8話 まどろみの平原、歪んだ影
まどろみの平原、歪んだ影
あれほどの規格外な力を手に入れてからも、ヒビキはしばらくの間、ただ静かに時を過ごしていた。
急激に跳ね上がった己の強さを周囲に知られれば、間違いなく怪しまれ、取り返しのつかない大騒ぎになる。そう直感していた彼は、辺境伯家の次期当主としての仮面を被り、相変わらず最弱の落ちこぼれとして息を潜めていた。
そんなある日のことだった。
近隣の領地から、両親たちの重要な会議に付き添う形で、あのリサーナとザックの一行が再び屋敷へとやってきたのだ。
顔を合わせれば、またあの不快な嘲笑と毒舌を浴びせられるのは目に見えている。ヒビキは彼らと関わるのを避けるため、気配を殺してこっそりと屋敷を抜け出した。
向かったのは、見慣れた屋敷の近くに広がる平原だ。
青く澄み渡った大空を見上げながら草むらに身を横たえ、流れる雲を眺めてやり過ごそうとしていた、その時だった。
風に乗って、鋭い悲鳴が耳腔を突き刺した。
それは、聞き間違いようのないリサーナの悲痛な声だった。
屋敷のすぐ近くとはいえ、ここは魔物の潜む深い森とも隣接している土地だ。いくら低級とはいえ、獰猛な獣が迷い出てくる危険性は常にあった。ヒビキは小さくため息をつくと、重い腰を上げて悲鳴のした方向へと全力で駆け出した。
しかし、茂みをかき分けた先でヒビキの目に飛び込んできたのは、予想していた魔物の姿ではなかった。
鬱蒼とした木陰の草むらの中。
リサーナの華やかなドレスが乱暴に踏みにじられ、その上に覆い被さるようにして彼女を無理やり押し倒しているザックの姿だった。
そういえば、ザックはリサーナが参加する交流会や、遊びに来るという情報を聞きつけると、必ず執拗に姿を現していた。その傲慢な瞳の奥で、彼女を異性として歪んだ形で意識している気配を、ヒビキも薄々感じ取ってはいた。
恐怖に顔を歪ませ、涙を浮かべて抵抗する幼馴染の姿を前にして、ヒビキの足がぴたりと止まる。
助けるべきか、それともこのまま立ち去るべきか。その胸中に、暗い葛藤が渦巻いた。
これまで散々自分を最弱とバカにし、見下し、まるで価値のない泥屑でも見るかのような冷酷な目を向けてきた少女だ。自業自得だと言い捨てて背を向けるには、あまりにも十分すぎる理由が、ヒビキの過去には溢れていた。
冷たい刃と、掠れた叫び
木漏れ日が遮られた薄暗い木陰のなかで、生々しい衣擦れの音と、絶望に満ちた絶叫が重く響き渡っていた。
普段のすました態度からは想像もつかないほど、リサーナは顔を涙と泥で汚し、必死になってその華奢な手足をバタつかせていた。
「キャァーーーっ!! 止めなさいよっ!! なにするの!? 止めてよ、バカ! 誰か、助けてぇぇぇーー!!」
喉を張り裂かんばかりの声が森の静寂を切り裂く。だが、その上にのしかかるザックの顔から、下卑た笑みが消えることはなかった。彼はリサーナの抵抗をいなすように片手で抑え込むと、腰のホルダーから鈍い光を放つナイフを滑らかに引き抜いた。
「あまり大声を出すなよ。お前の裸を、大勢の奴に見せる羽目になるぞ。昔から俺は、お前のことが好きだと言ってただろ。拒否し続けたお前が悪いんだからな……」
首筋に突きつけられた冷たい鋼の感触に、リサーナの身体が震え上がる。それでも彼女は、瞳に激しい拒絶の炎を宿してザックを睨みつけた。
「は? こんなことをして、無事で済むと思っているわけ!? いくら幼馴染でも許せないことよ……最低ね!」
「そういうことなら……たっぷりと楽しんだ後、お前は魔獣に襲われたことにすればバレないだろ。そこまでする気はないけどな。どうせ、お前は貴族の娘だ。男に襲われたなんて周りの貴族たちに知られれば、それだけで人生が終わるんだからよ。ま、これからも仲良く遊ぼうぜ!」
ザックは歪んだ愉悦を瞳に浮かべ、ナイフの先端をリサーナのドレスの胸元へと宛がった。容赦のない力が加わり、仕立ての良い水色の生地が、嫌な音を立てて裂けていく。
「……っ! やっ、やめて……助けて、ヒビキ!」
裂けゆくドレスを必死に手で押さえながら、リサーナが狂ったように叫んだ。
その口から飛び出したのは、自分を脅かす加害者の名でもなく、ただの通りすがりを求める声でもなかった。
普段は最弱と罵り、価値がないと見下し続けていたはずの幼馴染――ヒビキの名だった。




