしていけばいい。
唇が触れる直前、セシリアは笑った。名前を呼ばれる前から、嬉しかった。
――完――
ここだけの話、作者は
攻撃力強め女性ばかりかいてたせいか、
えーー?この男(元婚約者)一回鈍器で殴らなくていいの?ってなりましたが、
幸せになるのが一番の復讐ということもありますよね。




