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9話 影法師の断罪

影法師の断罪


 思わぬ名がその場に響き渡った瞬間、ザックの手がぴたりと止まった。周囲に控えていた数人の連れも、一瞬だけ互いに顔を見合わせて驚きに目を見開く。


「は? ヒビキ? あはは、バカかよ! あんな奴の雑魚の名前を叫んでどうするんだ? もし聞きつけたとして、アイツが俺に勝てるわけないだろ。ふうん……お前、あんなゴミでクズのことが好きなのか?」


 ザックは下卑た笑い声を上げながら、警戒のために数人の見張りを周囲の茂みに配置していた。


 だが、その声を聞いていたヒビキの胸中には、妙に冷めていながらも、どこか悪い気はしない奇妙な感情が芽生えていた。あれだけ自分を見下していた少女が、極限の恐怖の中で真っ先に口にしたのが自分の名だったのだから。


 ヒビキは息を整えると、新しく手に入れた隠密スキルを発動させた。

 気配が完全に世界から消え去る。音もなく茂みを移動し、手始めに周囲に散らばっていたザックの連れの後頭部へ、正確に一撃を叩き込んで声を上げさせる間もなく気絶させた。


 さらに気配を極限まで遮断したまま、リサーナのドレスを力任せに剥ぎ取ろうとしているザックの真横へと歩み寄る。そして、すっと闇から染み出すように、彼のすぐ隣に姿を現した。


「お、お前っ!? いつの間に……っ! 見張りの奴らはどうした!?」


 突如として真横に現れた影に、ザックは飛び起きるようにして叫んだ。しかし、すぐに持ち前の傲慢さを取り戻し、引きつった笑みを浮かべる。


「……まあいい。ふん、リサーナを襲ったのはお前ってことにしてやるよ。俺たちのお楽しみが終わるまで、そこで大人しく見学でもして楽しんでろ。俺にぶっ殺されたくなければな!」


 ザックはどこまでもヒビキを見下した顔のまま、手に持ったナイフの切っ先を突きつけて脅しをかけてきた。


「はいはい……わかったよ……」


 ヒビキはまるで退屈な世間話に付き合うかのように、適当な返事を返した。

 その緊張感の欠片もない態度に、ヒビキが完全に怯えきっていると勘違いしたのだろう。ザックはあざ笑うように視線を外し、再びリサーナの体に跨がると、むき出しの肌へとナイフを突きつけた。


「お前も大人しくしてろよ。好きな奴の目の前で、たっぷり楽しませてもらうとするからよ。んふふ……っ!」


 その下品な笑みが歪みきった瞬間だった。


 ヒビキの腕が、目にも留まらぬ速さでザックのナイフを持つ手首を掴み取った。万力のような力で掴まれ、ザックの体がたやすく前方へと引き寄せられる。唐突にバランスを崩し、無様にのめり込むザックの顔面。


 そこへ、ヒビキはレベル600超えの規格外な力を極限まで加減し、最小限の力で膝蹴りを突き上げた。


ドスッ!!


 鈍く重い衝撃音が木陰に響き渡り、ザックの体はまるで木から落ちた泥袋のように、勢いよく後方へと吹き飛んでいった。



因果の代償


 鼻を突く血の臭いと、湿った土に沈むようなうめき声。

 先ほどまでの傲慢な覇気はどこへやら、ザックは地面に這いつくばり、無残にも潰れた鼻や口からだらだらと赤い血を流して四肢をピクピクと痙攣させていた。


 ヒビキはその無様な姿を冷ややかな眼差しで見下ろし、呆れたように小さく息を吐いた。


「はあ、どっちが雑魚でクズなんだかな。交流試合で毎回勝ったくらいで、お前の爵位はこれっぽっちも変わりはしない。試合はあくまで試合だってことを、お前はすっかり忘れてないか? お前は、伯爵家の息子。俺は世間から最弱と笑われているかもしれないけど、この広大な辺境領を統治しているヴァルハイト辺境伯家の息子なんだよ。試合の中で俺に木刀を向けるのは正当な手続きとして許されるけどさ、それ以外の私闘で、俺に対して本物のナイフを向けた時点で、お前の貴族としての人生は重罪で終わったんだよ」


「くそっ……最弱の分際で……!」


 ザックは泥と血にまみれ、掠れた声を絞り出しながら、必死になって上半身を起こそうとする。四肢に無理やり力を込め、ふらふらと膝を地についた。


「まぁ……俺が最弱だとしても、辺境伯軍が強ければ家としては何も問題ないんだよ。お前ひとりがどれだけ強くても、お前の家や領地が弱ければ、戦争が起きたって勝てるわけないだろ。それとお前、根本的な勘違いをしてるぞ。あの交流試合って、近隣の領地の俺と同じ世代の子供たちを招待してるだろ? 交流試合を通して将来の貴族同士の友好を深めるために開催されているだけで、誰が一番強いかを競わせるためじゃないんだよ。まあ、それはそれとして……これは、今までの試合でのお返しだ」


 四つん這いになり、苦しげに息を切らしていたザックの無防備な腹部へ、ヒビキは容赦なく重い蹴りを叩き込んだ。


 グハッ!


 肺腑の空気をすべて搾り出されたような絶叫を上げ、ザックは地面を何度も転がり、今度こそ完全に力尽きて動かなくなった。

 遠のく意識の淵にある男の耳元へ、ヒビキは冷徹な、しかし絶対の拒絶をはらんだ低い声を落とした。


「それと……リサーナには、二度と近寄るなよ」

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